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10 15
2010

映画評

『マトリックス』と知覚世界の幻影

 前回『エルム街の悪夢』と現実について書いたので、『マトリックス』の世界観についてものべておこう。

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 『マトリックス』では人は培養管の中に生き、コンピューターの仮想現実をリアルな世界として生きている。これは仏教や神秘思想でいわれたきた世界観と重なり、現実の世界は幻想にすぎないという世界観をSF映画にみごとにうつしかえた作品だといえるだろう。

 われわれは自分たちが生きているこの世界を幻想や幻と思うことは不可能である。こんなにリアルで生々しく、現実感にあふれており、これ以外に世界はないと考えるのはあたりまえである。

 では仏教僧はどうしてこの世を幻だというのか。

 『エルム街の悪夢』では意識や自我の幻想性をえぐり出していた。概念やイメージにすぎないものを現実に存在するもの、実体あるものという勘違いに人は惑わされている。これは人が社会生活を送るうえで記憶や概念、計画する自己呈示が重要になったからだろう。頭の概念、イメージが重要になってこれが存在しない頭の仮構であることにすっかり気づけなくなるのである。

 知覚・視覚世界は幻想なのか。この問いの答えは出せないが、生物の環境世界という考えにヒントがあると思っている。生物は環境で生きるために外界の現象を察知するための触覚や視覚などの外部センサーを生み出したが、この外界の知覚はあくまでも脳内でつくられる脳内映像や地図にすぎないと考えることができる。

 自我の過ちと同じようにイメージにすぎないものを現実と思っているのである。知覚センターの脳内ビジュアルである。それは「物自体」ではない。センサー装置に映る映像はわれわれはリアルな世界だと勘違いしているのではないだろうか。

 たとえばコウモリは超音波の反響によって環境の外形を知る。人間の視覚だって光の反射をとりいれて像を結んでいるにすぎないのではないか。視覚とは光の反射の脳内イメージでできた地図である。翻訳されたものである。耳は空間をつたわる振動やゆれを「音」という察知される知覚に変換されたものではないのか。振動の増幅装置が耳という器官だ。爬虫類や魚は振動をちょくせつからだに感じることができるからさほど耳を必要としない。

 視覚であれ、聴覚であれ、変換され、翻訳されたセンサー装置の映像を「現実」だと思い込んでいるのではないだろうか。それはあくまでも機器の映像であって、現実でも「それ」自体でもない。

 写真やテレビのモニターの自然の風景を見て、それが現実の自然風景だと思うことはない。しかし人は知覚においてこの過ちを犯しつづけているのではないか。知覚されるものとは脳内で変換された図像にすぎない。

 では人はこの知覚世界の囚われた世界から離れられるか。わたしたちが知覚器官でしか世界を知りえない生物だとするのならこの世界のほかを知ることはできない。もっともセンサー機器の発達で紫外線や赤外線で見た像を見ることはできるだろうが。

 仏教や神秘思想では肉体や意識を離れた存在であることを追及する知識もあるが、今日の科学観ではもちろん受け入れがたい知識である。臨死体験や幽体離脱でおこるような肉体知覚と異なった知覚をわれわれはもつことはできるのだろうか。それを設定しないことには意識や肉体からの脱同一化は図れないのであるが。

 たとえばわれわれは眠っているとき、意識や肉体感覚はどこにいっているのだろう。意識や肉体感覚がないとき、この世界は消滅しているのだろうか。もちろん他者の観察によってこの世界は滅んでいないし、自分も眠りから覚めることによってこの世界が存続することは常識になっている。眠りは死とひじょうに近い。わたしたちは眠っているとき、死んだ状態と同じになっているが、違いは目をふたたび覚ますことだ。

 神秘思想では境界のない世界、わたしと対象、あるいは内部と外部のないひとつながりの世界を体験することが悟りあるいは変性意識状態だといってきた。肉体と外界を区切ることによって世界を分断しているが、この世界は区切りのないひとつながりの世界だという。

 これ以上は迷宮になってしまうのでこのへんでやめておこう。ただ視覚・知覚世界は脳内の映像にすぎない幻であるという気づきは銘記しておきたいことにする。外に出れば、自分の肉体の外部に世界が広がっているという常識感覚、リアルな感覚はくつがえすほどもできないほどあたりまえの感覚になっている。せめてこの知覚世界を幻影だと思う知識は忘れないでおきたいと思う。


関連文献
生物から見た世界 (岩波文庫)動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)瞑想の心理学―大乗起信論の理論と実践唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門 (NHKライブラリー)無境界―自己成長のセラピー論

大乗起信論 (岩波文庫)

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Comment

心理主義的ミスリード

はじめまして、のりすけと申します。
ちょっと反論させて下さい。

>視覚であれ、聴覚であれ、変換され、翻訳されたセンサー装置の映像を「現実」だと思い込んでいるのではないだろうか。それはあくまでも機器の映像であって、現実でも「それ」自体でもない。

・・・・

>これ以上は迷宮になってしまうのでこのへんでやめておこう。ただ視覚・知覚世界は脳内の映像にすぎない幻であるという気づきは銘記しておきたいことにする。外に出れば、自分の肉体の外部に世界が広がっているという常識感覚、リアルな感覚はくつがえすほどもできないほどあたりまえの感覚になっている。せめてこの知覚世界を幻影だと思う知識は忘れないでおきたいと思う。


今回のうえしんさんお主張は、典型的な「心理主義」にミスリードされた考察だと思います。心理主義とは社会的・政治的であるはずの問題を、絶対個人の問題へとすり替えてしまう、ある意味政治的
プロパガンダに値します。この思考パターンは往々にして、自己への問いかけを不健全なかたちで内面化し、原理的に解答が出ないような不毛な議論や行動へ我々を追いやります。これは、現在の心理学や認知科学、コンピューター・サイエンスに散見されるデカルト的自己観の最大の悪癖だと考えます。

この心理主義的論法でいくと、「なぜ、人を殺してはいけないのか」という命題に対して、妥当な解答を期待することはできません。どうでしょう。

むむむ。

記事の方向でいっぱいいっぱいなので、どうもそちら方面の懸念までは頭が回らないというか。

かなり外側的な意見ですね。わたしの目的からは視野が外れすぎています。

禅や仏教の無我が戦時中の服従のプロパガンダに用いられたという批判はもちろん知っています。デカルト的な自己観というのはいまいちくわしくはありません。

心理主義といえば、たしかに仏教の唯識論を考えれば唯心論に通じるものだと思います。

政治的・社会的な問題を今回の記事探索から考えるのはあまりにもわき道すぎて、どうも触手がのびない問題かもしれません。この記事の文脈からはちょっと考えにくいというか。

この認識論追求で政治的な問題を考えなければならないものでしょうか。もちろん心理的問題も政治的文脈にもなりますが、この文脈の過程でわき見はしにくいです。

うえしんさん、気を悪くされたらごめんなさい。もともとそんなつもりはないのです。

今回はたまたま政治的、社会的な問題を例に挙げましたが、わたしとて特段それらにコミットしている訳ではありません。飽くまで例題として提示したまでです。

デカルト的自己観は、言わずもがな「我思う、故に我在り」という主観主義のことですが、まさにこれが現在における自己内在的思想の系譜(ヒッピー、ニューエージ、シュタイナー、スピリチャリズムetc)の横行の元凶であると密かに懸念しておるのです。

すべての悪性(若しくは良性)を自己責任として引き受けて、本当によいのでしょうか。どうも形而上学的思考ですべてを説明してしまう現在の哲学史の潮流に反感を憶えずにはいられません。

もちろん、個人的には哲学への愛に満ち満ちております・・・・

お騒がせしました。
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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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