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02 19
2019

書評 社会学

凡庸さを押しつける人の群れ――『大衆の反逆』 オルテガ

大衆の反逆 (イデー選書)
オルテガ
白水社



 二十代のときにおおいに感銘したこの本を二、三十年ぶりに読み返すことにした。NHKの『100分de名著』でもとりあげられているし、私も五十代になり、年をとってあらためて若いころに読んだ本をもう一度読み返す機会でも設けるべきだと思っていたからだ。しばらく読み返し月間にしたいと思います。

 私が二十代のときは、みんながやるからお前もやれとか、慣習とか、世間から押しつけられるものにおおいに腹を立てていた。マスコミであったり、流行であったり、生き方であったり。哲学書とか社会学に出会わなければ、そのような憤りに説明や理由を見いだすことはできなかっただろう。私は活字本が読めるようになったのは遅かったが、それから哲学・思想書といったたぐいを貪るように読むようになった。その記念碑的な本がこの本だ。

「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗でありながら,敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある。大衆はあらゆる非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別な才能を持ったもの、選ばれたものを巻きこんでいる。すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えないものは、締めだされる危険にさらされているのだ」



「つまり凡庸な人間が、自分はすぐれていて凡庸ではないと信じているのではなく、凡庸な人間が凡庸さの権利、もしくは権利としての凡庸さを宣言し、それを強引に押しつけているのである」



 あらゆる押しつけられるもの、みんながやっているから正しいこと、流行やマスコミの強制力といったものに腹を立てていた私にとってこの指摘はおおいに留飲を下げたものだった。

 ただし本書は危険なところがあって、自分も批判されているような大衆ではないと言い切れるのかという猜疑はつきまとうし、変に自分をすぐれた側におき、大衆でないと否定するのなら、根拠のない高慢さや侮蔑を生み出すだけである。それこそオルテガのいった大衆であり、賢者はたえず愚者になる恐れや自分への疑いをもっている。

 大衆というのは、真理や意見の慎重さや検証の手続きをもたず、ただ自分の意見が正しいと一方的に押しつけるもののことをいう。

「ヨーロッパにおいて初めて、相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えているタイプの人間があらわれたのだ。

…道理をもたない権利、無法の道理である。私はそこに、能力のないままに社会を指導しようと決心してしまった大衆が見せる新しいあり方の、最も明らかな表明を見るのである。

…しかし大衆人は、もし討論を受けいれれば自分の負けを感じることになるので、本能的に自分の外にある最高審判を敬う義務を放棄している。

…彼らはあらゆる正常な手続きを省略し、直接的に自分の望むことを強制するのだ」




「この自己満足の結果として、彼は外部からのいっさいの働きかけに対して自己を閉ざし、他人の言葉に耳を傾けず、自分の意見を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮しなくなる。

…だから彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように振る舞うことになる。彼はあらゆることに介入し、なんらの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動」の方式に従って、自分の低俗な意見を押しつけることになる」



 われわれは生まれたときから社会のあらゆる強制や決まりを押しつけられる。決まった型の人間、生き方をするように、あらゆるところから口うるさく指示され、命令され、忠告される。年齢にしたがった生き方であるとか、人生の型はある程度は社会の慣習や安全弁のようなものがあるかもしれないが(私はこれにもすさまじく腹を立てていたのだが)、クリスマスや流行、嗜好の強制にまでなると、さすがに弁護の余地はなくなる。

 私たちがいくらでも出会う決まった型や生き方の強制と、大衆は違うのだろうか。そういう旧来の生き方は、大衆の押しつけとは違った正当性のあるものなのだろうか。私たちはいたるところに自由な生を認めない大衆に出会い、大衆にこづき回され、私のまわりは大衆と呼ばれる人ばかりの集まりだったのだろうか。

 オルテガはこのような凡庸な大衆が生まれるようになったのは、文明の恩恵や継承を生まれたときから享受できたがゆえに、その感謝もありがたみも感じないから、つまり「満足しきったお坊ちゃん」ゆえに、その万能的な放漫さをもつにいたるになったのだといっている。

 イリイチが文明における「個人の無能力化」と呼んだものを同じようなもので、文明の技術や知識はどんどん向上していっても、その発明や創造をまったく知らずに魔法のように感じる無知な個人が増え、つまり文明の中の原始人があらわれているといったことと同じだ。専門化の弊害だ。文明の利器の責任も義務も感じず、ただ享受するだけの人間である。そこから無責任で放漫な万能感が生まれるという。

 だからオルテガは、大衆と究極にあるすぐれた人をつぎのようにいう。

「すぐれた人間は、自分の生を何か超越的なものに奉仕させないと生きた気がしないのだ。

…たまたま奉仕する対象が欠けると不安を感じ、自分を押さえつける、より困難で、より求めることの多い新しい規範を発明する。これが規律からなる生、つまり高貴な生である。高貴さの本質を示すものは、自己に課す多くの要求や義務であって、権利ではない。まさに、貴族には責任がある(ノブリス・オブリージュ)のだ」



 オルテガは少数の創造者・発明者のようなすぐれた人間が社会を率いるべきで、大衆がひきいるような民主制を否定するのだろう。ただ科学者も専門に閉じこもっているがゆえに大衆のひとりにほかならないといっているので、オルテガのいう精神の貴族に値する人はそう多くないのだろう。

 自己を律することのできる気高い精神の貴族。ギリシャやローマのあったような哲人王のような政治体制を望んでいるのだろうか。

 ただたとえば経済的にすぐれるような経営者がもし社会を支配するとするなら、民衆や国民はただその支配者に盲従し、服従するしかないのだろうか。支配者が搾取や恐怖政治、貧困をもたらさないとだれがいえるだろう。民衆や大衆はなんの権利も主張もおこなえない政治体制がよいといえるのか。オルテガはむかしの民衆はただ従うのみで、自分で思想や意見ができるとは思ってもみなかったといっている。

 オルテガのいった大衆は、民衆の画一化の恐れといったものを通してヨーロッパに広がり、トクヴィルやJ.S.ミル、ニーチェといった人にその警戒と考察をもたらした。それはエーリッヒ・フロムやデビッド・リースマンといった人たちの時代まで警戒を強くもたせた。

 こんにちでもこの1930年に書かれた書が、まるで現代のことを語っているように思えるのはなんら変わっていない。画一を押しつける人たちと、自分独自の生を生きたい人の葛藤や闘争がやむことはないのだろう。生は「私と同じ人間になれ」という強制とその葛藤と脱走の中で営まれる。


アメリカにおけるデモクラシーについて (中公クラシックス)自由論 (光文社古典新訳文庫)ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)自由からの逃走 新版孤独な群衆 上 (始まりの本)

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02 07
2019

映画評

映画情報足りてます?――『恐怖と愛の映画102』 中野京子

恐怖と愛の映画102 (文春文庫)
中野 京子
文藝春秋



 驚くほど映画の情報が入ってこない。みなさんはTUTAYAなどのレンタル・チェーンで新作チェックができるのかもしれないが、私はレンタルショップを使わないし、一般雑誌もほぼ見ないし、TVもヒット作以外は流さなくなったのだろうか。

 私は二十代のころ、哲学とか社会学の本を読みたいがために映画鑑賞を控えてきたという事情もある。驚くほど名作を知らなかったり、動画配信で見る機会があったとしても選別の利き目をほぼもってない。

 ストーリーになっている映画やドラマのMVがえらく気に入って、それを探しているうちに痛感させられたのだが、そういうときはこういう本に名作としてまとめられたアーカイブが役にたつ。選別された映画の情報というのは、新作の情報の波にもまれて、どの映画を見たらいいかわからなくなったときの基準にも役にたつ。

 この本は3ページほどに一作を紹介した短いエッセイだが、要点や魅力をしっかりとつかまえていて、見たくなる映画の紹介としては優れていると思う。

 テーマごとにあつめられていて、「母について」「恋とは生きること」「別れることができるなら」「戦争の真実」「家をめぐる物語」などの項目であつめられている。あまりまとめたテーマ項目はひっかかりはないが。

 私はこの中で25作品くらいは見たのかな。名作といわれるもので見ていないものがあれば、もったいないと思う。

 後世にも語りつがれる映画を見ていないとしたら残念であるから、こういう本にまとめられて、選別された映画を参考にしてみるのもいいことでしょうね。

 なおこの文庫本は2009年に出ています。

淀川長治とおすぎの名作映画コレクション (講談社+α文庫)死ぬまでに観たい映画1001本 改訂新版お家で鑑賞できる 100人の映画通が選んだ本当に面白い映画。109 (スクリーン特編版)心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド (立東舎)みんなの映画100選


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02 06
2019

TV評

薄かった――『90年代テレビドラマ講義』 藤井 淑禎

 90年代テレビドラマ講義 (平凡社新書)
藤井 淑禎
平凡社 (2018-03-15)



 テレビドラマの学問は可能か。

 童話の分析もそうとうにレベルの高い心理学的、歴史学的なものが出ているので、テレビドラマにかんしても研究は可能だと思っている。文学研究では、純文学と大衆文学に分けられるわけだけど、大衆文学は軽んじられるにせよ、より時代性が出るのは大衆文学のほうだ。テレビドラマに研究ができないわけがない。

 ただこの本はいろいろ疑問に思ったし、あまり感銘をうけたわけでもない。薄い分析がつづいた感じ。

 テレビドラマというのは好き嫌いが激しいし、見てないもの、覚えていないものもかなりあって、どうも最初のその段階で相性が悪いというのもある。

 この著者は脚本家の野沢尚と野島伸司を高く評価していて、00年代からはそのようなレベルの高いドラマは凋落し、「冬のソナタ」の韓流ブームで完敗したという評価である。

 個人的には私は90年代のドラマはチャラチャラしたものが多くて見ていなかったり、仕事で見られないこともあって、評価以前の話かもしれない。野島伸司はセンセーショナルな道具の詰め合わせで惹きつけるので、私はさいしょから評価していないし。まあ、こんなのは個人的な好き嫌いで、客観性がどれだけあるかといわれれば怪しいわけだけど。

 野沢尚の『親愛なる者へ』と野島伸司の『高校教師』を高く評価しているのだが、前者は見てないし、後者はセンセーショナルのウリだけと思っているし、著者のこの本の説明にも心を動かされなかった。

 『青い鳥』と『恋人よ』は技術の話だけで終わるし、『若葉のころ』と『スウィートシーズン』は聖地巡礼の話だけで終わるし。

 『Days』は地方から東京に出てきた若者の話で設定はすばらしいが、三角関係のダメダメ話ばかりで、90年代の良作以降のダメドラマとして批判される。私は見たことはなかったのだが、You Tubeの最終回前のダイジェストを見て、この三角関係は、それぞれのキャラに、夢をもつか、流されてゆくだけかの対比が造形されていて、けっして好いた腫れたの恋愛感情だけではないと読めたのだけど。

 あれ? 近代文学の名誉教授にしてはずいぶんと薄い分析ばかりと思えたのだが、まあドラマという大衆のメディアは好みや主観がじゃまして、偉い人の分析も色メガネで見てしまうのかもとお茶を濁そう。

 この著者は昭和三十年代の流行メディアを分析した『純愛の精神誌』という本も読んだことがある。もう記憶にはない。



▼私の薄っいドラマ変遷のコラムです。
 「なつかしのテレビ・ドラマ40年史





テレビドラマを学問する (125ライブラリー)テレビドラマのメッセージ―社会心理学的分析月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)みんなの朝ドラ (講談社現代新書)懐かしのトレンディドラマ大全―80~90’s創世期から黄金期、転換期まで


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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