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01 17
2020

幻想現実論再読

いやな思い出を思い出して叫びたくなることへの根本的解決策


 だれにでも経験あることだと思うが、いやな思い出がよみがえって、叫びたくなる時の根本的解決策をのべたいと思う。ネットでちょっとググれば、山のように同じ悩みがつづいている。

 突然嫌な思い出がよみがえって叫んでしまい悩んでいる(追記)  はてなブログ
 思い出し奇声してしまう人 ガールズちゃんねる
 過去の悔いを思い出し叫んでしまう私 発言小町
 昔の嫌な思い出や黒歴史がフラッシュバックして「うわあああ!」って  はてなブログ


 じつはこれ、はるかむかしからある仏教が瞑想という方法で、その解除策を教えてきた。

 だけど、こんにち学校で勉強するように、なにより記憶と思考力を鍛えることが学習の最大目的になっている。そのために記憶と思考を駆使しつづけることが最大善だと思うわれわれがみな陥るワナにかかっているのである。

 記憶を強化しているなら、なおさら過去のいやな思い出はよみがえるし、思考することが推奨されているなら、もっとそのいやなことを考えて考え、またそのいやな記憶を脳からひっぱりだしやすくなるだろう。この前提こそを、解除しなければならないのである。

 瞑想というのは、頭の中に流れてくる記憶や思考をぼうっとながめる地点に立つことである。考えたり、その記憶につられたりせずに、ただ流れるに任せるポジションに立つことである。そうすれば、思考は自然に去ってゆき、なくなる。この訓練がうまくなれば、過去のいやな回想にひんぱんにひきずりこまれることはない。


 大事なことは、記憶や思考というものが、私たちの頭の中以外にはどこにも存在しないということを、しっかり理解することである。そんなものは頭の外にはどこにも実在しない。私たちはこの記憶の「実在視」をしてしまうから、いやな思い出に叫びたくなるのである。

 この思考や記憶の「実在視」をやめるということが、瞑想の大きな目的である。いったい思考とか記憶とか、頭の外にあったことがあるだろうか?

 記憶というのは、もう終わってしまった過去を思い出しているだけで、この地球上からは永久に去ってしまったものである。もはや過去はどこにもない。二度と自分の頭の外に見出すことはできないものである。

 この世の時間は一度過ぎてしまえば、永遠にその過去がよみがえることはない。永久に無になる。永久に奈落の底に落ちる。

 ならば記憶とはなんだろう? もう存在しなくなった過去の残像でしかない。もう自分の頭の中以外にどこにも存在しない。まったく実在しなくなったものがわれわれの記憶である。

 そのような過去はたしかにあった。だがこの世のどこにも存在しなくなったものである。われわれはなぜまったく存在しなくなった頭の中の心象に、恥ずかしく思ったり、後悔したり、叫びたくなるのだろう? それはもう亡霊や幽霊のようなものである。あなたは幽霊を信じますか? 信じないとしたら、なぜ恐がる必要があるのだろう?


 われわれは過去を思い出しては、後悔や考え直すことをよしとする習慣にとらわれている。過去をひんぱんに思い出して、あのときはどうだ、こうすればよかっただのと過去を反芻することを成長やよいことだと思っている。その信念や習慣こそが、過去のいやな思い出をいつまでもよみがえらせる一役を買っているのである。

 過去をどこにも存在しなくなったものと見なし、いっさい過去をシャットアウトすると断行すれば、過去の悪夢は襲ってこなくなるものである。われわれ自身こそが、過去の反芻をよみがえらせる選択をしているのである。

 性格であるとか、アダルトチルドレンだとか、発達障害だとか、トラウマだとかいっさい関係ない。私たちがそういう過去や思考を大事にする習慣や態度をもっているからなのである。とうぜんのごとく過去をひんぱんに思い出して、いやな回想の地獄を見るのである。

 私たちは思考や記憶を大事にするあまり、その「実在視」にどっぷりとハマる。過去はもう実在しなくなったし、思考なんて頭の中以外にはどこにも実在しない仮想のものである。

 私たちは思考や記憶を「実在視」するから、その思いに泣いたり、笑ったり、悲しんだりできる。でもそんなものは頭の中にあるだけであって、頭の外にはどこにも実在したことがない。心象や感情の「実在視」にわれわれは陥っているだけなのである。

 思考や記憶なんてどこにも実在しない。そのことがしっかりと実感できれば、数々のいやな思い出もスルーすることができるようになるだろう。

 だが、われわれがこれまで培ってきた心の習慣をかんたんにやめることはできない。瞑想やマインドフルネスの本を読んでもなかなか身につかないものかもしれない。ここで提示したのは基本的な線だけである。あとはあなたの努力しだいである。そして、それはたいそうむずかしい。


▼これまでの心の呪縛を解く方法
 瞑想を理解するための10冊の本


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01 05
2020

幻想現実論再読

神秘思想のおすすめ本11冊


 神秘思想・精神世界は字面の怪しさや、スピリュチュアルのほかの怪しい本やクズ本があまりにも多すぎて、敬遠する向きがあるだろうが、セラピーの要素を多くふくんでいる点で利用しないわけにはいかない。

 神秘思想は「一なるもの」「大いなるもの」との一体化がめざされる知識技法が表面的なのだが、その過程において、言葉や思考で描かれる世界像の客観視や脱同一化がおこなわれる。すなわち言葉で描く世界から離れる。私たちはこの世界像に埋没しきっていて、客体化をほぼ行わないのだ。その幻想性、虚構性を暴くとき、ひとつの平安や安らかさを手に入れられる。愚かさを知る。

 言葉や思考で想像力を最大限駆使することが、われわれの時代の知性や優越とされる時代である。しかし言葉と思考が描く世界が感情をよびおこし、私たちを苦悩や悲嘆に投げ入れる面も、忘れるわけにはいかないのである。言葉がつくりだす世界はどのようなものか。言葉の描く世界は私たちにどんな歪みを見せるのか。言葉の悲嘆はほんとうに実在するのか。神秘思想は、言葉や思考という乗り物や道具を、あらためて外側から点検する作業なのである。

 私がこれまで読んできた神秘思想のなかから、これはよいというおすすめの本11冊を紹介します。神秘思想というのは、言葉や概念、観念でつくられた世界から離れる、その実在視をやめるということである。






  

 まずはこの本をおいて、瞑想も神秘思想もその必要性がわからないくらい重要な本と私は見なす。思考のメカニズムや、ネガティブに陥る連鎖の連関を分解してくれて、私たちの思考の過ちや愚かさを教えてくれる本である。マインドフルネスや瞑想はこのためにおこなわれるのだと明解になる。私たちは思考を捨てる、思考を流すという方法を知らずに、どこまでも思考で解決し、分析しなければならないという考えをもっている。そのためにどんな苦しい目や愚かな目に会っているか、この本で一目瞭然になる。バカ売れしたコラム本と比べようもないくらい、思考の原理を知ることができて、これをつかまずに思考から離れることができないだろう。


  

 まずは現代の神秘思想家にはどんな人物がいて、どんな思想をもっているか、一望できる見取り図が必要だろう。ハクスリーやアラン・ワッツからはじまって、クリシュナムルティ、グルジェフ、ラマナ・マハラシなどが紹介されている。その思想もくわしく説明されているので、読みたいもの、合いそうなものを選びとることができる。シュタイナーのオカルティストのような怪しい人も紹介されているので、取捨選択も重要になるだろう。神秘思想家がどのようなことを考えているのか、一覧と概要を手に入れられる書である。


  

 クリシュナムルティは、言葉を即座に捨てさせる禅と方向がまったくぎゃくに、言葉と理知を使い、言葉から離れる方法を模索した神秘思想家だといえるだろう。「思考は時間の運動にほかならない」とかいった難解な言葉回しになって面喰うことになるのだが、現代人にはまずは知性的な納得が必要だろう。カタい言葉で言葉のない状態にひきつがれるのは難しいと思うが、言葉での説得こそを現代人は欲するだろう。クリシュナムルティは講話集が多いのだが、この本は書きおろしのようなかたちで語られているので、おすすめ。『自我の終焉』の新訳。


  

 和尚=ラジニーシはあまりにも多くの講和集が出ていて、どの一冊をおすすめできるかむずかしい。だいたいは経典をテーマに語っており、経典から離れて自分の話しやすい方向に流れがちなのだが、この『般若心経』なら奥深い話が聞けるだろう。ラジニーシはゆったりとポエムみたいな口調で語り、なおかつ深みと重みをもつ。冗長すぎて、ゆったりしすぎなのだが、やはり深い思想もかねそなえている。好きな経典や本について語られている本を選べばいいだろう。


  

 ケン・ウィルバーの語り口はひじょうに学術的で、西洋的な明晰な論理に固められている。どこまでも論理の道で説明するスタイルはやはり西洋人の信頼である。東洋の神秘家に足りないのはこの面だと思う。ウィルバーはこの本で西洋の心理学と、東洋の神秘思想・宗教の段階的な接合をめざした。西洋では自我と影の一体化がめざされているのだが、東洋では身体や環境との一体化がめざされているとひとつのスペクトル線上においた。この本においてさまざまな古今の神秘家の引用も多く、展望も概括も広がる。神秘思想は西洋的な説明や論理がやっぱり必要だとこの本を読むと思われる。


  

 言葉や観念から離れるためには、時間の性質を見きわめることがとても大切である。過去や未来について思っていることが、現在にしか存在しないことを理解しないことには、時間の悲嘆から逃れることはできない。エックハルト・トールはその時間の性質をひじょうにシンプルに説明して理解させてくれる。私たちは過去を思い出すが、その過去はもうどこにも実在しないのではないのか。時間は瞬間に奈落の底だ。時間のこのような性質を知れば、私たちが嘆き苦しむ過去はどこにもないことがわかる。過去はもう幻想だ。神秘思想ではこの時間の非実在性をしっかり理解することがとても大切だ。それは言葉や心の非実在性もひきつれてくることになるだろう。


  

 シンプルで、簡明な言葉で語る巨星といってよい人だろう。おそらくは言葉や観念でつくられる世界像から離れることをしきりに説いた人なのだろう。私たちは言葉と観念の世界を離れることができない。醒めた人にとってはその世界は実在ではない。存在しない。しかしわれわれには実在の、どうしようもなくリアルな世界である。このスキマに気づかせようと、マハラジは質問者になんども答えて、質問者は面喰う。見ている世界が違う二人が対し合うとんちんかんさが、この対談集に頻出する。言葉や観念がすっかり落とされたマハラジが、言葉と観念の世界から絶対に出れない人と対し合う。禅の世界ではどこまでもすれ違うが、マハラジの言葉はどこまでも対談者によりそう。しかしそれでも理解できないのがわれわれである。言葉や思ったことが実在すると思いつづけるのがわれわれである。


  

 この本では「想像上の自我」といったものがどのようなものか白日の下にさらされて、その愚かさに気づくことができる。「自我」というのは自己賛美のキャンペーンのことである。さもないとその想像上のそれは、存在する価値を見出せない。だれかに侮辱された、だれかに不当な扱いを受けた、そう思うと自我はあわててみずからの価値上昇のキャンペーンをおこないはじめる。それが私たちが頭の中でずっとくりかえしつづけている「頭の中のおしゃべり」である。自分のそのような経験をなんども恥ずかしく思い出すことができるだろう。自己の価値を守る自我という愚かさを、みずからに突きつけられてあっけにとられる書である。グルジェフがこれをいっていたということだが、どの書に書かれているのか未確認だ。


 

 人類学者カスタネダが見いだしたインディアン呪術師ドンファンの思想を説明した書であるが、簡明にして重要な指摘がたくさんつまっている書である。この本のおかげでカスタネダの本に直接当たらずに読んだ気になってしまう。呪術師が語り出す「トナール」という守護神が、人間の言葉でつくりだす「共同幻想」を意味していると知ることは驚きである。言葉や観念、明晰さ、意味、過去といった人間の知性の過ちがこの本によって驚くほど明解にしめされる。言葉で編みこまれた「世界」を解体することこそが、このインディアン呪術師の仕事だったのである。「履歴を消しちまえ」など日常にも利用できる知恵の書である。


 

 言葉や思考の貼るラベルやレッテルを引きはがす試みをした本だといえるだろうか。私たちは即時にそれをよいものか悪いものか判断し、裁き、変えたり、管理したりしようことをおこなっている。そのおこないこそが、あるがままからの抵抗ではないだろうか。言葉での判断や制御が、世界に亀裂を入れる。言葉で判断された世界は、自我や身体の私、外界や独立した物体の世界像を即座に立ち上げる。色分けも亀裂もなかったひとつながりの世界に、独立したモノ・分離されたモノの世界が立ち上がる。原初のそのような試みを詳細に分析したこの本には驚かされるばかりである。読了後思わず再読したほどの感嘆の書である。非二元と紹介されるこの流れは、ヒンドゥー教が西洋人にバトンタッチされたところに生み出されていると私は捉えている。




 詩的で、あいまいで、象徴だらけの二行詩であるが、かなり深い神秘的次元を言葉にあらわしているのではないだろうか。シレジウスは17世紀ドイツの神秘主義的詩人である。あなたが不安にしている、地獄をつくっているのはあなただといったことや、神は無であり、外に求めれば求めるほどつかむことはできないなど、神秘思想でいわれていることが簡明にして語られている。あまりにも象徴や迂遠すぎるのだが、直接に語らないとこういう表現になるのだろう。




 以上がおすすめの11冊になる。言葉や観念の世界から離れること、神秘思想はかんたんにいうとそれを企図しているように私には捉えられる。

 私たちは当たり前のように過去を思い出しては嘆き、未来を思っては不安になる。だが、時間はこの瞬間に消滅していることを知ると、それらが実在しないことを実感できる。でもその思い出したもの、想像したものはなんなのか。

 それはこの世に実在しないものではないのか。その実在しないものになぜ嘆いたり、不安になったりするのだろう。私たちの思ったり、考えたりするすべては実在しないものではないだろうか。

 私たちはずっと実在しない夢を見ているのではないだろうか。

 言葉や思考で把握するもの――それらはすべて実在しない。自分について思い描くもの、過去の私も実在しないものではないだろうか。日常に思うもの、考えることも、実在しないのではないだろうか。

 私たちが当たり前にとり憑かれている言葉や過去の世界――それを落としてゆくのが神秘思想だ。

 それだけにとどまらず、分離されたモノの世界、身体の実在、誕生や死も打ち消されてゆくのが神秘思想である。このへんになると私の理解を超えている。

 言葉や観念、概念、思考の世界から離れてゆくことが、神秘思想の企図したことだ。神や一なるものとの一体化も説かれるのだが、その手前には私たちが離れられない言葉の幻想の死滅も、意図されている。そこに現代的な利用価値がある。


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01 03
2020

幻想現実論再読

太古から語られているもの――『世界の名著 バラモン教典』

 2020年、あけましておめでとうございます。
 本記事が2020年のさいしょの投稿になります。




 非二元・アドヴァイダを読んでいると、これはブラフマンやアートマンのバラモン教やヒンドゥー教ではないのかと気づいた。非二元の探究でつぎに読むものが見いだせず、とりあえずは『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギーター』を読みかえすことにした。


 『ウパニシャッド』

 『ウパニシャッド』は仏教がおこった年代とおなじくらいから成立し(紀元前五世紀)、紀元前二世紀には現在のかたちになったとされる。仏教と同時代なので、ものすごく古いというわけではない。

 ブラフマンやアートマンで語られる言葉が、禅と共通しているところが見受けられたりする。引用することくらいしか、この書には語れないな。

「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることはできない。聞くことの背後にある聞く主体を、あなたは聞くことはできない。思考の背後にある思考者を、あなたは思考することができない。認識の背後にある認識者を、あなたは認識することができない。この(見・聞・思考・認識の主体としての)あなたのアートマンが万物に内在しているのである」



 見る者を見ることはできない。対象は私ではない。禅や神秘思想でも聞かれる言葉が、バラモン教典でも聞かれる。

「この身体内の洞窟に潜む、アートマンを見出し、確認した人は、万物の創造者。――彼はいっさいをつくり出すから。世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。

…それを知る人々は不死となり、他の者はまさしく苦に至る。

…この世において何物も、多様に存在しないとは、ただの思考力によってのみ、考察されるべきである。
この世において、(万物を)、多様であるかにみなす者、彼は死から死に至る。
この滅びることのない恒久のものは、
全一的にのみ観察されるべきである」



 身体の内奥にひそむものが全世界にあまねくいきわたっており、あなたはそれであるというブラフマンの決まり文句がここでも語られる。バラモン教、ヒンドゥー教は外側に向けるのだが、仏教は外に向けることはない。

「聡明な者(アートマン)は生まれもせず、また死にもしない。これはいずこから来たのでもなく、まただれかになったこともない。この太古以来のものは、不生、恒常、永遠であって、たとえ身体が傷つけられても傷つけられはしない。…これは殺しもせず殺されもしない。

…原子よりもさらに小さく、大きいものよりもさらに大きいアートマンは、この世の被造物の胸奥におかれている。

…(アートマンは)すわっていながら遠くにおもむき、臥していながらあらゆるところに至る。歓喜でも非歓喜でもあるその神を、わたし以外のだれが知ることができようか。

身体のなかにあって身体なく、不安定なもののなかにあって安定している。

このアートマンは教えによって得られない。知性によっても、聖典をひろく学ぶことによっても。これ(アートマン、すなわち神)が選ぶ人によってのみ、それは得られる」



 ブラフマンのつかみがたい性質を語った節である。言葉ではつかめない、超越している。道・タオと通じる考え方である。

「独立自存の神は外側に向けて孔(感覚器官)をあけた。したがって、人は外部に向かって見るが、内部のアートマンを見ない。ある賢者は、不死を求めて、眼を(外界から)ひるがえし、(外界とは)反対の方向にアートマンを観察した。
愚かな人々は外に向かうさまざまな欲望のあとを追う。

…人が、形・味・香り・音・触感、そしてまた性愛を知るのは、そのよすが(であるアートマン)によってこそなのである。(アートマンが身体から抜け出したときには、)この世に何が残されよう。これこそまさしくそれである」



 身体の内部になにがあるのだろう。「私」は身体の中にいるのだろうか。ヒュームが語ったのは、感覚の束や思考といったもののみである。さらにはラジニーシにはなにもないじゃないか、無しかないではないかという。無が偏在していようと、私はなにをつかめるというのだろうか。


 『バガヴァッド・ギーター』

 『バガヴァッド・ギーター』は叙事詩『マハーバーラタ』全十八巻のうちの第六巻の一部を抜粋したものである。紀元一世紀に原形が成立したとされる。ここでもブラフマン(聖バガヴァッド・クリシュナ)のありようがかなり示されている。

 この中公バックスに訳されているものは、戦闘や冗長な部分は省かれているから、だいぶ小さなかたちになっている。

「非顕現の形相をもつわたしによって、この世界は満たされている。一切万物はわたしのなかに内在するが、わたしはそれらのなかには存在しない。
かといって、万物はわたしのなかに内在しない。…わたしの本体は万物を支え、万物の創造者であるが、本来、万物のなかには存在しない。
あたかもいたるところに吹く強力な風が、つねに虚空のなかに存在するように、一切万物はわたしのなかに内在すると知れ」



 万物はわたしのなかに内在し、わたしはそれらのなかには存在しないという。またわたしのなかには内在しないと矛盾したことをいう。言葉で言い表されて、その言葉がまた否定される。ブラフマンは語ろうとして、語れない状態である。

「はじめがなく、中間がなく、終わりがなく、無限の力をもち、無限の腕をもつ、日月を眼とし、火炎をあげる祭火を口とし、自己の光明をもってこの世界を熱するおん身を、わたしは見ます。
なぜなら、天と地のあいだのこの空間、およびあらゆる方角は、おん身によって満たされていますから」



 時間と空間を超越し、あらゆるものに満たされて遍在されているもの。それはどういう状態なのだろうか、どういうことなのだろうか。

「知られるべきもの、すなわちそれを知れば不死を得ることのできるものを、わたしは述べよう。それははじめがなく、最高のブラフマンであり、有とも無ともよばれないものである。
それ(知られるべきもの、ブラフマン)は、あらゆる方向に手を足をもち、あらゆる方向に眼と頭と口をもち、あらゆる方向に耳をもち、あらゆる方向に耳をもち、またすべてを包んで、この世界に存在している。
それは、すべての感覚器官の性質をもつかにみえて、しかもすべての感覚器官をもたず、執着を離れ、すべてを保持し、成分をもたず、しかも成分を享受する。
それは万物の外にあり、また内にあり、不動であり、また(身体と結合して)動く。微細であるために認識されず、遠方にあると同時にまた近くにある」



 この万物にひろがったものが、身体の内奥にもあるというのがブラフマン=アートマンなのであって、それを知ろうとするのがバラモン教である。しかしそれを見ることも、知ることもできないともいわれる。まことに形容されるものは、近づくことのできないものである。これを求めたインドや宗教のなしがたさがこんにちにも残されている。




 このほか中公バックスには、『ヨーガ根本聖典』とシャンカラの『不二一元論』も訳されている。とりたてて大きな感銘も、銘記することも感じられなかった。シャンカラは『識別の宝玉』がいちばんブラフマンのことを語っていると思う。

 その他にもバラモン教典がいくつか訳されているのだが、あまり得ることがなかったので、今回は再読せず。






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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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