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09 24
2020

神秘思想探究

明晰さとインテリジェンス――『今、永遠であること』 フランシス・ルシール

  

 著者はフランス人だから、フランス現代思想に影響を受けた者としては、フランス人のノンデュアリティ(非二元)の思想がどうなっているのか期待があった。期待どおり、明晰さとインテリジェンスを感じさせる書物であった。ほとんどのページに赤線を引くような濃厚な読書体験となった。

 フランシス・ルシールはクリシュナムルティに目を啓かれ、禅仏教やアドヴァイダ・ヴェーダーンタなどに学んだとされる。アメリカの東洋宗教への影響は知っているが、フランスではどうなっているかとんと聞いたことがなかったが、著者はアメリカに居を定めたようだ。西欧人には仏教も、ヒンドゥー教やバラモン教といってもよいアドヴァイダ・ヴェーダーンタも、ごっちゃに理解しているようだ。

 師匠はジャン・クライン、弟子にルパート・スパイラがいる。心では「それ」を感じるのはムリだから、師匠が必要だとフランシス・ルシールはいうのだけど、読書専門の私はどうしたらいいのだろう?

「ほんとうの自分とは、客体ではありません。五感で感じられるものではなく、心で知覚できるようなものでもありません。いつも何かしらの客体が、わたしたちの偽の性質とされています。例えば、体は客体です。知覚、感覚、体という概念の寄せ集めです。心もまた、客体です。ですが、ほんとうの自分は客体ではありません」



 フランシス・ルシールは、「客体」という言葉をよく使う。客体は、ほんとうの私ではありません。私と見なされる身体は目に見える客体で、ほんとうの自分とはないといわれるし、思考や感情も客体として感じられるもので、とうぜん自分ではない。ほんとうの私とは、五感でも心でも捉えられるものではないという。

あなたは、自分は意識だということはご存知なのですが、自分が気づきだということは、まだご存知ないのですね。気づきとはあなたであり、あなたの体・心を超えたものです」



「考えのすぐあと、知覚のすぐあと、感じたすぐあと、「わたしは個人としていて、こうした考え、こうした考え、感じ、こうした知覚を持った」と言います。ですが、これは真実ではありません。なぜなら、考え、感じ、知覚などがあるときには、考える人、感じる人、知覚する人という者はおらず、対象としての考え、感じ、知覚もありません。考えること、感じること、知覚することがあるだけです。なので、毎瞬、ワンネスしかありません。そして、これがあなたである者なのです。これが本当のあなたです」



 禅でよく聞かれる言葉である。見ている者も、見られている対象も、同じひとつのものであり、区切ることはできない。ひとつながりの行為があるだけである。主体と客体に分かれた世界などない。ただ見ている行為があるだけである。そしてそれがワンネスだといわれる。行為に埋没した瞬間を、悟りとよんでいいのだろうか。

 そして、フランシス・ルシールは私がめざしてきたような瞑想による無念無想の境地を否定する。非二元はあまり瞑想に重きをおかないのだが、私はそこに心理的安定の気持ちを求めてしまうので、ここをなかなか手放せない気がする。

「そしてある時点で、これは客体ではないと考え始め、非客体、つまり虚空として想像しようとし、通常は維持することのできない(それができるヨギもいますが)空白の状態に行きつきます。この状態は探し求めていたような壮麗さも必然もなく、至福でもありません。…先に進むには、ほとんどの場合、存命する指導者の存在が必要です。この空白の状態というのは、まだ客体です。この状態の先に行くには、悟りは心では到達することが絶対にできないことを、心が理解する必要があります。これが理解されると心は行き場がなくなり、自然と静かになります。この自然発生的で努力のない心の沈黙は、純粋に歓迎している状態です」



 安定した心の状態、無念無想の状態はまだ客体を追いかけているにすぎない。それこそ心の操作をおこなう自我の強化にほかならないのではないか。心を無にすることだって、心はできるのである。しかし心を超えたものを、心はつかむことはできない。

「わたしたちはまず、自分の本質を客体として見ようとします。そして、この試みが絶望的なものであることを理解します。次に、これを客体ではないものとして見ますが、ある時点でこの探求も絶望的な試みだったと気づきます。ついには心がすべての可能性に疲れ切り、どこにも行くことができなくなる、何も知らない、という状態にいることに気づきます。心を照らすこの光り輝く気づきを、心では手にすることができないことを理解し、動きをとめます」



 もうあとは迎え入れるしかない、恩寵があるだけだといわれる。探求や獲得、努力のすべてに疲れ切って、やめるしかない。そして待つことをすれば、また時間や到達を導入することになり、それも自我のはたらきにほからないと喝破される。八方ふさがりに閉ざされるしかないのである。

 レオ・ハートンの『夢へと目覚める』は、そのような探求や獲得、努力がすべてそれを不可能にするとなんどもつき返される本である。先に読んだこの本にまた引き戻された。








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09 18
2020

神秘思想探究

非二元に近い?――『禅 空を生きる』 アジャシャンティ

   

 さいきん非二元(ネオ・アドヴァイダ)の本を読んでいるのだが、このアメリカ禅の著者はそれらの立場と異なるのだろうか。

 日本の禅とどれほど共通しており、あるいはまた異なるのか。カリフォルニア生まれの著者は禅の修行をおこなって、霊的目覚めを経験したといわれる。ラム・ダスやアラン・ワッツなどのヒッピー・ムーヴメントの末裔なのか、それとも非二元の流れもあるのか。

 著者は子どものころから、覚醒体験をしているようである。木材と融合して自分がタンスの引き出しになったような体験、永遠の存在が自分の目を通してながめているような感覚。自分が子どもの身体から押し出されて、広大無限なものからながめているような感覚。心理学もたくさん読み、カウンセラーになろうとも思ったことがあるそうである。

 最後の目覚めとよばれるものでは、小鳥のさえずりとひとつになり、この世の感覚がなくなり、過去生がよみがえり、そのひとつのものは、木や岩や床などからいたるところから自分自身を見ていたことに気づく。

 禅ではあまりこのような覚醒体験を語ることは多くないと思うし、「愛」という一章も設けており、こういう部分は、一般的な禅ではないかもしれない。私は日本の禅を多く読んでいるわけではないが、感触的には道徳や生き方を説いたことが多いように思うが、この著者にはそれはほぼない。

 どちらかというと、この本は私の相性とはあまりよくないと思う。のちに残したい銘記や印象的なものが多かったわけではないからだ。深い洞察や語られた言葉の深さはあるのだろうが、がっしりとはつかまれなかった。それが禅ゆえなのか、この著者ゆえなのか、非二元のような解説的な文脈が不足だったかは、よくわからない。

「世界観とは自己観です。あなたの知覚というベールに覆われた世界は、実はあなたのマインドの中以外に存在しないのです。

…あなたとともに滅んでいくすべてのものは実在しないものばかりです。自分自身に関する見方や世界の見方、世界のあるべき姿やなりうる可能性のある姿、自分自身の理想の姿やなりうる可能性のある姿、そして自分が覚醒したかどうかなど。それらすべてのものの見方は、あなたの脳が働きをやめたとたんに消え去ってしまうもので、実際には存在しないのです。実際には何も起こっていません」



 私たちは考えや思考、自分や世界の捉え方、考え方が実在しており、それを中心にして生きているが、そんなものは底なしの空っぽ、無なのである。こういう捉え方は、ほんとに気づかない。そして実在すると思うまやかしの思考や言葉の世界を、ずっと私たちは生きつづけるのである。空想や観念の世界に埋没しつづけるのである。

「この瞬間を体験している主体がどこにもいなくても、その「無」という世界は知覚され体験されることに気づいてください。…あなたはそれを言葉にすることはできません。なぜなら、あなたが言葉にしたとたんに、それは変化してしまうからです。…それについてあなたが考えたとたんに、それは変わってしまっていることに気づくでしょう。…目覚めたこの瞬間をつかまえるのは不可能なのです」



 言葉や観念で人は捉えようとして、取り逃がしてしまう。現在やいまという瞬間も一瞬に過去になり、奈落の底に落ちこんでゆく。私たちはこの世界の原則をとり違えて、言葉や観念の実在しない世界を真のものと勘違いしつづけるのである。

「「…本当は、あなたは一度もここにいたことがない」と告げられるでしょう。ずっと時間の中にいたあなたはここにたどりついたことは一度もなかったのです。あなたの肉体はここにあっても、残りのあなたはどこか他の世界に行っていたのです」



 記憶や過去や、思考のなかに、私たちは四六時中巻き込まれ、ここにいたことは一度もない。私たちは実在しない観念や心象こそが実在だと思い、いまこの瞬間をとり逃がしつづける。

「あなたが目覚めるのではありません。すでに永遠に目覚めている存在が自らに気づくのです。その永遠に目覚めている存在とは、まさにあなた自身なのです」



 言葉や観念で編み上げられた「私」が気づくのではない。「私ではない」永遠の存在が目を開くのである。ずっとここにあって気づかないもの。そういわれても、やっぱり私たちは言葉や概念といった外側に探しつづけるのである。

「…私たち自身が開かれた空間そのものであり、その中で目覚めという解放が起こるのだと知ることです。私たちが自分の人間的な面だけを自分だと思いこんでいる…。私たちが手放して、この開かれた静けさの中に身をゆだねるとき、そこには終わりのない世界が広がっています。その世界ははじまりのときよりもずっと以前からここにあり、永遠に存在しつづけてきました。…つまり私たちは神秘の世界や別の世界で自らを開くのではなく、これからもありつづける世界で自らを開くのです」



 日本の禅はここまでいっていたかなと思う。こちら岸まで語って、むこう岸は沈黙して語らないが禅の作法であったように思う。そういう意味でこれは非二元の影響も入っており、やはりヒンドゥー教やバラモン教の系譜を含んでいるのではないかと思う。私はあまり宗教の違いにこだわらず、神秘思想の核だけを求めているから、違いのほうはよく把握してないのだけど。



▼アジャシャンティ自伝(日本語訳つき)






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09 14
2020

神秘思想探究

うつ病と神経症は神秘思想で治せる

 
 うつ病と神経症のメカニズムは、神秘思想を学ぶとわかるようになる。

 神秘思想は、私たちが当たり前に見なす認識や機能のあり方を変換する知識である。つまり、私たちは認識や機能の使い方をまちがっているという事実をつきつける。

 私たちはのべつ幕なしに頭の中で思考をおこなっているし、怒りや恐怖の感情がおこれば、私は抑えたり、なくしたりしないといけないと思っている。まさにそのおこないが、うつ病や神経症をひきおこすのである。

 神秘思想がおこなうのは、瞑想などで思考中心のあり方を変えることであり、「私」という概念の幻想性を悟ることである。人は思考を「私そのもの」だと思っているし、感情は「私」がコントロールすれば、なくしたり、消したりできると思っている。この思い込みや試みこそが、うつ病と神経症をもたらすものだ。

 私たちが当たり前にもっている「思いこみ」や「機能の使い方」がまちがっていることを神秘思想は教えるのである。


うつ病のメカニズム

 私たちは思考をすることはよいことだ、もっと考え、記憶し、反芻し、反省することが人間の成長や成熟だと思う社会に生きている。思考まみれになることが推奨される社会である。だからそのことがうつ病という病をひきおこしていることに気づかない。

 神秘思想、とくに禅や仏教は、頭を空にする瞑想をおこなう。自分の頭の中に去来する思考を、外側の風景をながめるように傍観し、流れるままにまかせる瞑想がすすめられる。

 私たちは思考が推奨される社会に生き、思考こそが「私」であると思っているし、思考をなくせば「自分の消滅」のように思っているし、過去や未来の思索や反省をとことんおこなうことがよいことだと思っている。

 うつ病の治療にもちいられる認知療法では、思考が感情をもたらし、その思考を書き替えれば、うつ病をひきおこすような感情を抑えられると考えている。悲しいことを考えれば悲しい感情がひきおこされるし、恐ろしい悲観的なことを考えれば、そういう感情がひきおこされる。

 ならば、思考をポジティブに書き替えたり、悲しみや恐れに巻き込むような考え方を緩和すればよい。神秘思想はそれからさらに一歩進めて、思考しなければ感情はないという道理で瞑想をおこなうし、思考が「私」であるという思い込みを脱落するように仕向ける。思考の脱落こそが、感情の病を抑えるかんたんな方法である。

 しかしここで誤りやすい落とし穴として、思考をむりやり消去させようとして、コントロールする主体の「私」を強めてしまうと、神経症がひきおこされるメカニズムを強化してしまうことになるのである。思考のみではなく、「私」の消去もおこなわなければ、次なる神経症の束縛が待っている。

 人間の感覚というのは焦点を合わせることが、「私の中心」や「私自身」であるという思いこみをつくりだす作用をもっている。思考ばかりしていれば、思考こそが「私」であると思いこむようになるし、そこからしか見えない風景が広がることになる。怒っているときには怒りだけになり、恐怖に襲われているときは恐怖だけになる。私たちはこの「同一化」の作用に捕えられてしまって、この視点からの展望だけの感覚になるのである。そしてそのときには、それ自身のコントロール可能性をまったく失うのである。

 思考が思考の制御をおこなおうとしても、同じ土俵であるそれらは制御をおこなうことはできない。外側に離れて、それ自身の土俵から離れてはじめて制御をおこなえるようになる。それ自身はそれ自身を制御することはできないのである。それこそが思考の沈黙をもたらす瞑想の狙いである。瞑想は、うつ病のメカニズムを見せるのである。


神経症のメカニズム

 先ほど思考の制御のことをいったが、神経症はまさにこの制御の失敗の病である。自分の恐怖なり、神経症症状を隠したり、抑えたり、なくそうとすることから、おこる。それを恐怖なり、恥なり、他人の目から隠そうとして、症状はもっと激化してしまう。自分でなした賢明な対応こそが困難を倍加するという皮肉な病である。

 仏教はむかしから「無我」になることをすすめてきたが、神経症にはまさにこの無我を感得することが求められる。といっても、なぜ無我にならなければいけないのか、どうやったら無我になんてなれるのかと道のはてしなさに感嘆するしかないだろう。

 神経症というのは、それを抑えなければならないという思いと試みが、それを継続させるという皮肉な病である。恐怖なり、症状なりは、そのまま放っておけば、自然に収まり、なくなってゆくものである。そこに人間が隠さなければ、抑えなければという思いと抑制を加えるからこそ、注目と分裂によって、その症状がよけいに強まってしまう。

 恐怖は放っておけば、自然にしぼむ。それに任せられないから、体内の違うギアにスイッチが入ってしまうのである。ここは身体内に「私」がいるという思い込みが、ひと役買っている。「私」が抑えなければという思いが、それを加速させる。

 神秘思想が示唆するものは、「私」などいないという認識である。身体の中に「だれもいない」。それは言葉でつくられた架空の概念であり、意志や制御を働かせる「私」などだれもいないと教える。言葉が主語と述語に分かれて、あたかも行為をおこなう「主体」や「概念」が実体のあるものがあると思いこませるひとつの誤謬だと教える。

 「私」が身体にも自分の中にもいないとしたら、どうだろう? 恐怖や症状を抑え、なくそうとする「私」などどこにもいない。判断や良いと悪いを色分けする「私」などどこにもいない。ただ、恐怖や症状はおこり、自然になくなるしかないだろう。それこそが、神経症を治す方法なのである。

 神経症は、私が抑えなければならないという思い込みによって発動する病である。コントロールする主体や「私」がいるという思い込みこそが、症状の激化をもたらすものである。恐怖があっても、症状があっても、なにもできない、コントロールする私などいないという実感があれば、症状は自然に収まる。それができないからこそ、神経症は人間におこるのだ。

 神秘思想は、身体の中に「私」という実体がいるという認識を、手を変え、品を変え、なくそうとする。「私」がいるという思い込みは強固である。過去を思えば、私という実体が強化され、人生を思えば、私がいたという実感が強くなり、思考はいろんな隙間から、「私」という実体の強化をおこなってくる。自分に不都合なものをなくそうとすれば、「私」の実体は強化され、悟りや覚醒をめざせば、また「私」の実体化が強くうながされる。観念がひきおこされれば、「私」の実体は煙を集めるように形をつくられる。

 神経症は、制御し、抑え、なくすることができる「私」がいるという幻想がつくりだす病である。その「私」という幻想を見抜くことは、宗教の修行が何年もおこなわれるように、困難なことである。「私」がいるという思い込みは、必然的に神経症という副作用を私たちにもたらしつづけるのである。


実体なきもの

 神秘思想が教えるものは、われわれ人間がいかにも実体なき幻想にまどわされているかという人間の認識の過ちである。われわれのふつうの認識のあり方にまかせたままでいれば、どんなに認識をまちがうか。

 思考ばかりしていれば、思考が「現実」に、「実際」にあることがまがいなきことのように思えるし、身体の中に「私」という主体が当たり前にあると思うようになる。過去を思えば、過去はいまもあるように思うし、未来を思えば、未来の不安は実体のように思えてくる。

 言葉や思考でしかしないものが、「実体あるもの」、「現実にある」ように思えてくる。言葉や思考は、頭の中を離れて、外側にかたちある実体あるものとして見た人などいるだろうか? その実体なきものに、われわれはいかに実体あるものと思いこまされていることだろう? 

 感情は私たちにとってはまがうことなく現実である。しかしその感情をひきおこした考えや思いは、実体としてどのように実在するというのだろうか? 考えや思いは、どこに、どんなふうに、実体あるものとして存在しているのだろうか? 吹けば飛ぶような幻想に、壁のような現実をわれわれは感じているのではないのか。

 「私」という思いも、身体の中のどこにいるというのだろうか? 意志や制御をおこなう「私」はどこにいるのか? 制御や思考をおこなっている「私」はどこにいるのだろう? 私たちはほんとうにその「主体」を見出しているのか?

 神秘思想が教えるのは、主体などいない思考や行為がただ自然におこる世界観の描写である。制御し、コントロールする「私」などどこにもない。「私」という主体などどこにもいない。思考や概念がつくりだした「まやかし」である。わたしたちはこの「概念」にすがりついて、数々のあやまちや誤謬をくりかえしてしまう。

 言葉や思考、思いなど、ありもしない実体なきものに、「現実」や「事実」としての世界を見せてしまう。実体なく世界にまどわされて、私たちは数々の錯覚や幻影を追いかけてしまう。判断や価値観を色分けする「私」があらわれて、選択や制御する「私」の概念はどんどん強化されてゆく。

 神秘思想が見せるものは、われわれが放っておいたら勝手に育つ認識の過ちである。言葉や思考がどんどん幻想を生み出し、実体なきものを実体あるものと思わせてゆく。過去や未来が現実にあるという思い込みもそのひとつである。時間はいましかありえず、過去も未来もいま現在から思われた心象でしかない。

 その認識の過ちの置き土産として、うつ病や神経症がわれわれにもたらされる。それらの苦しみは、私たちの認識のまちがいの訂正や改善を迫っているのである。

 
▼思考や感情、私の思い込みを訂正する本ですね。



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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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