FC2ブログ

HOME
12 07
2019

幻想現実論再読

実験の奇書――『存在し、存在しない、それが答えだ』 ダグラス・E・ハーディング

 

 神秘思想界隈であまりダグラス・ハーディングの名前を聞いた覚えがなかったのだが、1909年のイギリス生まれの哲学者・神秘家である。非二元のジャンルにふれるようになって、その実験的方法をはじめて聞くようになった。

 読後感としては、もどかしさが残った。理解できないもどかしさである。

 図解や実験で、即物的に、実用的に「それ」を理解させようとする稀有な書物である。しかしその実験がまったくぴんとこず、なにをいっているのか、実感としてつかめない。体感としては、私にはまったく失敗だ。

 翻訳がかなりまずく、レビューでも指摘されているが、流れが不自然すぎて、意味がつかみかねる文章が多すぎる。それ以前に、ダグラス・ハーディングの語っている文章や意図がつかみにくい困難も想像できるのだが。

 ダグラス・ハーディングの「それ」は、ヒンドゥー教やウパニシャッドの「ブラフマン」とかなり似ているといえる。虚空のなにもないところに、「見ているもの」があり、それが全世界にエーテルのように充満しており、人間はその枝分かれのように分岐しているといったような世界観である。ハーディングはいう。

「私たちは皆大元につながれているのである。私たち一人ひとりは、多かれ少なかれ、うまく設備を配管され、瞬間瞬間に私たちが受け入れることができるだけの心理的情報を流し込むバルブがついている。

それは実際、過去に存在し、そして未来にも存在するであろう厳密に分割できないたった一つの心なのである。しかし、私たちがさらに、あなたの心全体は唯一の心の全体であるため、あなたは、まさに神のすべての思考を入手できる能力を享受できるかもしれないと言うとき、あなたはそのことを疑い、ショックを受けるかもしれない」



 ダグラス・ハーディングは「それ」を見るための方法をシンプルな実験で提示する。人はながめる対象を見ることには得意だが、反対になにからながめているかと向きを変えることには不得意であるという。

 穴のくりぬいた紙に顔をあてはめて、鏡からながめたり、紙の筒に顔をはめて鏡を見かえしたり、私たちには下半身や上半身は見えるが、その上から見えないものはだれが見ているのかと問う。私にはこの実験がさっぱり実感をともなうものにならず、なにもつかめなかった。ながめている対象がX地点であり、ながめているものがY地点である。

「X地点からY地点へオリンピック以上の飛躍をしたあなたよ、今、見てみよう。自分が何から見ているのか、何がこれらの印刷された言葉を取り込んでいるのか、再び見てみよう。Y地点であなたは、それ自身をユニークで単一であると見て、広い世界より広く、世界を破壊したり再創造したりする聖なるパワーに恵まれている目を開いたのである」



 ハーディングは、単眼の目からながめており、もっと大きなひとつの目からながめているという。あなたは、一つ目巨人だという。

「私たちは集団妄想の無意識の犠牲者である。特に止めるのが困難なものは、人はここ中心において向こうでそう見える姿だという基本的妄想である」



 対象ははっきりとした物体や境界をまとった世界である。しかし私たちは見ているものを見たことはない。鏡や写真などで見たことはある。だが、自分たちの実際の目で見たことは一度もないのはたしかである。私たちは視覚のバルブに絞りこめられた像を信じ込んでいるだけで、このバルブを外すとき、つまり生物学的な狭窄器官を外すとき、もっと違った世界があるのだろうか。

 ハーディングが根拠としてあげるのは、私たちはこのどんな広がりや宇宙とも切り離して、一分でも生きられないという論拠である。

「四肢を切断されても、あなたは何十年も生き延びることができるが、しかし自分の太陽を切断されたら、どれくらい生き延びられるだろうか? 今の自分があるために何が必要かを自分自身で尋ね、その見積もりから、どの天文学的、地球的、人間的、人間以下のレベルを省くことができるか私に教えてほしい。

…本当の体はそういった宇宙以外の何だろうか? 宇宙以下では役に立たないだろう。あなたがここですべてであり、物事の全体であり、あなた自身のまさに身体である一つの絶対に分割できない肉体であるまで、あなたは正常ではない」



 ハーディングの世界観は、ひじょうにブラフマン的な宗教観である。だが聖なるものや道徳的な宗教を説かずに、実験的・即物的な神の体験方法を呈示する。まるで「不思議な国のアリス」のような書物である。

 私は面喰って、この書物の実験も説得も、まるで実感も理解できるものにはならなかった。理論や言葉として、そのような世界観を呈示していることの理解にとどまった。見ているものは「それ」であるという実感もともなうことはなかった。ただの情報が上すべりしただけである。

 こんな奇書が、こんなことを語る人がいたのだという驚きとあっけらかんさに置き去りにされた気分だけである。ハーディングはどんな世界を見ていたのだろう?



▼ハーディングの生涯を紹介した34分の動画。解説者リチャード・ラングには、ハーディングの実験を紹介した動画もある。






関連記事
11 30
2019

幻想現実論再読

あなたの悩みは、何時間前に起こったことですか?

 だれかにいやな言葉を吐きかけられたり、だれかに傷つける言葉をいわなかったかなと後悔したり、私たちは何時間も前、何日も前に起こった事柄をなんども思い出しては、不快になったり、不安になったり、後悔したりしている。

 心には時間がない。きのうの出来事でも、何年前の出来事でも、思い出せば、目の前にあるかのように後悔したり、腹立たしい気分になったり、いま目の前で起こっている事柄のように思い出すことができる。

 過去は永久にこの世から去ってしまった。二度とその出来事、事柄がこの地上にあらわれることはないのに、私たちはそれを思い出しては、激しい感情の動揺を経験する。私たちの悩みのたいていは、そのような過去に起こったことではないのか。

 なぜ過去の終わったことを、私たちの心は、いま目の前にあるかのように思い出すことができるのか。

 思考や言葉は、記憶を頼りにいつまでも過去のことを思い出すことができる。思い出せば、目の前に存在するかのごとく、感情をもよおすことができる。私たちはたいていは、このような思考と記憶の囚人になっている。

 有名な禅僧の川を渡る話があって、女人にふれることが禁止された禅僧が、川を渡れないで困っている女人を背負って、川を渡ったことがある。何時間も歩いた後に、もうひとりの禅僧が悩みつづけて、ついに女人の禁制のことを口に出した。問われた禅僧は女人をとっくに降ろしたのに、おまえはまだ女人を背負っていたのか、といった。

 禅のいま・ここにというのは、過去を背負わないことである。出来事はその出来事とともに終わらせる。しかし私たちは、過去や出来事を反芻し、反省するのがよいことだと思っている。過去に終わってしまった出来事をいつまでも背負いつづける。

 「覆水盆に戻らず」や「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、過去は永遠に終わり、二度とこの世に姿をあらわすことはないというこの世界の時間の絶対の法則をいった言葉である。

 私たちはこの時間の絶対の法則を破る。思考や記憶は、時間の絶対の法則を侵犯しつづける試みである。ハナからそのような侵犯することが存在理由だ。

 もう存在しなくなったものを、もう一度心で再生するのが、思考や記憶だ。いわば、ハナから存在しない、実在しないものなのだ。私たちは、その実在しない「仮構」にいつも悩み苦しんでいるのだ。つまり、思考や記憶はもう「亡霊」や「幽霊」のようなものだ。

 終わった過去を反省、反芻することが、成長や精神によいといった考えもあるのだろう。しかし思考や記憶は、私の意志とかかわりなく、勝手に繁盛してゆくものである。それを断ち切ればよいという考えも、禅以外にはあまり耳にすることもない。そして過去の憂鬱や後悔にずっと囚われて、うつ状態までまっしぐらだ。

 その愚かな状態を断ち切るには、過去がこの地上から永久に消えてしまった、奈落の底に呑みこまれたという図を、強くもつことである。過去は強烈にこの瞬間に消滅していってしまう。無になり、二度とこの世に甦ることはない。この図を頭の中に刻印しないかぎり、思考や記憶はなんども頭の中に過去のリピートや想起をくりかえすものである。それこそが、私たちの心の機構というしかない。

 人間にとって過去の反芻こそが「自然」な状態である。過去をまったく断ち切ることは、ぎゃくに「人為」や「気づき」である。その行為が愚かであることに気づかないと、過去の反芻と感情の最悪な隘路は避け得られない。無知であることは、過去の後悔や罪悪感の囚人になることである。

 私たちは思考することがとてもよいことだ、成長に欠かせないという文化の中で生きている。ためにいつまでも過去の後悔や反省から抜け出すことができない。でも長年人間をやっていると、過去を思い出すことがどんなに苦しいことか、数百回、数千回経験したことがあるだろう。このツラい気もちをいつまでも抱えこむことがほんとうに人間の成長につながるのか。なぜ精神の穏やかなこと、のびのびしていることを、成長の土台と見なすことができないのだろうか。

 起こった出来事はいつでもその瞬間に手放してもよい。それはこの世のどこにも存在しない幻、絵空事にこの瞬間になってゆく存在である。そして、私たちはその実在しない「絵空事」に悩まされることがスタンダードになった愚かな存在である。

 私たちはだれひとりとして、この世界の時間の法則から逃れることはできない。過去は猛烈に、過去を奈落の底に呑みこんでゆく。起こった出来事をこの世界に再生することは二度とできないし、死んだ人をよみがえらせることも、起こってしまった出来事をくつがえすこともできない。

 ただ記憶と思考だけがそれをできると信じている。二度とくつがえらないのに、いつまでもくつがえるかのように、過去を頭の中で転がしつづける。過去は二度と帰らないのに、不快と後悔の気分だけをくりかえす。なんのために? 未来の教訓やこれから起こることへの対処としてはわかるだろう。しかし悔恨と後悔のためだけにするのでは、なんの益にもならない。

 過去は永遠に奈落の底に呑みこまれてしまった。過去は二度とよみがえることはない。思考は、この時間の絶対の法則にならうべきなのである。そもそももう変えようのない出来事であり、永久に凍土の中に閉じこめられてしまった。

 過去は永久に手放してよいものである。そのように生きるとき、精神はいまよりもっと身軽に、さっそうと前を向いて歩いてゆくことだろう。この世は、女人を背負った人、家財一式、家までも背負ったような人たちがあふれる世の中である。それで身軽に歩けるのだろうか。思考こそがその重いお荷物である。



関連記事
11 25
2019

幻想現実論再読

言語が誤って見せる世界――『ギリシア哲学と現代』 藤沢 令夫



 スコット・キロビーの『悟りを生きる』を読んで、神秘思想には言語ラベルをひき剥がす試みが大きな成果をもたらすのではないかと思い、思い出したのが、はるかむかしに読んで感銘してずっとひっかかっていた本書である。

 この本では言語の「主語-述語」という文法が、主語に実体があるという観念をつくりだし、さらには自然知と人間の生き方や倫理の知を切り離したという説がくりひろげられる。言語の構造が、人間にこの世界の認識を独特なものに仕立て上げるのだ。

 神秘思想は言語学から理解できるのではないかと、図書館の言語学の棚をざっと見てみたが、言語学のめざすものと神秘思想のめざすものはあまりにも違いすぎて、参考にはならないと思えた。言語学が、神秘思想に役立つ日常のそぼくな言語ラベル自体をひき剥がすという試みをおこなうわけがないのだ。

 この本は1980年に出されて、いまはもう絶版になっているが、言語が二元論的下絵をつくりだすという壮大な説には、ずいぶんと感銘を受けたことを覚えている。人類の壮大な過ちが一望できるかのような感動を与える書である。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 』と似ている書物だといえるだろうか。

 言語はこの世界にいかに誤った世界を見せるようになるか。たとえば、「稲妻が光った」という言葉は、稲妻という「実体」があって、光ったという状態が別にあるものなのか。稲妻と光は同じ現象ではないのか。言葉はあたかも稲妻という「実体」を想定させるのである。

 同じように、「私は考えた」「私は見た」「私は歩いた」といった言葉でも、「私」とそれぞれの行為は別のものとして切り分けられるか。「私は見た」にしても、私には景色や視覚が与えられているだけで、見ているときに「私」は見えない。言葉は、「私」という実体や仮想があると思わせる根本の誤謬をふくむのではないのか。

 主語や主体といったものはほんとうにあるのか。神秘思想でいわれるのは、「見るものと見られるものは同じである」といったことや、歩いたり、行為する私がいるのではなく、ただ歩かれたり、行為される状態があるだけだといわれる。言葉には根本的な誤謬や勘違いさせる文法構造があるのではないのか。

 切り分けられないものを切り分け、分断や線を引き、仮想の実体や固体があるように思わせる。たとえば胴体と頭とかかんたんに区切るのだが、当たり前のことだが、胴体と頭を切り離したら、人間はもう生きていられない。雲や煙とかかんたんにいったするが、それはいまも変化しつづける「状態」でしかないわけで、実体や固体として固定されているわけではない。人間だって長いスパンで見れば、変化しつづけ、固定しているわけでもないし、いずれ存在しなくなるものだ。長い目で見れば、雲や煙のように変化しつづける「現象」といえる。

 こういう言語には過ちや仮想をつくりだすという暴露を、言語学がやっていたらいいのにと思ったのだけど、言語学はそういうことには手を出していないようだ。言語が誤って見せる世界。それをていねいに見ていけば、神秘思想家がいうようなワンネスの世界に近づけるのだろうか。

 この本の主な目的は、科学の知と生き方の知が分離した根源を探り、その思想の原初をギリシャ哲学にもとめ、その解決を見いだそうとした書である。すこし難しいが、ずいぶんと目が啓かれる思いがする書である。

 神秘思想の文脈から参考になるかと読みかえしたが、もちろん本書の目的はそうではない。だけど、近いところにある書なのかもしれない。


ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)科学と近代世界 (ホワイトヘッド著作集)偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)


関連記事
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

twitterはこちら→ueshinzz

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top