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09 25
2016

毒親・親子病理

日本は基本、性善説――『しつけ』 原ひろ子 我妻洋

61gt1P9cg7L__SL500_SX357_BO1,204,203,200_しつけ (1974年) (ふぉるく叢書〈1〉)
原 ひろ子 我妻 洋
弘文堂 1974

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 本屋の子育て論をみていると個人的に主張された本だけがならび、客観的、全体的に子育てを捉えた本がひじょうに目につきにくい。こんな偏った子育て論ばかり読んでいて、だいじょうぶ?と思うのだけど。

 この本は昭和49年に出された古い民俗学の本であり、むかしの子育て論を広い目でながめるという点でうってつけの本だ。

 ちょっとおカタイ民俗学の調査も見えるが、比較文化論や文化人類学まで目をくばった広範な視野が、なかなかおもしろい部分もあった。

 昭和40年代くらいの比較文化論といえば、ベネディクトであり、甘えの文化論を書いた土居健郎だった。なぜ甘えがあの時代にあんなに人々の口にのぼったのか、労働条件的な厳しさを抑えつける要因でもあったのか、ふしぎでしょうがない。

 この本はカーディナーやフロムといった人まで論じて、文化とパーソナリティ論まで踏みこんでいる。

 基本的に日本のしつけは次のようなものだったと思う。

「人間は、放っておいてもそうわるくなるものではない、いや、あまり小さいときから厳しすぎる育て方をすると、自分は継子ではないかと考えてみたり、ひねくれた人間になってしまう、もっとも、あまり放っておくと甘えすぎる人間になって、あとで本人がつらい目にあうから、しつけたりきたえたりしてやらねばならない」



 性善説である。いっぽう、性悪説にしたがって冷たいしつけで育てられると、世の中や人にたいする基本的信頼が育たず、他人は敵意をもっているように思えるし、たよりのなるのは自分だけだという世をすねた態度を育てるのではないだろうか。

 基本的信頼感をつちかえた人は、他人も自分に好意をもっているだろうと受けとるし、おたがいに信頼し合って生きる関係をつくりやすい。

 このような因果関係を知らず、厳しいしつけや早期教育がおこなわれれば、どのような子どもになるのだろう。

 基本的に日本は民俗社会的な基盤のうえに、西欧的教育法や知識が移植されて、のみこまれたり、反発されたりして、民俗社会的なものがさいごには勝つような風土があるのではないだろうか。

 昭和49年ころのしつけ観からだいぶ変わったと思うが、民俗社会的な部分は学べるものがある本であった。


しつけの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)日本人のしつけと教育―発達の日米比較にもとづいて (シリーズ人間の発達)日本人のしつけ―家庭教育と学校教育の変遷と交錯教育言説の歴史社会学

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09 16
2016

毒親・親子病理

昭和40年代からの俯瞰――『自由を子どもに』 松田 道雄

4004121388自由を子どもに (岩波新書 青版 879)
松田 道雄
岩波書店 1973-12-20

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 昭和48年に出た古い本で、げんざいの子育て観を俯瞰してみるにはいい本。著者は1908年、明治41年生まれだから、明治・大正・昭和の子育て観の変遷が読みとれて、参考になる。

 いいことばかり書いていると思う。社会的な俯瞰もやさしく説明してくれるし、自分が自分の主人になる人生のたいせつさもしっかりと説いてくれる人である。ただ、ぎゃくに自由にたいする反対論者は、たとえば国家主義者であるとか、厳しい教育を説く人からの反論もあわせ聞きたいとことだけど。

 自由を尊重するということは、年下や地位の下からの者の反抗や攻撃も受けることをとうぜんに招く。自由尊重論者はそのような事態にいたったときに、自分のプライドや立場を守らずに寛容にかれらのいい分を聞けるだろうか。自由というのは他人の反抗や攻撃も招き入れるということなのだ。

「二十年も三十年もたてば、子どもたちは今の文化とちがったものをつくるでしょう。今の文化のわるいところを改めてくれるにちがいありません。教育としておしえたことの一部は、否定されるでしょう。…教育は教育を否定するものをそだてるという矛盾をもっています」



 教育も医者と同じように自らの仕事をなくすために仕事をしている。そういう自己否定を意識した職業観をもてる人が、依存や搾取におちいらない関係や倫理観をもてる。

 昭和40年代といえば、学生運動さかんなころで管理教育が批判されていたころだ。管理は管理に都合の悪い子どもを切り捨ててゆく。教育は混同されがちな管理になってはならないというのが著者の考え方だ。学校の群れや友だちというのは、この管理に適応したありかたであって、個人の生をぞんぶんにはのばさない抑圧の適応だと、わたしは思う。

 この本は江戸時代の子育て法も説かれていて、家のしきたりが厳しかったのは、家が私立の福祉施設を担っていたからだと説く。家にたよってさえいれば、生まれたとこから死ぬ時まで、めんどうを見てもらえる。外から来た嫁はその家のしきたりに合わせなければならず、子どもを甘えさせることはゆいいつの息抜きや癒しであっただろう。江戸時代の子どもが世界的にも見て、甘かった理由の一端である。

「昔の家のように整然としたおとなの秩序のあるところでは、体罰は子どもにルール違反への罰としてうけとられますが、一対一でおかあさんとむきあっているときは、おとなのルールとおかあさんの気まぐれを区別できません。親の権威がルールとして確立していないところで体罰をくわえると、たんなる暴力行為としてしか感じません。子どもに屈辱と怨恨をひきおこすだけです」



 この著者はひところよくいわれた親父の懐古趣味のような子どもの遊び場がなくなったことが、子どもの自主性や自分の人生を生きる自立をそだてないと、説く。そこで子どもは、母親の管理から離れて、自分の人生、自分が主人となる行動をそだててゆく。

 子どもは家がたとえ厳しいとしても、母とべったりであったとしても、子どもだけの自由空間の中で、親の厳しさからのクッションや立ち直りを得られたし、自分が自分として生きるための自立を学んだのだという。

 子どもの遊び場はノスタルジーとして、大人の特権や長所として語られるのだが、いまの子どもだって学校が終わった後は子ども同士で遊んでいるのであって、大人になったものには職場地域に縛りつけられているために見えなくなっただけである。ニートとか失業していたら見られる風景であって、勤勉な大人には見えないだけである。どんなに管理が進もうと、親とべったりであろうと、子どもは自分の世界をつくってゆくものだと信じたい。

 それにしても、母とべったりの密室は、子どもにとってそれだけでも抑圧であるとは、このことに気づいているだろうか。

「おとなが子どもの知的な未発達をみくびって自分より一段ひくい人間であるようにかんがえるのは、放漫でしかありません。…自分を完成した人間と思い、おとなであるだけで未完成の子どもを教育する資格があると思いあがっているから、自分にわからないところをすべて未発達のせいにしてしまうのです」



 子どもはその年齢で人間として完成しているという著者の考えは、子どもを低く見ている現代からしてみれば、尊敬に値する考え方である。

 著者は明治の後半に生まれ、大正自由教育の恩恵をうけたことを感謝しているとのべる。明治から生きた著者の、げんざいにも参考になる子育て観、社会観のうつりかわりが、ながめられる本である。現代の相対化ができるね。


定本 育児の百科〈上〉5カ月まで (岩波文庫)私は二歳 (岩波新書)私は赤ちゃん (岩波新書)恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

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09 13
2016

毒親・親子病理

世界観がこんなに大事なんて――『加害者は変われるか?』 信田さよ子

4480432477加害者は変われるか?
: DVと虐待をみつめながら (ちくま文庫)

信田 さよ子
筑摩書房 2015-02-09

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 児童虐待、DV、性犯罪について語たられた短い文章が合わさった本だが、覚えておきたい箇所が二か所あった。

 一点は、被害者や犯罪で身内を失った遺族の、「なぜ?」や「どうして?」という問うてしまう世界観のことである。

「自らの受けた被害・苦しみに「意味」を与える信念体系を再構築しなければ、被害者は生き続けることすら困難になる。

被害者は、理不尽な事件・できごとによって、世界に対する信念、秩序への信頼を突然、根底から打ち砕かれたのである」



 この世界を説明する世界観はそれほどまでに大切なのだ。たんに説明や言葉にすぎないこの世の捉え方は、人生の生き死にを左右するほどまでに、人間の生に食い込んでいるのである。

 アダルト・チルドレンの批判として、「他人のせいにするな」や「親のせいにするな」という批判を投げかけられるのだが、「あなたに責任はない」といわれることが、「世界が違って見えた」「謎が解けた」と思うほどの衝撃を与えるそうである。

 その理由は、「自分が悪い子だから」という世界観を、かれらが引き受けているからである。親が殴るのも、親がケンカするのも、すべて自分が悪い子だからだ。このような世界観を抱いてしまう理由を、信田さよ子はつぎのように説明する。

「その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。三歳から六歳までの幼児期には、子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天道説的世界を生きる。せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果による意味を形成し、そのことにより世界は秩序立ってくる。そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく」



 自分が殴られたり、父が母を殴っていると、世界は真っ二つに割れてしまう。その不穏な世界は、「自分は悪い子だから」という論理によって、世界の秩序は組み立てられてしまう。それによって、説明可能な世界観は存続するのである。

 そのような「自分が悪い子だから」という世界の責任をすべて自分に収めてしまう世界観は、「生きている価値などあるのだろうか」「この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という疑問も胚胎させる。

 世界観がいかに人間にとって重要であり、根源を担っているかを悟らせるような記述である。この点はもうすこし深く知りたい。

 もう一点は、妻を殴るドメスティック・バイオレンスは、夫の方が「被害者」であり、「正義」であるという論理をもっているということである。

 第三者から見れば、暴力をふるう加害者はなんてひどい人なんだと糾弾されるのだが、かれらは自分が正しい、自分こそが被害者という見方でいる。これは国際間の戦争と同じ論理であって、双方が被害や正義を訴えて、平和の着地点がない状況と同じである。市民社会のばあいでは、警察や法律という権力が裁くことができる。しかし力でねじふせられたものは、納得の理由をくすぶらせつづけるものである。

 これは岡本茂樹の犯罪者の『反省させると犯罪者になります』の同じ論理であって、容疑者は過去にだれからも自分の立場の肯定や容認をうけていない。さらに刑罰によって一方的断罪がされて、自分の言い分は聞いてもらえない、悪と裁断されて、自分のほんとうの気もちをますます隠すことになる。それによって恨みとストレスをためて、爆発のときまで放置される。だれかに容認されてはじめて、自分の心の痛みや他者の痛みが理解できるようになるのである。

 ケンカの最中のおたがいの立場みたいなものである。殴ったから、おまえが悪いと一方的にいわれても、ケンカの本人は納得できない。暴力や犯罪を裁く目線というのは、いつも「自分の言い分」「自分は悪くない、被害者だ」という声を裁断してしまうのである。

 前述の世界観の重要性については、J.L.ハーマンの『心的外傷と回復』が重要な書らしいが、高い本なので、図書館で借りてみようかな。


4622041138心的外傷と回復 〈増補版〉
ジュディス・L. ハーマン 中井 久夫
みすず書房 1999-11-25

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