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![]() | 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか 岡本 太郎 青春出版社 2002-01 by G-Tools |
ブロガーのイケダハヤト氏やつぶかきかさこさんなどが薦めているから読んでみた。よしもとばななも評価しているのだってね。
まあたしかに常人では考えつかない感覚をもっているね。社会にたいする反骨精神・反抗に生きるタイプに染め上げられた人のようで、流れされて凡庸に安全に生きる人たちを批判しつづけている。わたしはこういう反逆精神は大衆社会論や社会論あたりでよく学んだからそう目新しい印象はなかった。
岡本太郎は子どものときに親に対等に育てられたから、子どもだましの小学校にガマンならなかったようだね。小学一年生から体制や順応することに猛烈に腹を立てていた子ども時代はつらかっただろうね。わたしなんて無邪気で能天気な小学生で、ほぼ記憶も忘却のかなた…w
子どものときに「芸術はバクハツだ!」という岡本太郎のCMがたいそうブームになった。奇をてらった薄っぺらい芸術家に思えたのだけどね。http://youtu.be/m-FP9K1iD-g
「私の言う「爆発」はまったく違う。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーっとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちの本当のあり方だ」
岡本太郎はこの本のなかでも首尾一貫して、人生が瞬間瞬間にぱーっとひらくことが生きることだといいつづけている。
「ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。そうすると逆にもりもりとふるいたつ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。
最大の敵は自分なんだ。
自分を殺す、そこから強烈に自分が生きるわけだ。
自信なんていうのは相対的価値観だ。誰々よりも自分は上だ、とかいうものでしかない」
あえて危険や失敗する道を選ぶからこそ人は「活きる」という逆説に太郎は人生の充実を見たのだろうね。
「画家にしても才能があるから絵を描いているんだろうとか、情熱があるから行動できるんだとか人はいうが、そうじゃない。
逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーもふき出してくる。
何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。
自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ」
人は順番をとり違えているのだという。多くの人は自分の運命を真剣に賭けなかったのだという。
「大切なのは、他に対してプライドをもつことではなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ。
他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことが、プライドなんだ」
薄っぺらいわたしは自分にたいしてプライドなんてもてたことはないのだろうね。
「よく、あなたは才能があるから、岡本太郎だからやれるので、凡人には難しいという人がいる。そんなことはウソだ。
やろうとしないからやれないんだ。それだけのことだ。
もう一つ、うまくやろう、成功しようとするから、逆にうまくいかない。
人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変いやしい根性だと思う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう」
岡本太郎は画一化・均質化する大衆を批判して個性や自分らしい生き方をすすめていたのだろうね。こういう大量生産型の人間になることを批判した流れはこの本が書かれた88年からどうなったのだろうね。個性とかゆとりとかで、またゆり戻されたのかな。
岡本太郎は大勢順応型の人間たちにたいして激しく批判するのだけど、それは芸術やクリエイティブな仕事に向けられては正しいだろうが、大勢順応型の企業や仕事で生きるしかない人たちにはふさわしいアジテーションなのかなと年をとったわたしはふと思う。
いやね、社会に順応するしか生きてゆく道がない人もおおぜいいるのが社会なんではないだろうかとふとわたしは諦観を感じるね。。。





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![]() | 働くことがイヤな人のための本(日経ビジネス人文庫) 中島 義道 日本経済新聞出版社 2010-02-02 by G-Tools |
2001年に出たときちょっとしたベストセラーとなったのだが、読まなかった。たぶん自分の好きな哲学の教授になっている人に単調で単純な仕事の苦しみなどわからないだろうと思ったのだろうか。
キレイごととかタテマエの奨励なんてまちがってもいわない中島義道のことだから、ネガティブな仕事観をつきつめてくれるね。
ちょっとひきこもり状態になっていたことやふつうの会社面接の話とか、予備校講師時代の話とか、こういう寄り道や哲学教授でないころの話も聞けて、この経験から中島義道はこういう仕事がイヤな人のためにアドバイスできると思ったのだろうね。
でも大学の教授になって本も出している「成功者」なのだから、ちまたのふつうの仕事へのアドバイスが妥当なのかという反感はやっぱりあるね。
この本は5章までが序章のようなものかもしれないね。
「彼(女)が世間的にはなんの価値ある仕事もなしとげなかったからこそ、そしてみずからそれを痛いほど知っているからこそ、その人がただ生きてきたことが光を放ってくる。彼(女)は、死ぬさいに「俺(私)はこれをなしとげた」と自他に語って満足することはない。彼(女)は何もなしとげなかった。だから、自分の人生を世間的な仕事と重ね合わすことなく、剥き出しのまま受けとめることができるのだ。
世間的な仕事において何もなしとげなかったからこそ、死ぬ間ぎわに「俺(私)の人生は何だったのか」と真剣に問いつづけることができるのだ」
逆説的なことをいうのだが、中島義道は社会的価値とはなんだろうか、人はなぜ社会的価値をめざすのかということのひとつの解答をもちだす。
「仕事に成功した人ほど、その仕事に過分の価値を置いてしまう。
…それは、仕事によって死を幾分でも克服できるという錯覚だ。自分が死んでも、みんなから愛されているこの映画作品は残る。自分が死んでも、自分が孤軍奮戦して守ったこの緑の山は残る……という錯覚さ。
たしかに自分の仕事は自分の死後数百年はもつかもしれない。
…しかし、それが何だろう? 宇宙論的時間のうちに置いてみるとき、いかなる仕事でも、自分の死後ほんのちょっとのあいだ長生きするだけなのだ」
マルクス・アウレーリウスもいっているね。
「死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを」
人は勘違いしてしまうのだろうね、死後の名声や名前が残れば、わたしが死んでもわたしは生き残ってゆくといった思いをもつようになる。だけど死んでしまえば、わたしはその後のいっさいを知ることはできないし、もうわたしは消滅してしまうのである。
無や死してしまう恐怖を避ける方法として、人は死後の名声や名前を残すことによって、その無や消滅を避け得ると思ってしまうのだろうな。だけどもう消滅してしまったわたしにはいっさいあずかり知らぬことだ。
社会的価値を得るというのはこういう無や死してしまう「わたし」をその消滅から救い出してくれるなにかだと思わしめてしまう関連の近いところにあるのかもしれないね。
中島義道は死してしまう人生の意味と恐怖に生涯こだわりつづけた哲学者なのだが、そういう死の恐怖から解放されるには、生を無価値だと思うことが救いだと気づくようになる。死が怖いのはこの人生に価値があると思うからであり、「生きていること」に価値があると思うからである。逆説的に人生や生を無価値に思えば、死も不安にならない。
社会的価値を盲目にわたしたちが求めてしまうのは、この無や死してしまう存在であるわたしたちが、その消滅をふせぎたい気もちと通じるものがあるのかもしれない。そして死後の名前がそうであるように、わたしたちはもう「存在していない」のである。あるいはそれはたんなる「想像上の気休め」としかいいようがないものかもしれない。
社会的価値のある仕事ってこの死の恐怖に立ち上げられる無からの逃走が根底にあるのかもしれないね。そしてその価値も死後の生のように「むなしい」ものなのである。
「倫理学の試験問題において力強い言葉によって試験官をうならせたとしても、彼(女)はただよく生きることについてよく書けただけであって、わずかでもよく生きたのではない。逆に、いかに言葉でうまく語れなくとも、いかなる倫理学の教授たちよりもよく生きた人、よく生きている人はいると思うよ。
こうした転回を経ると、仕事の成果においては二流でも三流でもいっこうにかまわないことになる。それは、よく生きるという第一目標を実現する手段にすぎないのだから。一流の仕事をした人がよりよく生きることを実現しているのではない。
…一流の仕事とよく生きることとはまったく関係のないことだ。レオナルド・ダ・ヴィンチや紫式部がよく生きたわけではない」
社会的価値とよく生きることをべつのものとして捉えるわけだね。人は社会的価値によりよい人生を描いて見てしまうのだが、よりよく生きることは社会的価値によって証明されるのではない。
「ただ何かしたいことを自分のうちで確認できれば、そしてそれが本物であれば、しかもそれを続けられる場が与えられれば、その人は幸せだということだ。
生活はどうにかなる。いや、その場があるからこそ、新聞配達員もガードマンもNHKの集金員もそれほど苦にならない。その場があるからこそ、社会的に下積みの地位に甘んじていても、彼らは自信をもっている」
「社会的価値=死後の恐怖=死後の名声」という一連の連関を見させてくれる中島義道の指摘は、なぜ社会的価値をもとめてしまうのかという問いと解答をうかびあがらせるね。
人に名前をおぼえてもらうことによって「自己の価値をうかびあがらせたい=死後の生を手に入れたい」というわたしたちの恐れがあるのだろうね。でもわたしが死んでしまったらそんな名前はもはや意識のないわたしにはあずかり知らぬことだ。
「自我」は「想像上」のわたしは、そうやって自己が消滅してしまうことをふせごうとするのだろうね。そしてそんなものはもともとなかったのだ、つぎつぎとは浮かんでは消える「思考」や「思い」の妄想でしかないのである。
他人の頭の中にわたしが思い浮かべられることが、わたしの「価値」を保証するという思い込み・錯覚にわたしたちは捉われているのだろうね。そしてそれは死後の生が不可能であるように、現在においても不可能や錯覚ではないだろうか。まいったねw
仕事論の本だと思っていたら、自我論になったね。これはグルジェフとか神秘思想の自我論なんだよね。
▼想像上の自我論はこの本をおいてないと思いますが、仕事論からここまできてしまったね。
![]() | グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門 ハリー ベンジャミン Harry Benjamin コスモスライブラリー 2000-09 by G-Tools |
![]() | 人生に生きる価値はない (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2011-09-28 by G-Tools |
![]() | 自省録 (岩波文庫) マルクスアウレーリウス 岩波書店 2007-02-16 by G-Tools |
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![]() | 「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書) 山竹 伸二 講談社 2011-03-18 by G-Tools |
深い考察がたのしめる本であったと思う。著者は学術書系集者をへて、現象学とか竹田青嗣とかかわりのある活動をしてきたようだね。
この本は身近な人間の承認が重要度を増しているといい、小集団の恣意的な価値観に承認をもとめる結果、まわりに迎合して「自由」をうしなってしまう「空虚な承認ゲーム」の時代を問題視している。
「小集団の価値観やルールは、それを批判するメタレベルの価値規準が存在しない現在の状況では、集団メンバーの合意やリーダー格の人間の判断によって、容易にルール変更が生じやすい。そのため、絶えずリーダー格の人間や他のメンバーの言動に留意し、それなりに調子を合わせる必要性が生じてくる」
こういう小集団の承認をもとめる動きというのは、大衆社会論で危機感をもって語られてきた画一化の流れと重なる。オルテガ、フロム、J.S.ミル、ニーチェ、リースマン、リップマンといった人たちが語ってきた画一化・水平化する大衆の脅威という恐れ。
まわりの人に承認されようとしたらみんな同じにならなければならないんだね。人と違っていたら受け入れられないし、排斥される。承認のために自由ってものすごく追いつめられていないか。
「「自由への欲望」と「承認への欲望」の間に葛藤が生じやすい。
(承認の欲望を満たすために)、ある程度まで自由な行動を抑制する。逆に、相手の批判や軽蔑を怖れず、自分が思ったとおりに行動するなど、他者の承認よりも自由への欲望を優先させる場合もある。
一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい」
一時期アダルト・チルドレンという言葉が流行ったが、これは親から抑圧されているというより、自分の属する社会や集団によって抑圧されているといったほうが当っていると思ったのだが。こういう他人の配慮により自分を押し殺す性格類型から脱出しようとしたこころみに、中島義道の『カイン』では、逆噴射型の「超絶自己チュー人間」になるという方法が提示されたこともあった。
身近な狭い人間の承認だけに釘づけられる解決策として、著者は「一般的他者の視点」の確立をすすめる。
「「一般的他者の視点」が十分に成熟していれば、多くの人々に自分の行為が「価値あり」と承認されるか否か、ある程度まで自分の力で判断することができるし、その分だけ周囲の人間の承認に依存しないですむ。「まわりの連中が何と言おうと、自分のやっていることは正しいはずだ」「自分が責められるいわれはない、ちゃんと見る人が見ればわかってくれる」」
リースマンは『孤独な群集』のなかで伝統指向型、内部指向型、他人指向型とわけたのだが、げんざいは身近な他人に承認をもとめる他人指向型となっているのだが、「一般的他者の視点」は内部指向型に近いといえるかもしれない。小集団の価値感だけではなくて、一般的社会の価値観もしっかり内面にインプットされているわけね。身近な人の承認だけになれば、会社組織の犯罪に抗することもできなくなるし、一般的なルールが介入しない個人・小集団特有の偏ったヘンな価値観にそめあげられるだけになってしまうね。
「たとえば同じ職場で仕事の価値観を共有していても、ちょっとしたコミュニケーションの齟齬や行き違いで、たちまち緊張関係が生じ、仲間はずれ、揶揄、陰口、といった事態が生じてしまう。まして仲間や友だち関係のように、共有された価値観が最初から曖昧で流動的な場合、その都度の状況ごとに、相手が好む行為かどうか、仲間が共感してくれる行為かどうかが、仲間の承認を維持する上で重要になる。
こうしていま、個人が葛藤する対象は「社会」から「身近な人間」へと移っている。そのため、親や所属集団など、身近な人々の言動に対する同調や迎合を繰り返す人も増えているのだが、こうして状況が長く続けば、周囲に迎合している自分に嫌気がさし、「偽りの自分」を演じているように感じられ、自分が本当は何をしたいのか、あらためて問い直すことになる。
現代の「自分探し」は、こうした親や所属集団の抑圧から「本当の自分」を解放しようとする試みであり」
友だちや仲間集団の承認というのはものすごく恣意的で、流動的なものだね。しかも局所的・偏向的な価値観にこりかたまっているものであり、一般的基準が入ってこない世界である。だからこそ小集団の承認というのは社会的な一般的な価値を志向するものにとってはものすごく居心地が悪いものだね。
わたしもこの小集団の承認・迎合という距離感にすっかりこじれてしまったのだけどね。本を読むとか、ネットに書くというのは、そのような閉鎖的で偏向的な所属集団からの解放と脱出がこころみられているのだろうね。
「カール・ロジャーズは、「他者による評価は私の指針にはならない」という言葉を教訓に挙げているが、これは周囲の人々の評価(承認)ばかり気にして行動していれば、やがて素直な感情を押し殺し、「本当の自分」を見失ってしまう、ということを意味している。「本当の自分」が抑圧される原因は、周囲の人間の評価に対する過剰な自意識なのである」
ショーペンハウアーは『幸福について』で名誉欲(承認欲)をさっさと引き下げるといっているのだが、そういう言葉による設定だけでもずいぶん承認欲を抑えることができるのだろうね。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』も人の評判や承認に傷ついたり、気に病んだりする人のために、「神の承認」という設定をおけば気が休まるという方法論を提示しているのだと思う。神の信仰を便宜や方法と考えることだってできる。
「マズローは承認欲望を自己実現欲求より下位に位置づけているにすぎず、この問題にあまり踏み込んでいない。ユングやロジャーズにおいては、自己実現を周囲の視線から「本当の自分」を解放することと捉えており、他者の承認に固執することは他者に同調した「偽りの自分」を演じることになる、むしろ自己実現から遠ざかってしまう、と考えられている」
自己実現欲求はさっさと承認欲を駆逐していたのね。人の承認欲や名誉欲というのはひじょうに強いと思うのだが、マズロー、ユング、ロジャーズにおいては、その問題は軽くのりこえられていたのだろうか。
承認というのは人間の大きな問題だと思うのだが、いがいに学術的にはとりあげられることが少ない問題だとわたしの範囲をみて思っている。
この本では承認は「偽りの自己」を演じさせたり、「ほんとうの自分」を抑圧するものだといった問題を中心にとりあつかわれている。社会学の問題と思ったら、心理学の問題だったのね。
いま多くの人が半径三メートルの狭い承認に「犬のように釘づけられている」(リップマン)状態だと思う。自覚的に問題すら感じず、周囲の同調だけをくり返している人も多いのかもしれない。「自由からの逃走」は半径三メートルでおこっているのかもしれないね。
▼参考文献
















































































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