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05 07
2021

神秘思想探究

プラトンは神秘主義者なのか――『プラトンの哲学』 藤沢 令夫

   

 私は神秘思想を探究しているものであり、このプラトンもどれだけ神秘主義に近かったのかという読み方のために、この書に近づいた。

 プラトンにつづく新プラトン主義といわれる流派は、プロティノスを中心に「一者」との合一をめざしていて、明らかに神秘思想とよばれるものを追究している。だが、プラトン自身はどうだったのか、あまりにも哲学者としての顔が一般的なので、再確認ができていないので、プラトン自身に当たるしかない。

「真実在の認識のためには、「できるだけ目からも耳からも逃れ、いうなれば全身体からも――これらとともにあれば魂をかき乱されて、真実と知の獲得はかなえられぬと考えて――逃れること」につとめなければならないと言われ、それゆえに知の愛求者(哲学者)は、つねに魂の清浄化(カタルシス)につとめてやまないのだと説明される。
「清浄化とは、魂をできるだけ身体から引き離すこと、そして、魂が身体のあらゆる部分から自己自身へと擬集し結集して、いわば身体という縛めから解放され、現在も将来までもできるかぎり、魂が自分孤りだけで住まうように習慣づけること、このことに帰着するのではないだろうか」」



 仏教や神秘思想の修行とおなじようなことが語られていて、プラトンもそれをめざしていたといえるだろう。しかしその方法が、いわゆる解脱という方向に向かう手段としては、違和感を感じるものがあげられている。

 

「魂の全体と一緒に生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くもの(=≪善≫)を観ることに堪えうるようになるまで、導いてゆかなければならない」
のであって、教育とは、このような生成界から実在界への、魂の目の向け変えの技術にほからない。

…そのことを準備する学科目としては、感覚ではなく思惟・思考の行使を主とする数学的諸学科が選ばれる。すなわち、算数、幾何学、立体幾何学、天文学、音楽理論(音階論)」



 仏教やヨーガの修行において数学や幾何学が学ばされるとしたら、かなり面喰うのではないだろうか。思考の習得に修行の要点がおかれる宗派というのは聞いたことがない。感覚界にたいする思惟界の没頭をめざすというわけなのだろうが、禅においては言葉を捨てさせるわけだから、プラトンが向かった先は、ほかと比べて特異なものといわざるをえない。数学が宗教的なものと考えられたピタゴラスとかの影響なのだろうか。

「「アドラステイア(立法の女神)の掟」によれば、いったん地上に落ちて人間の身体に宿った魂は、一万年の間は翼が再生せずに、死後の賞罰と輪廻転生をくりかえし、天上の神々のもとに帰ることができないのであるが、ただ「誠心誠意知を愛し求め、あるいは知を愛し求めつつ恋した魂」だけが例外が認められているからである。

恋(エロース)とは、こうして人間の身体に宿った魂が、この世の生を送る道すがら、美しい人に行きあって、かつて観た真実在としての<美>のイデアを想起し、魂の全体が熱っぽく沸きたって、久しく枯渇していた翼の再生をうながされることである」



 プラトンは死後の世界や輪廻転生を語っていたのであり、そういった宗教的・神話的な世界を前提としていたといえるだろう。神々の世界、魂の世界に戻ることを願うことは、その時代・社会の宗教的前提としてあったものだったかもしれない。

 西洋哲学の祖としてのギリシャやプラトンは、こんにちの科学的世界観に合うように切りとられ、正当化された哲学者像が流布されている。神秘的・宗教的なプラトン像はとうぜんに無視や軽視、切り離しがおこなわれるだろう。プラトンの対話は、合理的精神に適合するような対話をおこなったのは、たしかである。でもそれとおなじくらい神秘的・宗教的なプラトンも存在していたと捉えるべきだろう。

 近代にとっては物質的世界像、つまり自然科学的な精神を探究したプラトン像というものをたてまつりたいのだろうが、藤沢令夫にとってのプラトンは、そのような物質的・物体的な世界観を批判した哲学者にほからないことが告げられる。それでも死した物質的世界像を打ち立てたのはプラトンであるという批判がわきおこったり、プラトン像というのはどちらかの陣営に都合よく映った像が採用されたりするのである。

 もしかれが神秘主義者や宗教者でしかなかったとするなら、西洋はたいそう都合が悪い。





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05 03
2021

神秘思想探究

西洋のもうひとつの源流――『ネオプラトニカⅡ 新プラトン主義の原型と水脈』 水地 宗明 (監修)

   

 『ネオプラトニカ 新プラトン主義の影響史』にひきつづき、新プラトン主義協会の学術書であり、あいかわらずレベルが高く、入門書を必要としている私にはよういに嚙み砕きがたい書であった。

 新プラトン主義というのは、プロティノスを中心としたこの世界には「一者」の実在だけがあるという思想潮流である。インドのブラフマンやシャンカラの思想とおなじだと思うのだが、この書ではインドとの比較思想の試みがなされていなく、そこへ踏み込んでほしいものである。

 インドではその一者との合一をめざす神秘的実践がおもな目的になるのだが、プロティノスや新プラトン主義では理論的追究がおもなものとなっている。しかし新プラトン主義の中期にイアンブリコスが神秘主義的傾向をつよめる転換をもたらしたようである。この新プラトン主義の哲学的傾向からいえば、転落や堕落になるのだろうか。

 この本は二部に分かれていて、第一部はプロティノスをめぐる話、第二部ではその水脈として、トマス・アクィナス、エックハルト、ベルクソンとの比較が論じられている。私としては神秘思想探究において、ベルクソンがどうしても近づけないから興味ある内容もあったのだが、ベルクソンはやはり近寄りがたい。

 時間論もアリストテレスとプロティノス論や、後期新プラトン主義の時間論といった論文もあるが、たいそうむずかしい。

 プロティノス論では、発出論と創造論が比較されているが、一者だけがこの世界にあるのなら、世界はこの一者から発出されたという世界の原初論が展開される。それにたいしてユダヤ教、キリスト教では創造者がこの世界を創造したといわれ、この世界の外部に創造者という存在が分かたれて存在することになる。「世界そのものとしての神」と「世界の外の神」という違いが生まれ、世界観の亀裂として西洋の基幹をなしてゆく。

 新プラトン主義というのは、こんにちからすれば、精神世界やスピリュチュアルとしてアカデミズムの圏外におかれるオカルト話である。プロティノスや新プラトン主義というのは、哲学より、神秘思想に近いのである。プロティノスの宇宙論というのは、宇宙霊魂などかなり非科学的である。ただキリスト教圏内の世界観と比較するなら、神の信仰という世界において親近性は増す世界である。西洋というのは、宗教観抜きには世界観の歴史をたどれないほど、宗教世界だと思わないと、われわれ日本人の科学信仰の頭ではよういに近づけない世界とわきまえるほうがよいのかもしれない。

 そもそも世界観というのは、神や信仰抜きには理解しえないものかもしれない。近代科学しか信仰できない世界観をもっていると、歴史的な世界観すら内省することができない宗教的なものといえる。

 私はキリスト教のような人格神はどうしても信じることはできない。しかしインドのブラフマンや一者のような世界との合一という知識は、世界観の転換的な意味合いにおいて、探究する価値はあると思っている。この世界観はわれわれがドグマ的にもってしまう身体―物質観という世界観の基礎をくつがえす認識をもっているのである。固定的・物体的な認識をわれわれはもつのだが、それをくつがえし、疑問にさらし、流動的、非実在的な世界観をもたらすのが一者の世界観である。

 言葉にしろ、時間にしろ、身体にしろ、われわれは固定的な実在があると思う世界観をはぐくむのが通常である。それらの常識をくつがえし、それらはもしかして非実在のものではないかという世界観の気づきをもたらすのが、一者・ブラフマンの世界観である。

 新プラトン主義やプロティノスの水脈というのは、その固定的な世界観をひっくりかえす契機を秘めているものとして探究の価値があると私は思うのである。






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04 26
2021

神秘思想探究

汎神論からのアプローチ――『シェリング著作集 第4a巻 自由の哲学 (『人間的自由の本質』他)』

   

 神秘思想を探究している者が、西洋哲学の汎神論とよばれるものをプラトン、スピノザ、シェリングに見出して、とりあえずどんなものかと中身に当たってみた読み方をした。

 文章の通りはよいのだが、どうも言葉の定義がわたしの実感と重なり合わないのか、どうしてそういう文脈が形成されるのか壁にぶつかる読書であった。また汎神論がどうして自由や悪、人格の議論に向かうのかも、キリスト教的な問いがさっぱりわからない私には、かなり難儀するものであった。

 汎神論は語られている。無限者や無制約者、一者の世界観もどうも語られているようだ。しかしその後の展開、文脈となると、よういにつかみがたい論理が展開されるのである。

 死後の状態や霊的世界の哲学といったものも語られ、シェリングというのはかなり宗教的な哲学者であり、あるいはキリスト教圏内においてはそれは通常の範囲というものかもしれない。

 日本では哲学者はそういう非科学的なものは語るわけがないというイメージがあり、その齟齬が混乱に陥れる。だけど西洋哲学はプラトンのはじめから、魂の不死性や死後の問題は語られていたのである。日本人の宗教と科学の線引きと、シェリングや西洋でのそれらに線引きが、だいぶ異なっているといえるのかもしれない。

 シェリングは永遠と同一であった感情がどんな人間のうちにもある、はるか以前からそうであり、時間の中でそうなったわけではないという感情がそなわっている、というのである。宗教的世界は、もう前提となっているというべきか。

 シェリングは中世の神秘主義者ヤーコブ・ベーメに大きな影響を受けたとされる。「根底」や「分開」の概念はベーメ由来である。その神秘的用語と哲学用語が混入されたのが、シェリングの哲学である。フィヒテやライプニッツ、スピノザといった哲学者も多く出ており、その観念論という文脈のなかで、神秘主義的哲学が語れていると考えてよいか。

 神秘思想の探究というのは、どうやって一者と合一にいたるかの実践が主な目的である。このシェリングの哲学ではそういう問いはされずに、問いが悪の問題であるとか、論理的な問題が出てきて、認識論的実践に役立つものはなにも出てこない。なにを問うているのか、なぜその問いが問題になるのかすら抵触しない。

 これは哲学的な書なのか、神秘的・宗教的なのかの判別すらつきにくいが、哲学寄りの感触はたしかにある。抽象的すぎて、現実的な感触がなさすぎるのが、哲学的といえる書かもしれない。

 なおこの著作集には岩波文庫から出ている『人間的自由の本質』が所収されており、そのほかに「哲学と宗教」、「シュトゥットガルト私講義」が収められている。後者二編はより客観的な記述に思える。

 この本を読む前に、岩波文庫でシェリングの『ブルーノ』を読んだが、あまりにも内容をつかめなかったので、書評にも残せなかった。この『自由の哲学』はそれより読みやすい文脈であったが、やはり理解がかみくだけたわけではない。

 新書での入門書を読みたいのだが、日本ではシェリングのそんな本は出ていないようだ。たしかにシェリングの問うた内容に、日本人が興味をもつとは思いがたいから、出ていない状況も理解できる。

「一言で言えば、眼に見える自然はその形によってのみ自然であり、その本質によっては神的である。自然は神的本質であるが、ただそれは存在するもの、すなわちAにおいてではなく、存在しないものにおいて表された神的本質である」



「この最後の時代はまったく完全な実現の時代――それゆえ、神が完全に人となる時代である。そこでは無限なるものがその無限性を毀損することなしに完全に有限となっている。
そのとき、神は現実に一切における一切であり、汎神論が真である」







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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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