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11 15
2017

幻想現実論再読

永遠の名著――『世界の名著〈4〉 老子・荘子』  中公バックス版

rousisousi.png世界の名著〈4〉 老子・荘子
1978年  (中公バックス)

中央公論社 1978-07

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 老荘はいちどは読まれることを、絶対におすすめしますね。

 天地のスケールでものごとを見て、人間の狭い価値観を抜け出る。人より勝ったり、優れたり、欲望を満たすことしか教えられない社会で、逆説的にその愚かさを教えてくれる人なんて、めったにいないからね。

 この中公バックス版は、老子と荘子双方読めるお得版なのだが、絶版のようなので、残念。

 わたしはとくに荘子のほうが役にたつと思うのだが、老子は思想を語るには短すぎるし、荘子は専門用語や難しい言葉をほとんど使わず、たとえ話で終始言い聞かせようとしていて、わかりやすいのである。しかも、これが紀元前の教えなんだよね。

 老荘は、言葉や人間の限界を知って、天地のスケールから見た人間の価値の狭さを説く。知識や財貨、名声だって、批判の対象になる。人間は人間の小さく狭い立場を守って、運命をうけいれるべきだ。ある意味、無力や悲観にも見えるかもしれないが、人間の天分をわきまえない抵抗のほうが愚かだ。

 わたしは荘子の斉物論篇がいちばん好きだ。老荘の真骨頂はここにあると思う。そして、仏教でわからない部分も、荘子によって補われると思う。

 

「これらの対立差別は、人間の知恵がつくり出したものであり、自然の道からみれば、すべて一つなのである。
この自然の道の立場からみれば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、またそのまま死滅することでもある。すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである。
ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである」



 天のスケールから見て、人間の違いや優劣、価値観などなんになろう? われわれはいつも、人間の小さなスケールでしか物事を見ないことに気づく。

「およそ、道というものは、最初から限界のないもの、限定できないものである。ところが、これをいいあらわすことばというものは、対立差別のあいだを往来して、絶えずゆれ動くものである。このために、ことばによって表現されるものには、限界があり、対立差別があることになる」



 言葉の限界を知ることもひじょうに重要だと思う。言葉や知性の可能性や優秀性ばかり教えられ、われわれはその限界や過ちを聞くこともない。老荘や仏教は、この愚かさや間違いをずっと説いてきたのである。

 また、人間の優越や世情の批判も、しっかりと聞いておきたいところだ。

「徳は名誉心に向かって流れやすく、知は競争心から生まれ出るものだ。名誉欲はたがいを傷つけあるもとになるものであり、知恵は争いの道具になるものだ。だから、この二つのものは凶器である。人間の行いを完成させるようなものでは決してない」



 優れたり、認めらられたりといった欲求が人間にはとりわけ大きいが、荘子はそれも戒める。

「富をよしとして追求するものは、自分の財産を人にゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身になっている人間だというほかない」



 いい言葉がたくさんありすぎて引用ばかりになって、とりとめもなくなるので、ぜひみなさんも老荘の書物に当たってほしいと思う。そのすばらしさを、短い文章であますことなく、つたえることはできない。

「「虚心のままに静かであること、無欲で心安らかであること、虚無のうちに無為を守ることこそ、天地の平安の道にかない、道徳の本心を得たものである」

無心にいこえば、心は安らかに楽しく、安らかに楽しければ、虚心のままに静かとなる。心安らかに楽しく、虚心のままに静かであれば、憂患も心にはいることができず、邪気もはいりこむすぎがないであろう」



 老荘はなんども読みかえす書物であると思うが、なんどかは部分を拾い読みはしてきたが、通読はひさしぶりだ。こんかいは、運命随順の考えがとくに目についた。いぜんは、優秀さや名声、知などの処世訓が目についたのだが、運命に逆らう気持ちが増していたのだろうか。

 人によっては、いろいろな部分が心にひっかかり、刺さってくると思う。人によって違いがあり、また時をへて、刺さるところも変わってくるだろう。

 老荘はぜひ読まれることをおすすめします。天地の視点で、人間や自分を省みる機会は、ほんと老荘の書物以外にほとんど見あたらない。


▼解説書ではなくて、原典に。わかりやすいですよ。
老子 (岩波文庫)荘子 全現代語訳 上下巻合本版 (講談社学術文庫)荘子〈1〉 (中公クラシックス)荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)老子 (ちくま学芸文庫)



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11 09
2017

幻想現実論再読

幻想の二つのベクトル、科学と芸術――『幻想論』 アンドレ・モーロワ

51DMFSFAoxL__SX218_BO1,204,203,200_QL40_幻想論 (1971年) (新潮選書)
アンドレ・モーロワ
新潮社 1971

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 西洋の幻想論には期待していないのだが、東洋のほかの知見から知ることがないかと読んでみる。

 東洋ははるか先、言語や思考の幻想や非実在性にふみこんでいるのだが、西洋は言語の幻想性すら問題にしない。西洋にとって言語は絶対堅固な岩盤なのであるが、東洋では砂上の楼閣にしかすぎない。

 言語はそれが構築した世界の実在性を信じさせるのだが、東洋ではそんなものはない、実在しないといってきて、それを人間の迷妄やマーヤー・幻想といってきた。言葉の非実在性を説くことは、人の悩みや悲しみも実在しないということなので、それを苦悩の解放だと捉えてきた。東洋は苦悩はマーヤーだといってきたのだが、言語に疑問をふさない西洋には、そんな考えは及びもしない。

 アンドレ・モーロワという人は、文学者や評論家であり、アランに影響をうけた人のようだ。

 本書は、人間のふたつの幻想を並列して、科学は幻想をそぎ落す方向をめざしているのに、文学や芸術では幻想をもっと創り出すのはなぜか、といった問いをしている。ふたつの相反する幻想の方向を、どうして人は望むのか。

 科学というのは新しい発見がもたらされれば、それまで真実と思われていた世界観はとつぜん偽や幻想になる。科学はこういった訂正と修正のくりかえしなのであって、われわれがいま信じている世界観も、いっときの真実と信じられている幻想にしかすぎない。

「われわれの脳髄は、そのようなことを企てるために作られているのではなく、自分の生活空間という限られた範囲内で、各個人に有益な世界の映像を与えるために作られているのである。われわれはこの宇宙のなかで、極微な場所を占有しているにすぎないので、想像もつかない全体性について語るのは向こう見ずなことなのだ」



 つづく芸術論では、科学とまったく逆のこと、幻想をそぎ落すのではなく、幻想こそがなぜ求められるのかということが問われる。

「モネ、シスレー、ピサロたちは、文字通り、マルヌ河やセーヌ河の美しさを、ユトリロはパリ郊外の白い家々の美しさを<創造>したのだ。「ただ芸術によってのみ、われわれは自己から抜け出し、自分の世界とは同じではないこの世界を、他人がどう見るかを知ることができる」」



 西洋であれ、日本であれ、幻想や創造の力を信じすぎていると思われる。だから言語や思考を最大限活用することばかりに気を奪われ、その害悪や欠陥に目をふさぎたい。そのために思考がつくりだす苦悩に閉じ込めれている人もたくさんいるというのに。そして、なぜか苦悩の幻想を解消する方法は、神という創作を信じる宗教のカテゴリにあるのである。

「苦しい情念の最大の原因、精神の平和の最大の敵は、想像力であるからだ。われわれが、考える対象もなく休息をはじめるとすぐに、われわれの想像力は「未来とか過去のなかを」さまようのだ。未来の場合には、想像力はさまざまな危険、病気、愛や、職業や、友情などの挫折を見せてくれる。過去の場合には、想像力が過ちを探し出して修正しようとする。…

想像力をなだめるにはどうすればいいのだろうか? われわれの注意を、想像力が変容できない見世物の上に固定することである」



 この先のはるか先にいったのが東洋であって、思考が見せる苦悩を幻想やイリュージョンとしてしりぞける方法を、思考を断つ瞑想という手段でおこなってきた。苦悩をつくるのは思考や言語であって、それは幻想にほかならないとその根っこから断とうとしたのである。

 西洋がこの段階にふみとどまろうとするのは、たとえ苦悩が大きくても、物質主義の貢献や恩恵をつよく信じるからだろう。言語の実在視は固定化された世界観を導き、固定化された物質の世界で改善や検討がくりかえされるからだろう。

 そういう世界観の中では、個人個人の苦悩は、交通事故の犠牲者くらいにしか思われていないのだろう。


唯幻論大全錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった目に見える世界は幻想か?~物理学の思考法~ (光文社新書)「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


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11 03
2017

幻想現実論再読

原典にふれることの大切さ――『世界の名著 2  大乗仏典』  中公バックス版

4124006128世界の名著 2  大乗仏典 (中公バックス)
長尾 雅人
中央公論新社 1978-05

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 仏教は人によってはイメージがいろいろ違うだろうが、たいがいは原典を読まずにできたものではないだろうか。原典を読むと、難解でその高度な知識に面喰うだろうし、たぶんまったく知らない人にはなにいっているかわからないと思う。

 われわれは科学と宗教の対立で、宗教は古くさく誤った迷信や土俗であり、顧みる必要もないものと思われている。そういう印象も加わって、現代人がはじめて仏教原典にふれると、まったく理解は届かないものとなるだろう。

 現代人が仏教にはじめて触れるポイントとしては、言語や思考の否定である。こんにちでは言語は絶対的な正義となっているが、そこに悪や弊害、害悪を見られるようになると、仏教の必要性がわかる。さらに言語や心象の実在というワナや過ちに気づくと、仏教がなんら誤謬にみちた迷信を語っているわけではないことがようやくわかる。科学というのは、言語の疑惑や嫌疑をまったく抱えていないのである。

 大乗仏典の主要な成立は、だいたいは紀元前一~紀元後三世紀のあいだのインドでおこっている。『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『維摩経』、『宝積経』はこの時代に成立している。もうこの時代に頂点に達しているのである。この中公バックスでは、『金剛般若経』、『維摩経』、『宝積経』が収録されている。

 のちの仏教は論証や論理学になり、他学派や宗派との論争になり、とりわけこの論理がむずかしい。中国で、言語を否定しつづけた禅が興隆した理由を見るかのようだ。

 この中公バックス版では、じゅうらいの漢文訳をいっさい排除して、サンスクリット語訳、チベット訳の現代語訳に徹している。漢文を並列した仏教書は、なにをいっているさっぱり読めない。ムダである。漢文のお経なんか聞かされるわれわれは、さらに無意味である。読めない言語を聞かされて、バカにされているのかさえ思える。

 『維摩経』はいささか神格化されたエピソードが現代的にはそぐわないのだが、空性の説明はもう完成の域に達しているのではないだろうか。

「すべての存在は生じては滅してとどまることがなく、幻のような、雲のような、雷光のようなものです。あらゆる存在は、(他を)待ちもせず、一刹那すらも停止することはありません。あらゆる存在は夢や幻影のようであり、真実が見えているものではありません。あらゆる存在は水に映った月や、(鏡に映った)像のようであり、心の(妄想)分別によって生じたものです」



 『宝積経』はもう空性の頂点に達しているように思われ、空性の観念に固執することも戒められる。

「もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カーシヤパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊する者であるとよぼう。実に、カーシヤパよ、慢心のある者が空性という観念(空見)によって(自分の思想)を飾りたてているよりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)によっているほうが、まだましである」



 空性というのも、観念から離れさせるための「方便」である。また空性という「観念」にしがみつくのなら、空性の教えはなんの役にも立たない。

「心は形をもたないもの、見られないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。カーシヤパよ、心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来も見られないだろう」



 『宝積経』はもう、ひとつの頂点をなしていると思う。

 つぎにナーガルジュナの『論争の超越』が収録されているが、ナーガルジュナは『中論』も論理学であって、わたしには極めて難解。

 パーヴァーヴィヴェーカの『知恵のともしび』は、言語の止滅が心の止滅であるといっており、ことばの止滅の大切さが説かれる。

 ヴァスバンドゥの『存在の分析』は、感覚器官の詳細な分析になっており、ほとんど役に立たない意味のない分析に思える。おなじくヴァスバンドゥの『唯識二十論』は、世界は観念や表象であるといった興味深い経典であるが、短い。

 モークシャーカラ・グプタの『認識と論理』は、他学派の論証などに費やされて、かなり難しいところがある。十二世紀からの各学派のまとめのようなところもあるが、そうたいして学びはないかも。

 仏教は、外側の印象でイメージをつくっている人が多いと思われるが、原典を読むことの大切さを痛感する。多くの偏見は、原典を知らないことからくる浅い印象でしかない。難解な論争や高度な知性に、面喰うことになる。

 仏教は、基本は言語の否定と実在論の過ちを指摘することにあると思う。現代では、この基本中の基本をおこなわない言語の信頼と無条件の礼賛があるから、仏教も顧みられない。

 言語と思考の非実在性を悟らないから、現代人は言語と思考の苦悩や苦痛の世界に閉じ込められている。そして、そのトリックやマヤカシにまったく気づかずに、人生の苦悩や苦痛に打ちひしがれている。現代人は、言語と思考の礼賛と信頼に毒されていて、仏教の必要性にまったく近づこうともしないのである。

 中公バックスはげんざいは古本でしか手に入らず、中公文庫で長大な大乗仏典が出されているようなので、こちらも手にしたいところである。わけのわからない漢文で読まされるのではなく、原典の現代語訳で読めるのでは、まったく意味も理解も違ってくる。

 仏教は、心理セラピーや言語学としても、こんにちでもまったく通用可能であり、その部分を救い出すべきであると思う。


大乗仏典入門経典ガイドブック大乗仏典〈8〉十地経 (中公文庫)大乗仏典〈10〉 三昧王経I (1) (中公文庫)大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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