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10 20
2017

幻想現実論再読

禅のラディカルさ――『世界の名著 18  禅語録』  柳田 聖山 編集

41M-FKHn-nL__SX331_BO1,204,203,200_世界の名著 18  禅語録 (中公バックス)
柳田 聖山 責任編集
中央公論新社 1978-08

by G-Tools


 禅というのは、いちばんラディカルである。

 言葉や観念、概念を否定する急先鋒である。さらにはみずからの言説、理論さえ蹴とばしてしまうのだから、支離滅裂、どなる、なぐるのパワハラ道場になってしまって、大半はわからない。

 たまにマジメに理論的に語る言説によって理解をようやく手にするのだが、それすらも蹴とばさなければならない。

 禅の古典というのは、現代人はどれだけ知っているのだろう。岩波文庫で『臨済録』や『無門関』が出ているのだから、これくらいか。あと、道元の『正法眼蔵』とか。

 中公バックスは禅の古典を現代語訳でまとめてくれているのだから、ありがたい。ここで収められているのは、『菩提達磨無神論』、『六祖壇経』、『臨済録』、『洞山録』、『祖堂集』である。

 『菩提達磨無神論』は、ただ心がないということをいっていて、意外にあっさりしたものだった。でもこれこそが人が捉えがたいものであり、見過ごしてしまうものだからね。

 『臨済録』はワケのわからない禅問答が多くて、どなる、なぐるのパワハラ道場のオンパレードなのだけど、大マジメに理論を説く章は、たいへんに感銘させられるものであった。でも、この理論も蹴とばさなければならないのだけどね。

「世間でも出世間でも、いっさいの存在は、実体もなければ、また生ずることもない。すべて空しい名称にすぎず、名称もまた空しい。君たちは、そんなつまらぬ名称を固定化して実在だと考えこむ。とんでもない心得違いだ」



 これが基本の基本であって、これをつかまないと、禅の意味はつかめない。

「仏が語った十二種の経典は、すべて表むきの説明にすぎないのに、学生たちは知らないで、表むきの名目について分別を起す。いずれも仮りものにすぎず、因果関係におちこんで、三つの迷いの世界に生まれたり死んだりすることを避けられない。

三つの方便や十二種の経典にしたところで、すべて糞ふき紙にすぎぬ。仏は幻想であり、祖師はおいぼれ坊主である。君たちは、いったい母の胎から生まれたのか。君たちが仏を探すなら、すぐに仏という魔につかまってしまう。君たちが祖師を探すなら、すぐに祖師という魔のとりこになる。君たちは何かものを探すなら、すべて苦しい」



 禅は、聖なる経典や権威ある知識さえも、蹴とばしてしまう。おとしめる。理論の固定化が、また真実にふれることを妨げるからである。禅は、理論を立てては、その積み木を崩さなければ、真実に出会えない。だから、つぎのような宗教や権威とはまさに逆の、過激な言葉が生まれる。惚れ惚れする。

「仏に出会ったら仏を斬りすて、祖師に出会ったら祖師を斬りすて、羅漢に出会ったら羅漢を斬りすて、父母に出会ったら父母を斬りすて、親族に出会ったら親族を斬りすてて、君ははじめて解放される」



 わたしたちの学校や権威の社会では、権威や教師を蹴とばせという言葉を聞くことはほぼないのではないだろうか。禅をつかむには、権威の固定化につかまらないことが、基本の基本なのである。

「真の仏は姿がなく、真の存在は特徴をもたない。君たちは、幻想のまわりに恰好をつけてばかりいるが、たとえ何かを捉えても、すべて老狐の精にすぎぬ。断じて真の仏ではない。外道の考えにほかならぬ。およし真実に道を学ぶものは、けっして仏をもちあげないし、ボサツや羅漢をもちあげない。三つの迷いの世界の中の功徳をもちあげることもない。

あらゆる存在は固形の形をもたず、動いているときは存在するが、動かないときは何も無い、三つの迷いの世界は単なる心の変化にすぎず、あらゆる存在は単なる意識にほからなぬからである。『夢と幻覚のあだ花を、何でわざわざつかめることがあろう』」



 禅は、言語や概念の無化をいちばんラディカルにつきつめた流れだろう。権威や理論さえ、おとしめる。言語の固形化をそこまで警戒して、言葉の積木はゆるされない。

 しかし、禅問答はなにをいっているか、とんとわからない。さいしょは言葉と理論によって説かないと、なにもつかめない。なにもつかめないまま、ひたすら言葉の否定をされても、なにもつかめないと思うのだが。理論である程度、高いところに行かないと、禅の効用なんてないのではないか、とわたしは思うのだけどね。

 『祖堂集』は禅僧の列伝で、釈迦も説かれているのだが、神格化がはなはだしく、臨済のような仏を斬り捨てろという立場ほどラディカルではない。ここに出てくる禅僧は、だいたいは6世紀から9世紀にかけての人が多いのだが、禅はそんなむかしから、ずいぶんとラディカルなことをいっていたんだなと思う。

 そのラディカルさが途絶えて、現代の世の中は言語と理論のもちあげが最上級にいたっており、迷妄の世界にまたはまってしまっているのは、どういうことか。


臨済録 (岩波文庫)無門関 (岩波文庫)碧巌録〈上〉 (岩波文庫)禅と日本文化 (岩波新書)六祖壇経 (タチバナ教養文庫)


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10 14
2017

幻想現実論再読

無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ

4839700079般若心経
―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る

バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1993-08

by G-Tools


 ラジニーシは段階的にしかわからないのだと思う。

 わたしのばあい、さいしょ読んだときは西洋哲学ばかり読んでいる中で手を伸ばして、ほとんどいっていることをつかめなかったと思う。つぎに思考の弊害や害悪に気づいて、思考を捨てることの知識に熱中した。

 こんかい、この本を再読するにあたって、「無」という言葉がいちばん響いてきた。

 思考を捨てるということはまだ思考の力が強く、抵抗しなければ抗せない状態である。しかし、いまは思考の虚構性や非実在性をより実感している。そういう中では、無が実在であるという言葉がいちばん刺さってくる。

「われわれは無から出現し
われわれは無であり
われわれは無の中に消え去ってゆく」



 人間が無であるというのは、なかなかつかみがたい。しかし言葉や思考は「あること」、「実在」の世界の夢の中に生きている。頭の中で描いたに過ぎない思考や心象を、実在のものと思い込んでいる。しかし、そんなものは「実在しない」のだ。それを実感できれば、われわれは無であるという宣言が、胸に迫ってくる。

 人はふつう、なんで肉体や物体が満ちあふれたこの世の中や自分が、どうして無なのかと思うだろう。「あること」「有」がとうぜんで、確実だと思う世界に生きている。わたしたちはこの思い込みをどうしても落とせない。

 時間や過去を見れば、いちばんよくわかるかもしれない。過去は瞬間ごとに消え去ってゆき、この地球上のどこにも存在しなくなる。しかし、わたしたちは過去を思い出しては、目の前にあるかのごとく、嘆いたり、悲しんだりできる。存在しないものに、感情するという状態は、いったいどういうことなんだろう?

 われわれは、実在しないもの、無のうえで、仮構の心象や思いによって感情を立ち上がらせているだけではないのか。それが幻影や幻想といっていいものなら、わたしたちは無のうえに立っているのではないのか。

 眠っているときも、われわれは無に帰す。あると思っていた心や言葉も、無のうえに立てられた幻想ではないのか。われわれはずいぶんと無に親しい。

「この<無>こそまさに中核、ハートだ
あなたの実存のハートそのものなのだ

死とはあなたがそれでできているまさにその実体だ
<無>こそまさにあなたの実存なのだ」



 わたしたちは死を恐れる。自分に無に帰してしまうことを恐れる。自分の一生がなんの価値も証ものこさずに、無に帰すことを恐れる。そうして、価値や意味を打ち立てようとする。

 しかし、その価値や意味は、言葉や思考で打ち立てられた幻想ではなかったのか。わたしたちは、幻想で人生の価値を打ち立てようとして、そして無から遠ざかり、目をそむけようとするのではないのか。

 これは、恐怖症のメカニズムと同じである。恐ろしいから目をそむけ、回避し、逃れようとする。そうすれば、もっと恐くなり、しまいにはあらゆることを恐れるようになって、家からも出られなくなる。

 回避が恐ろしさをつくる。だから、認知行動療法や暴露療法では、恐さに直接向かってゆき、恐怖が幻想であることの実感をつかまなければならない。

 だけど、当の本人にとっては、恐怖は実体のありありとある現実である。恐怖なんか逃れようがないと思って、恐怖を避けつづける。身体が恐がること、回路づけられた恐怖を回避することに夢中になってしまって、その体験がピークを越えるとしぜんに収まってゆく体内活動であることに思いもいたらない。

 われわれは無を恐れて、言語や思考で幻想の回避をしつづける存在ではないのだろうか。無を回避したいから、言葉や思考の煙幕で無をふさいだつもりになっている。有しか見ない。幻想や無であることに目をつぶりたい。

 われわれは、「実在論者」になることによって、この世の無から目をそむけたい。実在論者になることによって、恐怖や感情の実在を信じ、その牢獄から逃れられない。感情や心象が実在しないという実態から、目をそむけたいのである。

 そうして、われわれは感情のジェットコースターやメロドラマの白昼夢にひたりつづけ、幻想の中で生きることになる。

 人間は認識の錯覚におちいっていると思う。正視したくないのは、無を恐れるからだ。人生の価値や有意義を打ち立てたい人は、とうぜんにこの無の教えを嫌悪するだろう。無は人生の虚無であり、空しさなのである。


 ラジニーシはたくさんの本が出ていて、どれが代表作や主著とよべるのか、わたしにはよくわからない。『存在の詩』がさいしょに紹介された著名な書物になっている以外、どれがおすすめされているのか、わからない。

 だいたいは、経典や人物に的を絞った講和集が出されている。そのとりあげた題材の重要度にしたがえば、いいのだろうか。

 ラジニーシはたとえが多く、話は長く、冗長である。簡潔に簡明にというわけにはいかない。やさしい言葉で語りかけているとはいえる。

 この人はどうして簡明で体系的な著作を書かなかったのだろう。禅のような生や人物同士のライブこそが実在という思想があるからなのだろうか。主著や代表作とよばれるものがあれば、的をしぼって読みやすかったのにね。


存在の詩 和尚 OSHOTAO―老子の道〈上〉隠された神秘究極の旅―和尚、禅の十牛図を語る覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)


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10 07
2017

幻想現実論再読

実在性のベクトルが違うのかもね――『実在と現実』 山本 幾生

4873544149実在と現実
―リアリティの消尽点へ向けて

山本 幾生
関西大学出版部 2005-04

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 わたしとしては、実在しないことの感覚をもっとつかみたい。そのことによって、思考や感情、存在の威力がなくなってゆき、安らぎの境地に入れると思うからだ。

 東洋哲学がこのような考えをたくさんもっているのだが、西洋哲学の精緻で論理的な思考が、その理解をもっと助けることがある。

 わたしたちは言葉や思考、感情が実在していて、リアルであるという感覚を当たり前のものとして日々を暮らしていると思う。それらが実在しているのかと、いっときも疑問に思うことがない。そのことによって、東洋哲学では、偽りで虚偽の苦悩や苦痛を抱えることになっていると告げる。

 わたしたちの現実というのは、心象や言葉、思考によって組み立てられている。しかし、言葉や思考が頭の外にあるのを見たことがないし、それらは頭の外には出ない。頭の中に存在しているのは、霞のような心象や言葉ではないのか。物体として存在するわけではないし、ほかのことに気をとられると存在しなくなっているし、意識するまでは存在しない。

 わたしたちは、その言葉や思考で捉える現実というものを、リアルに厳然と存在していると信じ込んでいるのだが、じつはもっとはかない、危うい存在を実在していると信じ込んでいるだけではないのか。

 そういった考えの確証をめざしているのだが、この本は西洋哲学の流れによって、実在と現実の問題について論じる。おもにショーペンハウアー、ディルタイ、シェーラー、ハイデガーといった哲学者の思索をなぞりながら、問題の検証をおこなってゆく。

 難解すぎて、わたしには服の上からかゆみをかいているようなもどかしさをずっと感じつづける読書になったのだが、どうも西洋哲学はこの世は幻想であっては困る、意地でも実在の確証を求めたいかのようで、わたしのような非実在の確証を得たい者とは、ベクトルが違うようだ。

 処世訓のファンであるショーペンハウアーのこんな言説は、なにをいっているのか、さっぱりわからない。

 「物質は、意志が単に可視的になった姿である」。「意志が客体的表象という形式を取るかぎり」、「物質は意志そのものである」

 意志というのは、たんに意識や思考の意向のことではないのか。それが物質だとかいいだす。意志というのは、物体の確実性から遠く離れたものに思えるのだが、ショーペンハウアーは意志を確実なものと見なしたいようだ。

 「もし世界が表象にすぎないのであれば、世界は空虚な夢や幽霊の幻影のようにわれわれの傍らを次々に移り行くものにすぎず、考察に値しないことになる」

 世界が表象なら考察しないという態度は、なんなのだろう。

 デカルトの思考が存在の証明のような言説すら、東洋哲学の常識から考えて、どうやって打ち立てられたのかまったくわからない。とにかく、西洋哲学は思考であれ、意識であれ、実在していることの確実性を打ち立てた世界をお望みのようである。

 そういった意味で、思考や心象が実在しないと見る立場のわたしには、この西洋哲学の主流の考えが、どうも土台から違っているとして、感覚をつかめるものにならない。数学のように存在しないものの概念の証明を、西洋哲学は架空の空でやっているような感じがする。

 ということで、つづくディルタイやハイデガーの思想も、わたしのつかめるところにならなかった。

 わたしは、思考や心象が実在しない感覚をつかみたい。西洋哲学は実在している世界の確証を得たい。わたしはこの世界が幻影やマボロシであるほうが、安らかさを手に入れられると思っている。

 強化と破壊では、ベクトルが違いすぎる。そのことによって、理解は離れてゆくのではないかと思う。


現実と落着―無のリアリティへ向けて君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)実在論と理性


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