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12 09
2016

書評 社会学

国が健康をいいだしたら――『大日本「健康」帝国』 林 信吾 葛岡 智恭

4582854818大日本「健康」帝国
―あなたの身体は誰のものか (平凡社新書)

林 信吾 葛岡 智恭
平凡社 2009-08

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 国が健康推進のキャンペーンを張りだしたらいかに危険かを説くために、現在と戦時中の施策をならべて見せた著作である。

 メタボ検診という言葉はもう聞かなくなったが、健康ブームというのがあったり、嫌煙権が世をおおっていたり、福祉にあずかる人を憎むという流れはいまもつづいていると思う。これはもともと厚労省や国がいいだした健康キャンペーンに端を発するのではないだろうか。

 国が国民の健康をいいだしたのは、もともと医療費削減のもくろみがある。増大する一方の医療費を削減するために、国民への健康予防の意識を高める施策やキャンペーンがつぎつぎと打たれる。

 国が健康を心配してくれるのだからありがたいではすまなくて、それは同時に健康でない人や福祉にあずかる人たちへの風当たりが強くなることが問題なのである。高齢者や障害者を白い目で見る風潮を生み出してしまう。国が音頭をとるものは、そうでない人たちへの排斥へと目が向かうことが危険なのである。

 厚生省というのは、もともと戦時下に兵役検査に合格するものが半数ほどにしかならなかったために、国民の健康状態を兵役に適するために生まれたものである。国民を兵士にするための省だったのである。

 特定検診では血圧の基準が最高で130、最低で85とされているが、事前調査で八、九割の人が引っかかるというデータもある。

 嫌煙権がずいぶん主張されているが、厚労省が数値目標のキャンペーンを掲げてはじまったものである。1965年には男性の82%が喫煙者だったのだが、この世代の高齢者はいまも長生きしており、これは「ジャパニーズ・パラドックス」とよばれている。

 旗を振っている厚労省や国の背景や意図を知っておかなければならない。

 WHOの声もよくひきあいに出されるが、98年には劣生種の排除を目的とした産児制限政策をとった政治家も就任したことがある。健康を推進することは命の次元に抵触することになり、とおくには優生思想の影がしのびこみやすいのである。

 医療費、福祉費削減の流れには、だれかの命を軽んじる、排斥するという裏面も生じやすいひじょうにデリケートな領域である。健康という言葉がうかびあがらせる背面には、そうでない人への批判や排斥の気運も同時につれてくる。

 国が健康をいいだしたら、命の価値はおとしめられてゆく、といった警戒をもたなければならないのかもしれない。大げさではなくて、国の優等生や先取りしたがる人はたくさんいるようで、恐ろしいことなのである。


健康帝国ナチス (草思社文庫)健康ブームを読み解く (青弓社ライブラリー)健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ優生学と人間社会 (講談社現代新書)相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

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12 02
2016

恋愛至上主義社会論

恋愛主義はどこから強迫になったのか

 男女の恋愛離れが深刻になり、独身男性の7割、独身女性の6割が交際相手のいない時代になった。


 独身男性7割「交際相手いない」 「性経験なし」も増加 産経ニュース 

 「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉と、これから シロクマの屑籠


  80~90年代の恋愛ソングの大流行、純愛ドラマの大ブーム、「恋愛しなければ人にあらず」の時代から隔世の感がある。恋愛は「しなければならないもの」、恋愛をしないと「あいつはダメなやつ」と侮蔑される時代にくらべて、自由になったのか、それとも「できないやつ」が多数者になっても開き直れる時代になったのか。

 恋愛はそもそも自由や解放のためになされるべきものであった。それが強制的、強迫的なものになり、いつしか恐怖や強迫でおこなわれるものになっていった。クリスマスのカップル強制の雰囲気が、日常社会をおおっていったわけである。

 自由に選択してもよいはずのものが強制となってゆく時点で、恋愛は強制労働的なものに堕していった。あのころの反発をおぼえているころの身としては、いまの独身男女は勝利なのか、敗北なのか。

 問題にしたいのは、自由が強制に転嫁する時点である。よきもの、すばらしきものが、ある時点で、強制的、強迫的なものになる。恐怖を利用した慣習や行為になぎ倒されることほど、屈辱で腹立たしいこともない。多くの人はそれでも恋愛強制の雰囲気にのみこまれて、恋愛をおこない結婚していったのだろうが。

 恋愛はマウンティングや侮蔑のツールに使われやすい。「まだ経験していないのか」、「彼氏、彼女がいない」、「童貞」や「処女」は人を侮蔑する攻撃になる。「もたないもの」は侮辱され、軽蔑される立場に立たされた。侮蔑される恐怖に駆り立てて、若者は恋愛に駆け込んだ、というか逃げ込んだといった表現が近い。それほどまでに恋愛の恐怖感は蔓延していたのである。

 ひとむかし前の団塊世代も結婚しない独身であることに恐怖感をいだいていて、結婚していないと「あの人はおかしなところがある」といって後ろ指をさされないために大多数のものが結婚した。「おかしなところ」というのは、「性的異常」や「同性愛」をニュアンス的にふくむものであった。

 恋愛や結婚は、攻撃されたり、排斥されないための「証明書」や「パスポート」のような「駆け込み寺」の様相を呈していた。恋愛や結婚は、恐怖からの逃走によってなされることが多かったひどいシロモノだったのである。

 「みんながするから、しなければならないもの」はこのような恐怖を利用しておこなわれる。その理由や妥当性はまったく吟味されなく、ただ「みんながしているから、しなければならない」と強制される。

 この恐怖に負けるから、人々は慣習やみんながしていることをおこなう。そこに自由意志や自由選択はない。ただパヴロフ的な恐怖からの逃走があるだけである。

 この恐怖からの解放がない限り、人は慣習や多数者に自由を奪われてゆくだろうし、ロボットや機械のように多数者の反復行動の形骸になる。この強制に警戒し、たちどまり、この恐怖の検討がおこなわれないかぎり、人は社会の奴隷やロボットとなりつづけるだろうし、これからもくり返されるだろう。

 商業や産業は、人々の恐怖を煽ることによって拡大する面がある。コンプレックスや容姿、もたない屈辱感などを煽って、人より劣っていることの恐怖を攻撃し、そこに商業的拡大をもとめる。われわれはこの恐怖産業についての警戒心やリテラシーをもつことが求められる。

 劣等感や恐怖心にかんたんになびいてはならないのである。改善や解放をすぐに求めずに、その恐怖心の源、原因がどこからやってくるのか見極めるゆとりが必要なのである。

 強制や強迫が世の中をおおっているとき、オルタナティブは趣味や産業の面でおこなわれる。たとえばオタクやアニメは恋愛主義や恋愛市場からの逃走をたぶんにふくんでいるし、趣味の多様性は恋愛以外の生きる楽しみを増やしたし、コンビニや家電の充実は家事労働の重要性を減らし、家事結婚の必要性を減らしていった。

 なにより結婚というのは男性にとっては、労働やお金をもっと稼がなければならなくなる負債を増やすことである。女性にとっては無銭労働によって家事や育児の負担に人生を奪われることである。そういうことで結婚、ひいては恋愛にたいする躊躇心というものを増大させていったのだろう。

 恐怖によって駆り立てられていた恋愛や結婚というものは、趣味や商業の発達によって、その成立根拠の根の部分をそぎ落としていったのである。気軽にできる趣味、どこでも気軽に手に入る食べ物といった産業の発達によって、結婚も恋愛も、強制によるインセンティブをそがれていって、若者の恋愛離れや晩婚はすすんでいった。

 恋愛結婚というのは人々に恐怖をあたえ、排斥や侮蔑の恐怖からの逃走をうながし、それはオルタナティブ的な産業の勃興をもたらし、自壊していったというのが、こんにちの恋愛離れにあらわれているのかもしれない。

 恐怖によって強制される慣習や多数者の教訓を、この恋愛主義の勃興と終焉は見せていったと思われる。侮辱や軽蔑を恐れて、多数者やみんながしているからすることは、これからも社会につづいてゆくことだと思う。恐怖から逃走して多数者になびくとき、この恋愛主義のサンプルを思い出してほしいものである。


▼恋愛主義というのは、まことに「自由からの逃走」「多数者の専制」のサンプルであったと思う。
日本の童貞 (河出文庫)萌える男 (ちくま新書)個人と社会―人と人びと自由からの逃走 新版自由論 (岩波文庫)

恋愛しない若者たち コンビニ化する性とコスパ化する結婚 (ディスカヴァー携書)結婚しない男たち 増え続ける未婚男性「ソロ男」のリアル (ディスカヴァー携書)(090)未婚当然時代 (ポプラ新書)非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容 (青弓社ライブラリー)

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11 26
2016

主体性の剥奪

自分はどれだけつくられたものか――『なぜ、自分はこんな性格なのか?』 根本 橘夫

4569624766なぜ、自分はこんな性格なのか?
―性格形成分析入門

根本 橘夫
PHPエディターズグループ 2002-10

by G-Tools


 われわれは思う以上に意志や主体性を奪われて生きてきたのではないか、という疑問から毒親論、虐待論、教育論と読んできた気がする。どのように主体性のないものとして、「つくられてきたか」という捉えなおしをしてきたのだと思う。

 「なぜ、自分はこんな性格なのか?」という問いは、おそらくは同じ失敗をなんどもくりかえしたときに思い浮かぶ疑問ではないかと思う。上記のわたしの問いとはすこし異なる気がするが、性格がどのようにつくられたかと探る試みは同じようなものである。

 自分の性格に拘束されて、なぜ同じ失敗やあやまちをくりかえしてしまうのだろうと問うたとき、人は自分はどのようにかたちづくられてきたのかと問いはじめる。

 人は成人のころは自分ひとりで生きてきたように思いやすいと思うのだが、親や生育環境に適応してきた部分もかなり大きいだろう。親との対応が自分の性格だといえはしないだろうか。

 アダルトチルドレンの抑圧的な性格がひところ問題になったことがあったが、これは主体性を奪われて秩序に服従する性質を現代の多く人がつちかわれていることの気づきに相当するのではないかと思う。それは神経症的な個人だけの問題だったのだろうか。

 この本では性格類型による分析もおこなわれていて、たとえば分裂的性格とか、抑うつ的性格とか、強迫的性格とかいったおなじみのものである。クレッチュマーだったか。この分類に責任を帰すると、人の共通する行動は、その性格・気質に帰せられてしまい、社会的要因論が阻害されるように思うが。

 親の要求や願望に適応するかたちに育ったいつわりの自我を「代償的自我」と著者の根本橘夫はよんでいるが、この問題意識をもつ人は、わたしの問題意識と近いところを共有している人だと思う。エドワード・デシもモチベーション論でこだわったのは内発的自我であって、親や他人からの外発的なものは「いつわりの自己」として批判されている。

 ホルネイは不安への対応が性格をかたちづくるとしたが、この論理は身に覚えがある。「相手に好かれていれば、相手は攻撃してこないだろう」「自分を無にして相手の言うがままになっていれば、相手は攻撃しないだろう」「外界が怖いなら、外界と接しなければ安全である」「強ければ相手は攻撃してこないだろう、優秀であれば非難されないだろう」 不安から逃げてしがみつく論理って身に覚えがあるが、この目標はどこかで破たんするようなものに思える。

 自分の性格は親によってあらかたつくられたものか、それとも自分の資質にしたがって生まれたものか。その割合を問いたいのではなくて、その人からつくられた自分をどれだけ客観視できて、自分からひきはがすことができるかが、わたしの知りたいところあたりだと思う。

 人につくられた「代償的自我」を脱しながら、ほんとうの自分を見つけてゆくことが人間の成長だと思う。社会的に適応してゆくだけでは、それはまったく親のいいなりになった「いい子」と同じことで、自分の意志や主体性は抹殺されたままである。社会的適応を脱して、ほんとうの自分になってゆくこと、それこそが人生の求められる価値ではないかと思う。


「いい人に見られたい」症候群―代償的自己を生きる (文春新書)人を伸ばす力―内発と自律のすすめ自己分析「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない影の現象学 (講談社学術文庫)

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