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07 02
2016

強制と自発性

鬼畜の被害者としての顔――『殺人者はいかに誕生したか』 長谷川 博一

410137452X殺人者はいかに誕生したか
「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く
(新潮文庫)

長谷川 博一
新潮社 2015-03-28

by G-Tools


 凶悪殺人犯は世間から「人間ではない」「鬼畜」だと最大の非難をうけ、一寸の洞察や推察もしてはならないで排斥するのがいちばんだという激昂された対応をされる。しかしこれは冷静な原因究明や改善をまったく考えないやり方でもある。

 「虐待連鎖を断つ会」を立ち上げた著者、長谷川博一には、鬼畜である凶悪殺害者にはべつの顔が見える。すなわち虐待被害者としての顔である。

 この本ではだれでも名前を憶えているであろう宅間守や宮崎勤、金川真大などの凶悪殺人犯にじっさいに接見したり、手紙をやりとりしたナマの関係が描かれているのだが、虐待被害者としての顔をひきだす前に死刑が確定・執行されて、究明が不十分なままで終わることも多い。

 わたしはあの秋田連続殺害事件の畠山鈴香の章を読んで、一日気分が重苦しくなった。マスコミに恫喝をくりかえす印象を刻印された方が多いと思うが、児童虐待の被害者としての顔や、教師や同級生にイジメられつづけた顔に、思わず涙が出そうになった。

 母親とともに父親から暴力と虐待をうけつづけ、食事のときはとくに父が怒りださないように気をつけなければならなかった。そこに小学校で給食を食べ残さない指導をする教師に出会い、罰として手のひらに受け止めさせて食べさせる行為をおこなわせる。「犬みたいだ」というイジメが同級生からおこなわれ、ずっといじめられ、みなさんもご存じと思うが、秋田に帰るなというヒドイ卒業文集につながる。

 父からの暴力によって他人に抵抗しない人格がつくられ、イジメはそれによって増幅し、教師もまた後追いするかのように、畠山鈴香を追いこんでゆく。まるで父がつくった被虐待児の容器の上に流し込まれるように、教師と生徒の非難が重なり、また事件後の世間からの非難もつけくわわる。

 皮肉なことなのだが、われわれは子どもを殺害した極悪人という顔でしか彼女を知りえない。非難と攻撃の矢をいっせいに放つのだが、その前に教師や生徒に非難され、またその前には父親にさんざん暴力をうけていたという顔を見ることはない。そのおかげで、「人間ではない」「鬼畜」という非難を、手放しでおこなえる。加害者はだれで、被害者はだれなのか?と構図が反転しそうな情報である。

 「十代までに子どもを守れなければ、その後は社会の方がその子から守られなければならなくなる」という格言があるそうだが、凶悪殺人犯の陰には、凶悪な家庭からの悲惨な暴力や虐待が、例外なくひそんでいる。無の状態から、無垢な赤ん坊が殺人者として生まれ出るわけではないのである。

 裁判は量刑を判断する場所であって、真実究明の場所ではないという制約が、長谷川氏の試みをどんどん抑え込んでゆく。遺族やその心情によりそう人たちにとっては、凶悪殺人者に同情や味方をする臨床心理士の存在はゆるせないと映るようで、長谷川氏の願いがどれだけ広がっているのか心配になる。

 光市母子殺害事件の元少年も、父から母とともに暴力や殺されそうな目に合っており、うつとアルコール依存におちいった母は中一のときに自殺してしまう。長谷川氏の真理追及の試みは、よい子として育った少年の従順さと弁護士の阻止によって、はばまれてしまう。

 虐待被害者は暴力をうけている最中、自分の痛みや苦しみの感覚を麻痺させてやりすごそうとするしのぎ方を発達させる。その自分の心を感じないことによって守ろうとした防ぎ方が、他者の痛みや共感不良の下地をつくってしまう。被害者が自分の痛みを感じないように守ろうとしたスベが、共感能力を奪い、他者との関係をうまくいかないようにするというのは、被害の上塗りかのようで悲惨で頭をかかえたくなる。

 人が他者におこなうことは、同じように自分もおこなわれたこと。この関係性は人間の基本となるようで、悪いこともいいことでも、覚えておきたい基本形のようである。子育てでよいことがおこなわれたと思っていても、それが支配や強権のかたちをとっているばあいは、その支配のかたちが子どもにあらわれる。従順でよい子の顔ではなくて。よいことは人の盲点をつくって、支配関係を見えなくさせるのである。

 裁判では被告の成育歴もとりざたされ、「情状酌量の余地もある、しかしながら」といって、幼少期の悲惨さを大人になった自分で克服できなかったのは、自分のせいと責任とされる。はたして殺されそうな環境に生まれ育ち、圧倒的な親の力に屈服されるしかなかった無力の子どもであった被告が、なんの心の傷やゆがみも背負わずに、大人として健全に育つことはできただろうか。

 世間では凶悪殺人犯は、「人間ではない」「鬼畜」だといって、人間の共感や同情をまったく排除したうえで、社会から切り離されようとされる。世間から最大の非難を受ける。しかしそれでは同じような環境で野放しされ、これから同じような社会に犯行をおかいてしまうかもしれない人間の生育を防げるだろうか。

 最大の加害者が、最大の被害者であったという悲惨さは、被害者としてこの世の生まれ、加害者として非難される顔しか見られなかったこの世の被害を一身に背負って育ったかのようである。そういう非難と排斥の構造が、被害者の顔としての面をいっさい抹殺してしまうのである。


橋の上の「殺意」 <畠山鈴香はどう裁かれたか> (講談社文庫)断ち切れ!虐待の世代連鎖―子どもを守り、親をも癒す「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)虐待の家-「鬼母」と呼ばれた女たち(中公文庫)わたしが出会った殺人者たち (新潮文庫)

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06 30
2016

強制と自発性

子どもとの接触経験がない――『完璧志向が子どもをつぶす』 原田 正文

4480064451完璧志向が子どもをつぶす
(ちくま新書)

原田 正文
筑摩書房 2008-08

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 ふたつの子育て実態調査――1980年におこなわれた大阪レポートと、2003年におこなわれた兵庫レポートをくらべて、この二十年のうちにおこった子育ての変化をとらえた本である。

 大阪レポートは1950~1955年生まれの母親が対象であり、兵庫レポートは1970年~1975年生まれの母親がおもになっている。つまり地域社会で子育て環境があった高度成長期前に育った母親と、都会に出て働きだした世代の初代専業主婦によって育てられた母親の子育て環境の違いをうきぼりにしたということになる。

 1960年代生まれ世代以降にひきこもりが増えたといわれ、理解できない新人類があらわれたといわれ、行動成長期と地方から都会で働くようになった生活環境の激変があり、それが人格形成や子育て環境におおきく影響をあたえたと考えられている。

 子育てはだれの目にもわかるかたちになるのが思春期といわれ、「いい子」ほど思春期につまづきやすといわれている。子どもにとって親の力が圧倒的に強く、親が力づくで子どもの意志を押し込むと、「自分の意志を出すことは悪いことだ」と思ったり、恐くて自分の気持ちを表現できない子に育ってしまう。見かけ上は親の言うことを聞く「いい子」になるが、そのことによって自分になろうとする思春期に行きづまりや問題を生み出してしまう。

 この二十年の大きな変化として、子どもを生む前に幼児との接触経験や育児経験がない母親になる女性が増えたことであり、いきなり見たこともない赤ん坊と対峙することになって、とまどってしまう。地域で大人と子供が触れ合う機会もなく、大人は子どもと出会わず、幼児も知らず、子どもは母親との関係だけにおかれることが増えている。地域から子どもを育てる環境がなくなっているのである。企業社会が大人をとりあげたひずみである。

 母親にも、学校やメディアの影響で、「TVでいわれたことはそのようにしなければならない」と思い込んでいたり、学校で習ったように「答えは一つ」という絶対的な考えがあり、ほかのやり方を思いもつかないし、「ちょっといいかげんな、ほどよい加減」というものがわからない。この指摘はたいへん大きなものだと感じた。

 企業社会が大人をとりあげすぎ、地域から子育て環境が消え、大人と子どもの接触はなくなり、人類の生存環境がなくなるという大げさな危機をむかえている。そして母親とだけの子育てカプセルに閉じこめられ、煮つまる。教育やメディアは柔軟に個別的な対応を育む知恵を育てず、答えはひとつやメディアのいうことは正しいといった教条を教え、母親の不安を増幅する。ろくでもない、悲惨な子育て環境である。

 企業社会や生産に傾きすぎた社会が、子どもが生育する環境をとりあげておきながら、少子化の危機を喧伝する。生産主義的環境が、まるで殺虫剤のように生命の再生産を殺しているようだが、労働に傾斜しすぎた社会が、生命の育つ環境を殺していても危機感を感じない無神経さで、少子化の危機を叫ぶ。

 むかし子どもは働き手であり、後継ぎであり、老後の面倒を見てくれるものとしてどうしてもほしかったのである。いまでは個人的なメリットはほとんどなくなったのであり、社会や共同体が存続の必要からのぞまれるという存在に変わったのである。

 発達心理学では生涯、人間は成長してゆくという考えがあるらしく、二十代後半では、表面的言動の裏にあるものを理解する能力をつけたり、相対的な見方をそなえる時期である、と考えられているそうだ。相対的なものの見方を、わたしは本を読むことによって学んだが、これを発達段階の一段階としてとらえられるとは思わなかった。人は生涯成長してゆくもののようだ。

 日本社会は企業が社会の上に君臨・支配する企業のためのシステムに特化しすぎたのだが、そのために子育て、子どもが育つ環境が消滅・抹殺されてしまっている。人の考えも生産と効率に適した考え方だけを植えつけられる。殺虫剤のようである。企業に特化しすぎた社会の復讐をうけているように思うのだが、その是正をできなかったわれわれ自身が、生命からの復讐をうけているのだ。


雪国はなったらし風土記完璧な親なんていない!―カナダ生まれの子育てテキスト【完ぺきな親なんていない】子どもの感情・親の感情――子どもの気持ちにどうこたえてあげたらいいの?みんな「未熟な親」なんだ―グループ子育てのすすめ (健康双書)

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06 27
2016

強制と自発性

過剰と強迫のエスカレート――『日本人のしつけは衰退したか』 広田 照幸

4061494481日本人のしつけは衰退したか
(講談社現代新書)

広田 照幸
講談社 1999-04-15

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 99年に出た本だから、とうぜんながら酒鬼薔薇事件などの少年犯罪が世をにぎわせていたころだから、しつけの衰退を憂え、もっと厳しくしつけをという世の風潮に否をつきつけた本ということになる。

 いまは親がしつけや教育に熱心になりすぎて、ぎゃくに「わが子に手をかけすぎないように」とくりかえし注意しなければならないところにきている、というのが著者の主張である。過剰な母子密着や「逃げ場のない牢獄」が問題になっていると。

 本屋の育児本とか見ると、個人的な主張ばかりがやさしくのべられ、データや客観性のとぼしい個人的かたよりのある本が多いように見受けられる。こういう客観的な子育てしつけの風潮や傾向はどこにきているのかを全体的に見れる本はとても重要だと思う。

 この本は理想化されがちな村のしつけから、高度成長期をへた都市住民のしつけや教育、げんざいの家族教育主体の時代まで、ざっとさかのぼっていて、ひじょうに参考になる。

 旧態依然とした村の暮らしから、都市に働くことに出ることで立身出世が夢見れた高度成長期に学校や学歴にどんなに期待されたのかがわかって胸が熱くなる。このころのしつけ論は、遅れた村のしつけや教育を、都市高学歴者が上から批判するという図式でなされるものが多かったようである。

 80年代になると学校の集団管理は時代遅れになり、個人化や個別化、主体化をになえない学校は不要で抑圧的なものとうつるようになっていった。いまは教育する家族のコーディネイトにたえられるような学校が求められ、従属するようになっているといわれている。

 90年代の犯罪少年ブームは、非行や犯罪は親の責任にあるといって、親にもっと過剰で強迫的なしつけや教育をうながすようになったのではないだろうか。ゆるめないといけない方向の上に、ますます縛りつける方向にすすむとは皮肉なことである。

 高学歴・高階層の親ほどしつけに厳しく、体罰を用いるという結果が出ている。子どもには自主性を尊重しておきながら、厳しくしつけようとする矛盾をひきおこしている。

 しつけとか教育というのは、支配者と奴隷の関係をつくりだすことなのであって、あんなに反発したはずの封建的な関係を期せずして生み出してしまう。皮肉なものである、理想に前のめりになったものは、自分たちの高圧的な関係が見えない。

 しつけや子育ては正解やただしい唯一の答えなどない、なにがまちがいかもわからず、結果がどう転ぶかもわからない不確実なものであると思う。どの要因や影響によって、幸不幸に転ぶかもわからない。まあ、人間関係やこの世というのは、そういうものである。自分も子供も追いつめない姿勢をつちかいたいものである。


完璧志向が子どもをつぶす (ちくま新書)文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)ふにゃふにゃになった日本人―しつけを忘れた父親と甘やかすだけの母親人間形成の日米比較―かくれたカリキュラム (中公新書)イギリスのいい子日本のいい子―自己主張とがまんの教育学 (中公新書)

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