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06 18
2021

神秘思想探究

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は身体をどのように語ったのか


 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』はアドヴァイタ・ヴェーダーンタの最高峰とよばれる聖典である。

   


 あまりにも認識をゆるがす言明が多くありすぎて、自分の中にうまく整合性をもって受け入れることができない。自分の世界観になじませるために、その言述を抜き出して、銘記できるようにしたいと思う。

 聖典の中から、身体にかんする記述を抜き出したいと思う。


「永遠で、純粋な、遍く存在する無限の意識を覆い隠し、それを生命力のない物質的身体と同一視させてしまう心ほど不思議なものが他にあるだろうか?」 P.120



 無限の意識とよばれるものは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』に頻出し、おそらく真我と同義と思う。またブラフマンの意味も兼ねているのだろう。身体は生命力がないといわれ、心が誤った同一視をおこなうと批判されている。

「なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか? 身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ」 P.124



 われわれは真我であり、身体ではない。アドヴァイタ・ヴェーダーンタが主張するおもな言説である。われわれは身体こそが自分だと思っているから、この世界観を受け入れることができない。われわれは身体ではない?

「この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ」 P.124



 身体は夢のように空想である。実在としか思えないこの身体を、空想と思えるだろうか。ぎゃくになんども身体は空想だと唱えないと、そのような意識が定着することはない。

「この身体は生命意識を持たないただの物質だ。それゆえそれは楽しむことも苦しむこともできない。不注意や愚かさをもたらすのは無知だけだ。それゆえ、楽しんだり苦しんだりするのもただの無知だけなのだ。実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを体験するのは心だ。心が人なのだ」 P.125



 身体はただの物質だ。楽しんだり、苦しんだりしているのは心であって、身体ではない。心が身体を体験し、世界も心が体験している。この世界は心の現れだ。身体からさまざまな感情、体験をぬきとり、それを心に還元しろ。正しい理解とはそのようなものという。

「はじめに説明した分離した実体としての「私」は、身体と自己を同一視している。これは断固として放棄されなければならない。高次の「私」の形なき形に絶え間なく瞑想することで、低次の「私」の形は消去されるのだ」 P.154



 私というのは身体と同一視している。これを断固として放棄しろといわれている。私というのは偽りの概念であり、身体も実体のものではない。私も身体も幻想のものとして波間に消え去らなければならない。

「だが、真我よ。悲しいかな、身体の同一化ゆえに、あなたは言わば自己の本性を忘れ去ってしまったのだ。それゆえ、あなたは叡智を失って、外的な知覚体験と果てしない輪廻転生の中で苦しまざるを得なかった」 P.211



 身体だけではなく、この世界の現れも夢のように非実在だと説くのが『ヨーガ・ヴァーシシュタ』である。輪廻転生も夢のような体験の連なりと説く。幻想と実在と見なす過ちに、われわれはずっと捉えられているのか。

「身体の中に存在していても、身体はあなたのものではない。だから、あなたは身体ではない。あなたは無形の知性ある観照者だ」  P. 215



 知性のある観照者というのは、神秘思想でも禅でも説かれるわれわれの真の主体といわれるものだ。われわれはほんとうはこれであって、身体でも、心でもないと説かれる。われわれは身体や心、自我こそがほんとうの自分だと思い込んでいる。この呪縛を解けるか。

「無知によって生まれた身体が、世界の中で死のうと生き続けようとかまいはしない。私はそれに影響されない意識なのだ。すべてに遍在する無限の意識には、誕生も死もない。誰もそれを所有することはできない。それは遍在する意識であるため、分離した個人として「在る」ことで得るものもない。誕生と死は単なる概念にすぎず、真我とは何の関わりもない。自我の感覚を持つものだけが束縛される。だが、真我は自我から自由であり、それゆえ存在や非存在からも自由なのだ」 P.231



 無限の意識こそがほんとうの私だといわれているのだが、私たちは身体や心こそが自分だと思い込んでいる。身体は一夜の宿や借り物と思えるような放棄をできるだろうか。

「すべての身体も普遍の実在の中にもともと存在していたのだ。過去、現在、未来において、海は常に海として在った。波はその同じ水が一時的に波という姿をとっただけだ。同じように、すべては常に普遍の存在なのだ。それゆえ、一時的な現れにすぎない身体に対して「これは私だ」という感覚を抱くのは愚者だけだ。そして、心としての本質や機能が止めば、最後にはふたたび意識となる」 P.233



 普遍の意識は海のようなもので、身体は一時的な波のようなものだ。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではこのような比喩で、事実を理解させようとこころみる記述がたくさん出てくる。身体は一時的な波だ。身体は実在や固定的なものではなく、つかの間に現れる波頭のようなものだ。身体をそのように捉えられるか。

「もし心が存在を消せば、想念も精神的条件づけもなくなるため、身体も存在を失う。だが、身体が死んでも心が存在しなくなることはない。だから、心を殺すように努めるべきなのだ。心は想念形態という木々や欲望という蔦にあふれた森だ。それを破壊すれば至福に至る。心が死んでしまえば、血や肉でできた身体が存在しようとしまいとどうでもいいことだ。私が身体ではないということは明らかだ。なぜなら、死体は機能しないからだ」 P.234



 心がなくなれば、身体もなくなる。心と身体をつなぎとめる精神的条件づけをなくせとこの聖典ではなんどもいわれる。心も身体も幻想であり、実在するものではない。真我や無限の意識こそがほんとうの私だと思い、身体や心の同一視をやめよ。そのような意識の同一視だけに、精神を集中できるだろうか。

「真我は苦痛や快楽に影響されない。だが、身体との同一視によって、自己は身体の体験を経験することになる。この無知な同一視を放棄することが解放だ。
自己と身体との偽りの同一化や執着心を克服した者は、即座に悲しみから自由になる」 P.245



 身体は苦痛や悲嘆の巣窟である。この同一視をやめよ。身体を自分だと思えなくなると、悲しみや苦痛から自由になれる。身体の脱同一化ほどむずかしいものはない。この聖典の主張を信仰するほかないのか。

「「身体は実体のない妄想だ」と見なす人に心は生じない」 P.275



 身体は妄想である。身体は実体あるものだと見なすからこそ、心は生じるといわれる。心は身体が生み出す。この聖典では心も身体も殺すことが説かれている。これらを省いたものこそが、真の認識である。ここに到達するには道は険しい。

「「身体」と呼ばれる独立した実体はこの世に存在しない。身体、観念、対象物の知覚、儚きもの、永遠なるもの、想念や感情、そしてそれらの意味――これらすべては無限の意識であるブラフマンの中に現れたブラフマンなのだ」 P.286



 アドヴァイタ・ヴェーダーンタはこの世界は幻であり、ブラフマンだけが実在と主張するインドの哲学、宗教の一派である。この聖典では無限の意識や真我といわれるものだ。私たちの当たり前の世界観の実在が転倒されるのである。ここにたどりつけるだろうか。

「それが実質を持つものとして体験されるときだけ、身体は実在と見なされる。精神的傾向ゆえに、実際には肉や骨にすぎないものに対して、「私はこの身体だ」という観念が起こる。だが、それは幻でしかないのだ。この幻を棄て去りなさい。あなたの想念の力によって、何千ものそのような身体が生み出されてきた。夢を見ているとき、あなたはその中で身体を経験する。その身体はどこから現れたのか? どこに存在しているのか?」 P.303



 身体は幻である。想念が身体をつくりだし、そのような身体をまとった生がいくどもくりかえされたといわれる。それは夢なのだ。この世も、この生も、夢なのか。実在しない、想念がつくりだすものか。われわれの認識は、それとはまったく逆で、この身体、世界こそが実在と思う。それこそが当たり前の世界観である。身体も、この世界も、幻、夢である。この聖典のいった言葉を念頭に、瞑想するしかない。

「この身体は無知な心が生み出した想念の産物でしかない」 P.305



 身体は想念の産物である。想念というのは、頭や心の中にあるはかない、霞のようなものである。身体はそのようなあやふやなものの産物であると宣言される。私たちの常識はむろん逆である。身体や心こそが実在していると思う。いや、想念はよく観察すれば、あやふやな消え去りそうなものだし、身体の感覚だってしょっちゅう忘れている。この亀裂が大きな穴になるまで、瞑想するしかないのか。

「物理的身体は生命力を持たないため、それは真我ではない。身体の存在が体験されるのは、心の中に想念の動きがあるときだけだ」 P.349



 想念の動きがあるときにだけ、身体は存在する。身体は想念の無知の産物である。この転倒した認識を受けれられるか。

「自己と身体の同一視は、太陽の光でも消し去ることのできない最悪の妄想だ。身体を実在と思い込むと、それは実在となる。だが、叡智を通して見ると、身体は非実在となって、虚空の中に消え去る。身体についてどんな観念を抱こうと、それはそのように現れるのだ」 P.300



 身体を自分だと思うことは最悪な妄想だといわれる。実在というのはふしぎなもので、実在と思うと実在がとうぜんになり、疑惑を通すとそんなものは実在していないという思いが強くなる。われわれは実在の当たり前を思い、その疑念をもつことすらないのである。疑惑がその非実在性をうきぼりにしてゆき、この世界、身体はどんどん幻や非実在の真相を現すようになるのかもしれない。





 身体についての記述だけを抜き出したが、これは文脈や前後の流れから切断することは、多くの意味をそぎ落とすように思えた。文脈や大きな話の流れこそが、この聖典では重要なことを語っている。

 身体ひとつだけでは、意味をなさない。心や世界の現れをどう見なすかという世界観のひとつとして、身体の状態は理解されるべきだ。この聖典は全体の意味、主張がもっとも大事である。部分や一か所にこだわるべきではないと思われた抜き書きであった。


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05 31
2021

神秘思想探究

まがいなき最高峰――『ヨーガ・ヴァーシシュタ ー至高の真我ー』

   

 帯に「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの金字塔」、「最高峰の聖典」と書かれているが、まちがいなく最高峰の経典である。これからもなんども読みかえしたいと思うし、最後の一冊になってもよい本だ。もろ手をあげて絶賛するほかない本。

 ラマナ・マハラシやプンジャジがこの本を推薦しているように、これはヒンドゥー教やヴェーダーンタ哲学の最高峰である。「真我」という言葉が頻出するのは、ラマナ・マハラシはこの系統であることがわかる。

 無我を語っていることからも仏教でも参考になるだろうし、神秘思想を探究している人ならぜひこの本を手にとってほしい。仏教はインド哲学のブラフマンを否定したところから出発した思想だから、向きは内と外でちがうが、おなじところをめざしていたのは変わりないと思う。

 この『ヨーガ・ヴァーシシュタ』が最高峰なのは、世界の現われや知覚、身体、心といったわれわれには「実在しているしか思えないもの」を幻想や実在していないものとして否定していることだ。これは「唯心論」の極北、観念論の極致なのであって、完全なる「物質的世界観」の否定である。

 われわれの常識は、この世界や知覚は実在するものだ、疑いようもないものだという感覚で生きている。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』はその物質的世界観や身体の実在性を、根底から否定するのである。いわば逆転した、転倒した世界観である。

 これはラマナ・マハラシが「私は身体ではない」といったり、チャネリング本が身体の実体性の否定を語ったりするが、おおよそわれわれの感覚からは理解されがたい考えである。それを心の底から実感させてくれる考えにもなかなか出会えない。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』はその否定を論理的に徹底的におこなう。これほどまでに身体や心の否定を語った本はめったにない。

 この聖典はだれに書かれたのかも、成立年代もわからないといわれているが、英訳をとおしての日本語訳なので、現代語にまったく違和感のない文章として読めることが、この書を重要たらしめている。もし漢文訳などを通すともっと古めかしい文章になっていただろう。

 世界の現われを否定して、ただブラフマンが実在するというわれわれの感覚では理解しがたいこの書の主張は、シャンカラとまったく同じである。シャンカラのアドヴァイダ・ヴェーダーンタの正当な後継書とみなしてよいと思う。ならば成立年代はシャンカラより後か。シャンカラは「隠れ仏教徒」ともよばれたので、仏教にもこの書は親しい。無我も説くし。

「私たちが住むこの世界は、この物語ほどの実在性も持たない。この世界はまったくの幻想以外の何ものでもないのだ。無限の意識の中で創造という観念が起こった。それが「存在するもの」だ。
ラーマよ。この世界は単なる観念でしかない。この世界の中に現れる意識の対象物は、ただの観念なのだ。観念化という誤りを拒絶しなさい。そして、観念から自由になりなさい。真我の源にとどまることで平和になりなさい」



 この世界の実在性が否定されている。この世界はたんなる観念でしかないと宣言されるのである。私たちはこのリアルな世界の現われを、たんなる「観念」にすぎないと見なすことはできるだろうか。これがこの書が一貫して説きつづける教えである。

「観念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。だが、空に青さはない。視覚の能力の限界が、空を青だと見なすのだ。同じように、世界の現れを知覚するのは思考の限界に他ならない。この世界の現れは錯覚だ」



 世界の現れは思考の限界に他ならない。この世界の現れは錯覚だ。この考えについてゆけるだろうか。物質的な知覚観を徹底的にそぎ落として、それは観念や思考にすぎないと実感できるだろうか。人はそこまで認識を超越することができるだろうか。

 身体の実体性も否定される。

「この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ」

「この身体は生命意識を持たないただの物質だ。それゆえ、それは楽しむことも苦しむこともできない。…実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを経験するのは心だ。心が人なのだ」

「それが実質を持つものとして体験されるときだけ、身体は実在と見なされる。精神的傾向ゆえに、実際には肉や骨にすぎないものに対して、「私はこの身体だ」という観念が起こる。だが、それは幻でしかないのだ。この幻を棄て去りなさい。あなたの想念の力によって、何千ものそのような身体が生み出されてきた」



 身体は空想や幻。身体の実在性を疑うものは、われわれにはほぼいない。この身体をどう疑えるというのだろう? それは空想や幻にすぎないのか? 実体なきものなのか? 身体の存在は意識から忘れているときがほとんどだし、それは心から見られた像とするなら、実在性を少しは疑えるだろうか。

 心も徹底的に否定されて、死者や無知とそしられ、罵倒の対象となる。

「心には生命力がなく、実体もない。だとすれば、それは死んでいるも同然だ! にもかかわらず、この世の生き物はこの死者に殺されている。何と不可解な、何と愚かなことか! 心には自己がなく、身体もなく、支えもなく、姿もない。それなのに、この世のすべてのものがこの心に食い尽くされてしまう」



「もしよく調べれば、心と呼ばれるようなものは存在しないという真理がはっきりするからだ。心とは無知の産物でしかない。無知が消え去れば、心も消え去る。それゆえ、お前はいずれ消えゆく運命にあるのだ」



「心よ。お前の存在自体がお前にとっての苦しみだったのだ」



 心への罵倒、徹底的な批判は衝撃的で、すっきりもする。心を人物のように見立てて、説得する想像力には、感服である。禅の「無心論」にも近い徹底した心の実在性の否定である。

 われわれが当たり前に実在すると見なす世界の現れ、身体、心は、とことんその実在を否定される。後に残るのは真我やブラフマン、純粋意識といったもので、多様性や個的なものはいっさいないとされる。われわれの常識からはまったく見えないものである。それが真理とされ、われわれの自明的世界観がくつがえされた世界観が呈示される。

「知覚された対象である世界が徐々に消えていけば、至高の真理だけが残る。そうすれば、個人の人格もその真理の中に融け去って、つかみ取るべき外側の物事も無くなる。対象としての世界が創造されたことは一度もなかったのだ。今、見ている世界も存在しない。そして、未来においても存在することはない。いつのときも、ただ「至高なるもの」だけが唯一の実在として存在するのだ」



 私たちに見える世界が否定されて、見えないものがほんとうの実在とされるのが、この『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の核心である。シャンカラもいってきたし、ウパニシャッドの時代からもそうだ。われわれの自明性のまったく転倒である。一体どうやってその世界にたどりつけるというのかと悩んできたものが修行であったり、経典であり、いまもえいえいとその行程はつづいているのである。

 『ヨーガ・ヴァ―シシュタ』は私がこれまで読んできた神秘思想の書物の中でも最高峰のレベルに達したものだと思うし、ほかの書にない知恵や説明も、過剰なほどに出会った。まがいなき最高峰の聖典である。輪廻が夢のようなものとして語られ、ときに空想的に飛翔しすぎの物語感もないわけではないが、そのくらいは割愛してもいいだろう。

 当地は仏教国であり、このヒンドゥー教やアドヴァイタ・ヴェーダーンタの書が、衆知のものであったことはない。惜しくて、残念なことである。

 この書は手元におき、これからもなんどもくりかえし読むことを課したいと思う。



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05 11
2021

神秘思想探究

あの世と魂の浄化――『パイドン―魂の不死について』 プラトン

   

 新プラトン主義は一者との合一をめざす神秘主義的傾向が強かったのだが、プラトン自身はどうだっただろうか。ソクラテスの処刑前日に語られたこの魂の不滅についての書に、その答えがあるだろうと読んでみた。

 ソクラテスは魂の不死について語り、弟子たちがその反論をこころみる、つまり霊魂の不死を信じていないという関係で語られる。ソクラテスが宗教者の立場で語り、弟子たちはそうではない。

 ソクラテスが宗教集団なら死の間際以前にとっくに語られていたわけだから、ソクラテスは宗教集団を志向していたわけではない。けれど信じていない弟子たちに、ソクラテスが魂の不死を説得するわけだから、ソクラテスのほうがより宗教者だったということになる。

 ソクラテスは肉体からできるだけ離れ、魂自身となるようにつとめることが哲学することであり、哲学者というのは生きているうちに死ぬことを準備しているのだといった。哲学することはより魂自身になることであり、神的なものに近づくことである。

「魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。」



 肉体は無数の厄介を背負わせる。病や欲望、恐怖などに満たされ、真実を考えることができない。財貨の獲得は肉体の世話のためであり、真実の追究をさまたげる。感覚は欺き、理性や真なるものを遠ざける。

 キリスト教の禁欲的な考えとよく似ているが、それはあくまでも哲学するためだ。ソクラテスは死後の賞罰も語り、輪廻転生も説いて肉体からの解脱をめざすのだが、魂の浄化にウェイトがおかれる。魂を磨くこと――つまり哲学することが神に近づいて、この生からの解脱になると告げる。

 仏教にも近いのだが、仏教は思惟や哲学のすすめを説いたりしない。禅になると言葉は捨てるべきものであり、理論だってそうだろう。禅の教えなら、ソクラテスもプラトンも落第者である。哲学することが魂が浄化することであると説くことは、その後の哲学ロゴスの興隆をもたらす考えである。

 ソクラテスの死後観は、キリスト教の天国と地獄に似ていて、生まれ変わりも賞罰をともなう。大食や好色、酒びたりはロバやケモノに生まれ変わる。不正や独裁政治、略奪は、狼や鷹、鳶に生まれ変わるそうである。生まれ変わりの対象が生ぬるくて、現代ではちょっと「?」がつきそうな軽い罰である。

 神秘思想の「一なるもの」の合一は、説かれた覚えがない。ギリシャで語られていたと思われる「一者(ト・ヘン)」の言葉も見当たらない。神と合一することより、死後の生まれ変わりへの希求が、語られるのである。新プラトン主義と違って、プラトン自身はこの書では一者との合一は語っていないのである。

 ソクラテスの自説披露の後は、ふたりの弟子による反論への反論に多くを割いている。シミアスは肉体の壊滅と同時に魂も壊滅するのではないか、ケベスは魂は幾度も肉体を着つぶすうちに魂も滅亡するのではないかという反論である。そのソクラテスの反論が言語的な論証であり、わかりにくいこともあるが、実際の内容をしめしたわけではないので、私的には納得しにくかった。

 現代的には、ソクラテスやプラトンが魂の不滅や死後の懲罰、輪廻を信じていたとは、あまり聞かないのではないだろうか。死後の生のために魂を磨く、その手段が哲学であるというあの世からの人生訓は、現代では受け入れられない宗教観である。まあキリスト教と変わらない。それにプラス肉体からの解脱のための哲学がくっつくのだから、仏教のこの世からの解脱とも似ている。しかし仏教はまちがっても、思惟や言葉を解脱の手段とはいわないだろう。どちらかというと、解脱の修行観としては、言葉というまがいものを信仰した時点で、落第だろう。

 哲学することが肉体の欺きから離れて、真理や神に近づくことである。宗教修行としては疑問符がつくが、その後の西洋論理の至上度を高める考え方のルーツが、宗教修行の中にあったというべきか。






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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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