|
|
『セラピーとしての神秘思想家入門』という本を去年の七月ころから書きはじめたのですが、ついにペーパーバックの見本刷りが届きました。
いままで2冊のkindle本は出していますが、紙の本での仕上がりを見るのははじめてです。
やはり紙の本での感激は、電子書籍と比べようもありません。いままで本を出したいと思いながらブログを書いてきたものにとっては、この物体としての本の仕上がりは感無量のなにものでもないというしかありません。
本文の「源暎ちくご明朝」というフォントはとても気に入ったものですし、ページの左肩に章のタイトルを入れることができましたし、表紙カバーの印刷もデザインも遜色ない仕上がりにできあがっていると思います。小躍りしたい気持ちですね。
完成品の域に達していると思いましたし、書店にならべてもいいくらいの出来だと感激しました。ぜひとも図書館にしのばせたいと思うのですが、それは可能なものなのでしょうか。

本の大きさはB6判です。単行本としては小さめの本です。Amazonのペーパーバックは洋書にあるようなカバー表紙のないものです。帯は紙を巻いているのではなくて、直接印刷です。見本刷りとしての「再販禁止」の線が引かれていますね。

ページは426ページのぶあついものになり、中身の濃いものをお届けできると満足です。だけど、印刷コストが1000円もかかる痛手は予想外のものでした。最低価格を1700円以上に設定しなければならない高額のものになります。電子書籍は500円以下に設定しようと思っていたので、差額が大きくなりすぎますね。みなさんには電子書籍しかおすすめできません。

裏表紙には本文からの抜き書きが書かれています。本格的なつくりではないでしょうか。

ペーパーバックというのはやわらかいソフトカバーの本のようなものですね。カバー表紙はありませんが、本としての体裁はしっかりもっています。コンビニのマンガ本とか、このペーパーバック仕様で見かけたことがあるかもしれませんね。

目次は章タイトルしか入っていませんが、節タイトルはべつに省略してもかまわないと思います。電子書籍版には節タイトルまで入るはずです。

本文の「源暎ちくご明朝」というフォントはとてもお気に入りです。威沙(いずな)というPDF印刷ツールを使った理由は、このフォントの使用によるものといっていいかもしれません。行数、文字数もデフォルトを使用しましたが、このくらいの文量が適度だと思います。

左肩、右肩に章タイトルと本タイトルが入れられて、とても満足です。これは威沙というツールによるものです。
ペーパーバックの仕上がりはとても満足のいくものでした。本という体裁ができあがったことが、うれしくてたまりません。なんせ、本をずっと出したいと思いつづけてきた人間ですからね。
あとはデザインの修正とか気になっている点の変更もおこなおうと思っています。本文の印刷の体裁もこれでいいのかの検討も必要です。もう一度、校正刷りを送ってもらうかもしれません。印刷代1000円と配送費がかかり、けっして安いものではありませんが。
なにより価格設定が悩ましいところですね。踏ん切りがついたところで、電子書籍といっしょに出版できる運びになると思います。もうすこしお時間をいただきたい。
このペーパーバックは、「家宝」にしたいと思います。
|
|
去年の七月ころから書きはじめた神秘思想家のまとめ本がついに書きあがりました。
神秘思想家のまとめ本を書いています 2022/9/3
この本では神秘思想家の要点や概要をまとめています。文字数では23万字、ページ数は版によって異なりますが、390ページくらいでしょうか。
とりあげた神秘思想家は、リチャード・カールソン、クリシュナムルティ、ニサルガダッタ・マハラジ、ラジニーシ、ケン・ウィルバー、シレジウス、ヴァシシュタの七人です。
あらためてこれらの神秘思想家の言葉一句一句と格闘してみて、だれよりもいちばん自分のためになりました。ほぼ引用が多い書物になりますが、それを私なりの説明やロジックで解き明かしています。むかしでいえば注釈本といったものでしょうか。これら神秘思想家の本を読んだことがない人は、その本人の言葉にふれられることになります。
私は神の信仰や実在視をまったくもたない人間ですから、神秘思想を言語学や心理学、認識論や哲学から読みこんでみたということになります。
神秘思想の真髄はなにかというと、「言葉・思考は実在しない」ということをいっているのだとあらためて実感しました。いや、神秘思想は神との合一や神の信仰ではないかと人は反論すると思いますが、「言葉・思考の実在視を解くこと」こそが中核です。
神との合一をめざしたのではなく、言葉・思考の実在を解くことがめざされており、しかしそれを一般の人が理解するのはむずかしく、おのれを捨てて、神の信仰にゆだねれば、平安がおとずれるという仕掛けや装置が用いられているのだと思います。神は方便であり、心理的平安の象徴にすぎないのではないでしょうか。
神秘思想の神というのは、「見えない神」です。言葉にすることも、知ることもできません。つまり言葉を捨てよということです。ギリシャ哲学の「一なるもの」やインド哲学のブラフマン、老荘の「道」は、言葉にできない分別のできないものです。これは言葉を用いるなということではないでしょうか。そこには悩みや苦しみのない平安があります。その境地が神とよばれたのではないでしょうか。
言葉を捨てるだけならかんたんに思われるかもしれませんが、言葉や思考がつくりだす世界がどのようなものか知り尽くした上でないと、私たちは無自覚に言葉と思考の世界にとりこまれつづけます。この像が実在しない幻である理解を深くもたないと、私たちは言葉のマジックやイリュージョンに確実に騙されつづけます。それほどまでに私たちは言葉の実在にとりこまれています。
言葉が実在しないものであるとわかると、自我や私とよばれるものも実在しないし、さらには過去や未来の時間も実在しないとわかってきます。言葉が、思考がそれを実在するという現実感を積み上げてきたわけです。私というものはじつに幽霊みたいな実在しないものだなという実感に不安になりそうです。
これらのくわしい内容は、この本を読むといっそうわかるようになると思います。言葉や思考の化けの皮をはがしてください。それを見破ると、平安の境地に憩えることでしょう。本の出版をお待ちいただければと思います。
タイトルは『セラピーとしての神秘思想家入門』と考えていましたが、『現代人のための神秘思想家入門』のように「現代的な」意味をもたせるのも大事かもと迷います。
▼電子書籍化の困ったこと
ちょっと作業面での苦労や困ったことを残しておこうと思います。
いぜんはヴァーティカル・エディターという原稿用紙のソフトで書きましたが、今回はタテエディターという縦書き表示のできるソフトで書きました。仕上がりの状態を見ながら書けますので、重宝しました。
さいしょデフォルトのマークアップ形式で書いたのですが、マークアップのドットがPDF化のときに残るではないかと疑問がつづきました。手動で消してみたのですが。アウトラインが消えてしまいますが、もうPDF化のときは必要ないかもしれません。改ページのときも、エンターキーでそろえるしかないのでしょうか。
EPUB化のときに、見出しの順番を飛ばして、四番目の見出しを使いたかったのですが、できないようですね。引用の段落下げはタブキーでおこなったのですが、でんでんマークダウン形式に切り替えたら反映されないようなので、>のキーをひとつひとつ打つことになりました。引用中の空白行がBR/タグでは空きすぎて、ほかの方法がわかりません。半角スペースをふたつ放りこんだら適切な間隔になったので、ようやく解決しました。
タテエディターは困ったときやわからないときの解説や検索がなかなか見つからなく、そこは苦労したところです。EPUBの見出しでは#のあとに半角スペースを空けることになっていますが、こんどはデフォルトに戻すとアウトラインが反映されません。ひとつひとつ戻しました。こんな詰まり方ばかりしています。
EPUBのヴューアーは紀伊國屋のキノッピーを使っています。表示させてみて、訂正して、また表示となんどもくりかえしています。EPUB化はでんでんコンバーターですね。いまは30万字までいっぺんにできるようになっていますね。kindleのプレヴューワーで見ると表紙と目次のページがさいしょにこなくて、自前の表紙ページがさいしょにきますね。もうわかりません。
kindleではmobi形式が必要なようですが、プレヴューワーですぐに変換してくれますね。というかkindleはいまではEPUB形式をとりあつかっていて、さらにはWordの形式でさえアップしていいみたいですね。
前はkindle形式だけでしたが、今回は後からできたペーパーバック版もつくりたいと思います。そのためにEPUB形式とPDF形式の両方をつくろうとしています。その変換のさいに形式がちがうために反映されないという問題にぶちあたります。いまはPDF化に詰まっているところですね。
表紙の作成もまだ残っていまして、神秘思想家の顔写真をならべるのは著作権的にむりっぽいので、どのような表紙にするかまったく思い浮かびません。今回もGIMPで作成するのか、ほかのソフトで作成するのか、まだその段階でもありません。
技術面でいろいろひっかかったり、煮詰まったり、天をあおいだり、苦笑いしたりしていますが、いまは鋭意作業中です。
できあがれば応援のほどをお願いしたいと思います。
▼いぜんに出した私の本もよろしくお願いします。
|
|
戸田恵梨香がハマったというし、名作だと聞いていた韓国ドラマの『マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~』を全16話見た。2018年のドラマである。ネットではパウロ・コエーリョや坂本龍一が激賞したという伝を聞く。
さいしょは暗く、設定もわかりづらく、後半に従ってハート・ウォーミングさに救われるという話になっている。
ともかく主演女優のイ・ジアン役のIUが極貧で、借金取りに追われ、恐喝女として世をすねた女性として出てきて、ひじょうに真に迫っている。その恐喝女に脅されるのが、派遣先の大企業の部長パク・ドンフン(イ・ソンギュン)である。
メシをたかられ、噂を立てられるからと困惑気味のドンフンであるが、彼女の不幸な境遇やおばあちゃん思いな性格を知って、彼女を守り、救おうとする行動をおこしてゆく。それは親子の愛のようなものか、恋愛感情のようなものか、はっきりはさせられないのだが、身を賭しての行動が彼女の心を溶かしてゆくのである。
この幸薄女のイ・ジアンがあまりにもかわいそうで、ドンフンによって認められたり、身をもって守られ、はじめて自己肯定感を得られてゆくエピソードが感動的である。かなり余韻をひきずってしまう世界一不幸な女の物語である。
大企業の部長であるパク・ドンフンも順調というわけではなく、後輩が社長になったり、社内のだます・恐喝しあような派閥闘争に巻きこまれ、妻も浮気しており、しかもその相手が社長であるという不幸を背負っている。この男も世界一不幸な男であるという憐れみはあまり感じなかったのだが、自殺しそうになり、恐喝女であったイ・ジアンはかれを救い出そうとするのである。つまりこれは世界一不幸な男女がおたがいを救い合う物語なのである。
しかし物語はこのエピソードだけではなく、ドンフンの兄弟も郷土の仲間のエピソードもひんぱんに出てくる。ふたりの兄弟は企業から落ちぶれたり、映画業を廃業して、中高年になっても母にお世話になっている落ちこぼれである。兄弟で清掃業をはじめる。ドンフンはいつもこの兄弟や仲間と飲んでおり、妻はそれによって浮気をするようになったのだが、反省はない。
この兄弟や仲間は企業から落ちこぼれているが、それでも楽しいという人生を歩んでいる。ひじょうに兄弟思いであり、地元の仲間を大切にする。これはつまり日本でいうところの地元で生きるマイルド・ヤンキーのことである。地元愛に満ちたマイルド・ヤンキーがこの物語の一方の主役なのである。ドンフンがイ・ジアンを認め、助け出そうとしたのは、恐喝女でありながらイ・ジアンがひじょうにおばあちゃん思いの家族を大切にする価値観をもっていたからである。
これは借金苦や犯罪の谷間に落ちた女性を救い出すのは、地元のつながりやマイルド・ヤンキー的な地縁、家族といったものだということである。大企業や学歴の成功ではない、落ちこぼれても、地元での楽しいやさしい関係のなかで助け合い、幸せになろうという価値観である。
イ・ジアンのおばあちゃんが亡くなったとき、葬儀の花や人を呼ぶのは、つながりがあまりなかったドンフンの兄の長男である。長男は一世一代の散財をあまり親しくない女性の祖母のためにおこなったのである。地元や地縁のつながりが、彼女たちを守るという象徴的なエピソードである。企業的な社会から落ちこぼれてしまっても、われわれには地元や家族の仲間がいる、これはそういったメッセージをもつ物語ではないだろうか。
この地縁的な価値観を気づいたとき、あまりにも個人主義的な価値観にそまっている私にはうけつけないものに思えた。田舎の因習であったり、学校の階層的関係から逃れたいと思いつづけてきたのに、そんなうっとうしい仲間関係に戻りたいとは思わない。兄弟や仲間はいつも飲みに集まっており、ドンフンの妻を疎外し、浮気に走らせたものである。ただそこは企業から落ちこぼれても、やさしい関係でうけいれてくれる土壌があるというお守りになるものである。
こんなに兄弟愛や家族思いなドンフンであるが、この物語には息子は留学しており、ほぼ物語には出てこない。そして妻を疎外して浮気に走らせている。自分の家族には失敗、もしくは物語の暗部になっている。
イ・ジアンとの関係は親子ほど年が離れており、ハニー・トラップやそれを元にした恐喝をイ・ジアンから仕掛けられる関係である。ドンフンはかたくなに拒否する。けれど身を挺しての借金取りとの殴り合いは一線を超えており、まるで親子か恋人を思うかのようである。これは娘に思うような気持ちであり、身を挺しての守ろうとする行動は、恋人か娘に思う気持ちかの区別はできないようになっている。これは娘に思う気持ちの暗喩のようなものであって、その代替の気持ちをおきかえているのではないだろうか。娘を守りたいという気持ちは、もう親の心なのか、恋みたいな気持ちなのか、分けられない。
イ・ジアンは親の借金を背負わされ、正当防衛から借金取りを殺してしまう過去をもっている。心を閉ざし、借金から逃れるために恐喝でお金を返すような犯罪女に追いこまれている。そんな女性が身を挺して自分を守ってくれるような男と出会い、自分の肯定感をとりもどしてゆくのである。
第二の男親のようなものである。それは男親なのか、他人の男なのか、わからない。どん底まで落ちた自分の価値観を救い出してくれる人に抱く気持ちは、それは親に思うような気持ちなのだろうか、恋なのだろうか。だれも助けてくれない、だれもが過去の犯罪を知って自分から去ってゆくと世をすねていた彼女に、それでも自分を救い出そうとしてくれる者に出会い、魂を救われたのである。