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01 17
2017

書評 社会学

産業社会で無能力化する個人――『シャドウ・ワーク』 イヴァン・イリイチ

4006031386シャドウ・ワーク
―生活のあり方を問う
(岩波現代文庫)

I. イリイチ Ivan Illich
岩波書店 2006-09-15

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 もっと女性の無償家事労働について語っていると思ったが、ちがった。イリイチが問いつづけたことは産業化における個人の無能力化であったと思うが、産業機構を歴史的に跡づけるような本であった。

 この本は81年に書かれ、日本では82年に翻訳されているが、もっとフェミニズム的な女性のシャドウワークについて語る本だと思っていたが、そういう問いはイリイチのつぎの本『ジェンダー』においてもっと問われていたのだろうか。

 わたしとしては疑問に感じることは、子どもの再生産は国家や社会にとって必要なはずなのに男女の夫婦だけにコストを背負わされ、しかも女性だけが賃金の発生しない家事育児の無償労働になぜ押しこめられてきたのか、あたりの疑問をもったのだが、この本ではそういうことがわかるような本ではない。

 商品経済や貨幣経済がさまざまな領域に入り込んだのに、なぜ夫婦間の家事育児だけは貨幣交換が入り込まなかったのだろうか。男女間の性愛関係は、たとえば恋愛小説や映画、ポルノやアダルト・ビデオによって商品代替されてきたのだが、子どもの再生産だけはなぜ商品・貨幣化されなかったのだろう。それが晩婚化や少子化の原因でもあるのではないか。

 産業や商業は家事や家庭にこもることの魅力をつたえず、キャリアや消費の魅力をつたえ、家事や再生産の魅力をつたえないばかりか、排斥のほうへすすんできたのではないのか。貨幣商業経済が、子どもの再生産を排除する方向へ追いやることに作用してきたのではないのか。

 男が稼ぎ、女が家事をする役割分担は、男にどこまでも賃金労働することを強制し、女性に賃金の支払われない無償労働を強い、ともに極端な男女負担から両性が逃れたがっている。その高コストの性分担をいまこそ問わなければならないのではないのか。

 恋愛至上主義の終焉や若者の恋愛離れ、晩婚化、少子化が危機の目をもって迎え入れられる現在、再生産が貨幣の入り込まれない無償労働と女性に追いやられてきた要因から、探り出すべきではないのか。少子化というのは再生産コストの捉えなおしを要求しているのではないだろうか。

 この本ではネブリハというコロンブスと同じ時代を生き、スペイン女王に文法や母語の統制によって普遍教育を提言した人物が詳細に語られ、いったいなんの本かととまどうところもあったのだが、イリイチの根強い自立と自存にたいする産業のとりこみ・戦争への執念が感じられる本になっている。

 消費は特権ではなく堕落的な仕事ではないのか、学校は学ぶためではなく愚鈍化のためではないのか、消費は苦労ばかりが増え、安らぎが減っているのではないか。産業や商業に依存すればするほど、お客として消費を楽しめば楽しむほど、個人で自分ひとりで生きてゆくこと、やり抜く能力が奪われてゆくのではないか、イリイチの危機感は一貫している。

「専業主婦の創出は、前例のない性的アパルトヘイトの証しである」とイリイチはいう。お客さんとして無能力化されてゆく危機をこんにちの人は強く意識しているだろうか。

 このお客の立場におかれ、自分一人でやり抜く力の剥奪は、『脱学校の社会』でも語られていて、教育がいかに自分で学んでゆく力を殺してゆくかが身に染みてわかるようになっている。テレビのクイズ番組に喜んでいる人たちは、こういう危機感をまったくもったことがない人たちなのだろう。

 ドラマの『逃げ恥』の無償家事労働の問題提起によって、すぐにこのイリイチの『シャドウ・ワーク』を思い出し、古本屋でも見かけることのなくなったこの書物を手にとったわけだが、そういう問題にかんしてはいまいち適さない書物であった。


脱学校の社会 (現代社会科学叢書)ジェンダー―女と男の世界 (岩波現代選書 (95))家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望家事労働と資本主義 (〈特装版〉岩波現代選書)


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01 12
2017

書評 社会学

少子化、長時間労働の根底にあるもの――『家事労働ハラスメント』 竹信 三恵子

4004314496家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)
竹信 三恵子
岩波書店 2013-10-19

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 『逃げ恥』の「家事労働はなぜ無償なのか」という問いは、70年代にフェミニズム界で議論されたむかしの課題であって、その後どうなったのかという疑問のほうが大きかったのだが、この本では現在の課題のほうがおもにさぐられている。

 女性の家事育児労働が無償なのは、男性の長時間労働問題とも重なっており、女性が家庭に入ると賃金を得られない無職になるから男性は家庭の全収入を稼がざるを得ず、男性が長時間労働にはまってゆく構造とセットである。

 妻が外に働きに出ようとすると夫は家族のために必死にがんばってきた努力を無にされたように憤る場合もある。しかし妻が働くことのおいしさを実感したある男性は、そんながんばりがばかばかしくなり、積極的に家事をするようになった。妻は育児の孤独さを解消でき、夫は強制労働の苦しさから抜け出せたのである。

 男性の家事をすべて妻にまかせられて仕事だけの生活に役割特化した結果、男性の過労死があとをたたなくなったとしたら、このゆがみを訂正し、男性も家事ができる女性的な働き方が標準になるべきなのである。

 非婚化と少子化というのは、結婚育児コストや大黒柱の稼ぎ方にコストがかかりすぎるのを男女ともども忌避してきた結果だとしたら、働き方改革は少子化対策であり、また家事育児は女性の無償労働にコストを押しつけるのではなく、公共や社会自体が担わなければならないコストだと認識される必要がある。

 女性は夫に養われるから賃金が安くてもよいというパート労働の穴は、男性若年者のアルバイトというかたちにも広がってゆき、男性が家族を養えなくてますます少子化促進としての要因になってきたが、このスパイラルから抜け出すには、女性労働が標準になるような働き方の改革がますます急務だと思われる。

 大手電機メーカーに勤める妊婦が朝から深夜二時まで残業をさせられ、また妊婦だから早く帰っていいよと先輩たちにすすめられるような働かせ方が、男女ともどもに課せられている状況は異常である。

 「カネが入る仕事」の過酷化がおこり、雇用失望を生んだ社会はカネ離れ、モノ離れをおこし、カネに依存しない生き方を模索する若者たちも生むようになる。

 妻の家事労働が無償になるのなら、自営業の女性の賃金労働も無償にされてきた例もあると思うのだが、いまでは農家に「家族経営協定」が結ばれ、労働の量化によって賃金がちゃんと支払われる例も増えてきたそうだ。

 著者はシンガポールで働いていたそうだが、この国では移民家事労働者が命綱だそうだ。周辺国との経済力の違いから安価な移民労働者を雇える。フィリピンやインドネシア、スリランカなどからだ。

 しかし家事労働は密室の労働であり、しばしばメイド虐待やパワハラが報道されるそうである。とはいっても著者が家事使用人に好待遇をあたえるとほかの使用人も同等の権利を要求し、雇い主の負担が高まる恐れもあり、著者は「使用者ギルド」の縛りを守るように忠告されたりもする。人を雇うということは加害者にもなることなのである。

 女性の無償家事労働は、そのために男性の長時間労働が可能になり、また低賃金労働を可能にしてきた役割分化の落とし穴である。企業や資本主義が女性の家事を無償にできた結果、男性の企業戦士化は可能になり、企業や社会は子どもの再生産というコストを支払わずに産業活動に邁進できた。

 しかしそれが落とし穴となって、少子化や人口激減などの社会の存続すら危ぶまれる危機を迎えるにあたって、女性家事労働は社会全体がコストを担わなければならない問題として浮上してくる。

 男性の奴隷労働は女性の無償労働によって成り立ってきたのであり、男性も無関係ではない。セットであり、わかちがたく結びついている。この機能が社会存続の危機さえ迎える事態にいまつき当たっている。この社会のキツさの根底をあらためて問題視すべきなのだと思う。



結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)働く女子の運命 ((文春新書))なぜ女性は仕事を辞めるのか: 5155人の軌跡から読み解く (青弓社ライブラリー)


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01 08
2017

社会批評

「フィクショナライズ・サピエンス=虚構する・猿」定義の提唱をします!

 ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は虚構・フィクションが人類の文明発展の理由だと説明して、各国のリーダーも注目してベストセラーになっているということですね。

 
430922671Xサピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之
河出書房新社 2016-09-08

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4309226728サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之
河出書房新社 2016-09-08

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 前回の記事のくりかえしになりますが、人類はフィクションの世界に入り浸っていることの客観視の見方は、人類に過ちや失敗の透徹した見方をつけ加えることになると感じました( 「クロ現」の「サピエンス全史」特集 フィクションを信じる力の意味」 )。

 「フィクショナライズ・サピエンス=フィクションする・猿」の定義づけは、人類にフィクションの世界に入り浸る過ちに気づかせる大きなきっかけになるかもしれませんので、この人類の定義づけをおおいに提唱することは大切ではないかと思いました。


 人類はフィクションを信じる力を得ることによって大集団を統合する知恵を身につけましたし、文明の発展力もつけ加えました。だけど同時にフィクションは人類が対立、戦争するきっかけもつくりだしました。

 フィクションを信じる力だけでは過ちに陥り、フィクションにはまり込んでいる過ちに気づくためには、「事実」や「世界そのもの」ととらえている像をフィクションだととらえる見方も、人類には必要なのだと思います。

 われわれは「国家」を信じ、「宗教」を信じ、「民族」や「人種」があると信じています。そのことによって統合や人類の技能や知恵を結集する技術も手に入れましたが、そのことによってぎゃくに対立・分断・戦争をひきおこします。

 これが人類が統合するための「フィクションな接着剤」にすぎないと見るようになると、人は一歩引いた冷静さをとり戻せるのではないでしょうか。

 わたしたちが命を賭けて戦っている「国家」や「宗教」はフィクションに過ぎない、としじゅう思い出されることは、信念や信仰への歯止めをかけるのではないでしょうか。


 わたしたちの過ちは「国家」や「宗教」のような共同幻想の過ちにおちいるだけではなく、個人の日常生活においてもフィクションの世界におちいることの過ちにはまっています。

 フィクションは現実に存在しないことを、あたかも現実に存在するかのように思わせます。わたしたちは日常の人間関係や行動、規範や記憶の中でも、フィクションの過ちにおちいっています。そのために悲しみや怒りにいつまでもつきまとわれます。

 過去は終わって二度と帰らないのにいつまでも過去を思い出し、過去の感情にさいなまれます。未来の不安は存在しないフィクションなのに、現実の脅威のように恐れつづけます。ある人がおこなった行動や言動はもうどこにも存在しないのに、報復や復讐を考えてわが身を焦がします。頭の中で思い描いた自己像の価値を守ったり、プライドを守ったりしますが、それは現実に存在するものでしょうか。

 われわれは時間的にも終わり、物体的にも存在しないフィクションという思考方法によって、現実には存在しない世界で嘆き苦しんだり、焦燥に駆られたりします。そんなものはどこにも存在しないフィクションであるということに、フィクションの世界につかり切ったわれわれには気づかないということです。

 仏教はずっと人間の認識はフィクションに過ぎないと伝えてきたのですが、この理解があまりにもむづかしいためか、怠慢のためか、人々に深く理解されることはありませんでした。


 「フィクショナライズ・サピエンス」という定義が突きつけることは、この過ちに人間がいつも気づかされるということではないでしょうか。

 わたしたちはいつも「フィクションの夢の世界」に入り浸っているのだと思い出せてくれる概念にはならないでしょうか。

 フィクションを信じ切っている人にはそれが「事実である」、「世界そのものだ」と信じ切っています。それがひとつの考え方、解釈である、フィクションであるという客観的な見方からは切り離されています。

 呪文のようにくりかえせるという意味で、「フィクショナライズ・サピエンス」という定義は、わたしたちの入り浸っているフィクション世界のカーペットにいつも揺さぶりをかけられるのではないでしょうか。

 生物学者や人類学者の学者さんに定義づけの検討をお願いしたいところです。


フィクションの夢から醒めるために
ものぐさ精神分析 (中公文庫)「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

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