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08 30
2014

右傾化再考

昭和初期の鬱屈と閉塞――『いやな感じ』 高見 順

iyana2.jpgいやな感じ (文春文庫 (249‐2))
高見 順
文藝春秋 1984-06

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4106205149新潮現代文学 14 いやな感じ 死の淵より
高見 順
新潮社 1981-08

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 昭和のアナーキスト、テロリストを描いた小説ということで主観的に昭和時代をとらえられるかと思って読んでみた。絶版の文春文庫を古本屋で見つけたかったのだが、ハコ入り全集「新潮現代文学」で読んだ。街の古本屋で見つければアマゾンのような高価で買う必要もないが、見つけるのに苦労した。

 このような昭和前史に注目するのは、いまの時代は戦争反対にたいして戦争の結果による悲惨ばかり強調するのだが、その戦争にいたるまでの精神の流れにどうして注目しないのだろうと思うからだ。それこそが原因ではないのか。原因に目をふさぐことこそ、同じ過ちの道に踏み入れることではないのか。

 あまり小説のよい読み手ではないので感慨がないというか、昭和時代の雰囲気をよく感じられたわけでもなかった。

 なんのためにこの高見順はこのテロリストを主人公に描いたのか。この主人公は高見にとっての悪役なのか、それとも主観的に共感できる人物なのかそれすらわからなかったが、思想ではなく殺人だけに憑かれる人物を描いたように、高見はこの人物をつきはなして描いたのだろう。しかし昭和時代を描きたかったといっているように、思想やテロに憑かれた人物は昭和の象徴であったのかもしれない。

 思想のための活動やテロをしているうちにしまいに殺人だけの血に飢えた人物になってしまっていた、高見はそういいたかったのだろうか。

「嗚呼。諸君の両親と同じ悲惨な生活を、この上にも猶、三十年も四十年も続けて行かなければならぬのか。幸福や知識や芸術のあらゆる快楽を他人に得させるために生涯の間働いて、自分は一片のパンを得る事が出来るかどうかと言う永遠の心配をしていなければならぬのか。小数のなまけ者共にあらゆる贅沢をさせる為めに、自分の生活を美しくする一切のものを永久に見棄てなければならぬのか。…これが果たして諸君の一生の憧憬であろうか」



 20代のころに自分が感じたような同じことが書いている。これはクロポトキンの『青年に訴う』の一節らしい。将来を一生、労働に捧げなければならない人生にうんざりしたものだが、大正や昭和の青年もおなじことを感じていたのだ。それが共産主義や労働運動のエネルギーとして点火していった。

「地面をはいずって働いている百姓は食うや食わず、工場で油にまみれて働いている労働者はボロをさげているのに、資本家どもは暖衣飽食、みずから額に汗することなく、自分の手を土や油でよごすことなく、金をざくざく、金だけしこたませしめている。こんな無法があっていいものか。こんな無法には、一見無法の方法で報いるのが当然のことなのだ。多年の無法に対して、一回の無法だけがどうして無法だというのか。
無法を擁護している政治は否定せねばならぬ。こんな矛盾した社会は顛覆させねばならぬ。暴動をおこして、人民の膏血をしぼっている奴らをハエのようにたたきつぶさねばならぬ。奴らと同じ穴のムジナである政治家なども一刀両断で抹殺せねばならぬ。
いや、こんな理屈はどうでも、俺は暴動に、殺戮に、流血に魅力を感じていたのだ。理屈抜きに、俺は血に飢えていたのである」



 主人公の社会的不平等にたいする怒り・正義感が、共産主義改革に向かうばかりではなく、要人テロへと向かう心中、そして暴動や殺人だけに魅かれるありさまを一文によくまとめた独白であると思う。

 とうじは貧困問題が社会的問題となり、社会を変えようという気運が盛り上がっていた時代であり、青年たちは社会主義思想に魅かれていった。それを政府は弾圧・検挙・虐殺で封じこめようとして、一部の青年たちは過激化していったのだろう。こんな青年たちを生みだした昭和という時代にこそ、戦争の起因はあったのではないのか。

 夜の街の灯りを見て主人公は各家庭のささやかな幸福を感じる。この街がテロやクーデターによって一朝にして修羅の巷と化すのだと主人公は思う。

「道で不意に俺は自分に死人を感じた。俺は他人をも自分と同様に、死人にしたがっているのだろうか。そのため、この安らかな街を、死の町にしようとしているのか」



 この小説には娼婦との関係がよく出てくるのだが、身体を知らない女にも惚れることがあるのだと主人公は気づく。

「そういう暴動に俺が惚れているのは、それが身体で知ってはいない理論であり思想であるためか。思想は、身体で知らない思想であることによって、そしてそういう思想であるほうがむしろ、女の場合と同じように一層魅力があるのかもしれない。
波子は俺にとって思想なのか」



 主人公はその波子という女と北海道でカタギの生活をはじめ、ふつうの幸福を手に入れようともして子どもをもうける。だが、生活に根をおろして生きようとした生活はさみしい、流刑の生活のように主人公には思えた。女にまでこんなさみしい生活に道連れにしてしまって申し訳ないと思うようになる。そして主人公はテロや殺人の世界にもどってゆく。

「しかし、犯罪にならない殺人のほうが、ずっとタチが悪いんじゃないかね。悪質じゃないかね。
どうだい、君! 君は人殺しをしていないか。していないとは言わせない。知らずに人を殺している君のほうが、罪は深い。
たとえば君の野心、あんたの功名心が人を殺している場合がありやしませんか。あんたの立身出世のために、実は周囲の不遇な連中を悶死させているかもしれないんだ。
…誰だってみんな、人殺しをしているのだ。人間は誰でも、自覚するとしないにもかかわらず、人殺しをしているんだ。善良な市民のつもりでいても、殺人をやっているんだ」



 悲劇的な最期が待っていると思っていたのだが、小説では中国人の処刑を肩代わりして、射精して、気が狂ったようなことになって終っている。この殺人に憑かれたような人物を生みだした社会や時代とはなんだったんだろうと問うているように思える。


如何なる星の下に (講談社文芸文庫)敗戦日記 (中公文庫BIBLIO)アナーキスト群像回想記―大阪・水崎町の宿 大正三年~昭和二十年 サブロー少年覚え帳ある革命家の手記 上 (岩波文庫 白 218-2)アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)


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08 28
2014

右傾化再考

「戦後」は終ろうとしている

 嫌韓嫌中本、日本自画礼賛の本の氾濫、歴史修正主義者の活躍といったトピックをむすびつけると、国家の自尊心の復興というキーワードに束ねることができるだろう。

 経済大国としての自尊心・優越感はとっくに滅んでしまって、あらたな別の自尊心を掘り起こさないことには、国家の自尊心をもつことはできないといった断末魔の叫び声のようだ。それが外的な要因によるものではなくて、観念的・精神的なものに傾いている点でもひじょうに危惧される一面をあらわにしている。

 「戦後」は終ってしまったのだと思う。この70年近くのあいだ、時代を画する「戦後」という時代区分は、これから用途をなさない用語として沈んでゆくのではないかと思うほどの時代転換の胎動を感じる。戦後という時代区分は、国家の自尊心やアイデンティティを元に画される用語ではないのか。

 戦後という時代区分は、軍事力を放棄し、戦前の軍国主義とまったく違う、経済成長を主力にした戦後日本の体制宣言のことでもある。この経済力を主力にした体制のことこそ、「戦後」という言葉の意味ではないのか。その体制による自尊心がまったく満足させられない時代になったいま、あらたな自尊心が胎動しはじめたという点で、戦後は終ってしまったのではないかと思う。

 戦後は終ったという言葉をいままで聞かなかったわけではない。ソ連が崩壊し、冷戦構造が終り、日本のバブル経済が崩壊し、不良債権が人知れず溜まってゆく90年代の経済危機の中で、戦後は終ったという指摘は堺屋太一や金子勝などに聞くことができた。堺屋太一などは工業社会に最適化した日本は次の時代をのりきれないとし、あらたな体制づくりを提唱した。

 しかし戦後はそこで終ったかというと、世間は戦後意識をもちつづけたのではないか。あいまいな戦後延長期として、しっかりとした時代が画されたという気分をもてないまま、そのまま戦後をずるずるとつづけたのが今日ではないのか。戦後を区切るほどの大きな精神的転換をへずにこれまでの月日がたってしまったというのが現状ではないのか。

 経済的自尊心の凋落がつづくいっぽうでもたげてきた精神的な流れがネトウヨといった言葉でくくられるような日本の自尊心の復興気運ではないのか。もう日本の経済大国的な自尊心をもつことはまったくできない。変わりに勃興してきたのが冒頭にあげたような嫌韓嫌中や自画礼賛本の氾濫ではないのか。失われた国の自尊心の復活が、どこともしれない不気味な胎動として芽を出そうともがいているのではないか。

 戦後は脱ぎ捨てられようとしている。戦後というのは経済大国を目指し、それによって国民としての自尊心・優越感を満足させられた体制・時代のことをいうのではないか。その自尊心がまったく満足させられずに、あらたな自尊心が求められた時点で、戦後は終ってしまったのではないのか。草の根レベルであたらしい時代区分は胎動しはじめているといっていいのではないか。

 謝罪的な、先の戦争において近隣諸国に被害と損害をもたらしたという日本のあり方は存在しないもの、見えないもとして拭い去られようとし、隣国を蔑視し、自国の礼賛や褒賞をもたらす自国像を復興させようという動きが流れはじめている。経済大国の自負心があったときにはそのような態度も受け入れられたのかもしれない。だが経済大国の自負心が砕け散った余裕のない現在においては、謝罪的な加害者的な自我はもう耐えがたきものに感じられるらしい。戦後は脱ぎ捨てられようとしている。

 日本は今後どのような自尊心を打ちたてようとするのだろうか。そしてこの自尊心のあり方ひとつで日本の命運は決まってしまうといっていいのだろう。しっかりとした成功する自尊心を打ち立てられるのか、それとも戦前の二の舞のような悲惨な自尊心を打ち立ててしまうのか。

 現在、国家としての自尊心を満足させられるような外的条件はあるだろうか。現実的な条件はあるだろうか。青写真がまったくないのに、国家的な自尊心を打ち立てようという気運だけがあるように思える。だから隣国を蔑視・罵倒することでしか優越感を満足することができない低次元にとどまってしまうのである。空回りしてしまう時代といっていいか。

 精神の前のめり状態が存在し、外的条件には上昇気流にのるような絶好の条件があるわけではない。明治維新、戦後の日本には経済的好機という外的な要因があって成功できた。しかし大正・昭和初期のころには現代と似たような精神気運だけで持ちあげようとする時代精神があったのではないか。現代はその失敗の萌芽期にひじょうに似ているのである。

 自尊心と優越感だけをもちあげようとする虚構の精神の気運だけが勃興している。グランドデザインもまったく描かれていない。精神だけが勃興しようとしている。ひじょうに危うい新時代のはじまりである。

 虚だけが暴走して、実のない時代。いかに現実の着地点を見つけるか。近代の歴史には二度の成功と一度の失敗例がある。この失敗例におちいらないような成功の器用な峻別が必要なのだろう。現在は失敗例にきわめて似た時代であることを忘れてはならない。


戦後の終わり終わりなき戦後を問う「大変」な時代―常識破壊と大競争 (講談社文庫)僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話


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08 25
2014

右傾化再考

日本の自尊心をどう立て直すかという四度目の挑戦

 経済大国の自尊心がバブル以降凋落してしまって、国家の自尊心を満足させられない人はさまざまな手を打って、国家の自尊心を浮上させようともがいている。

 嫌韓やヘイトスピーチはだれかを貶めて自国の優越感をもちあげようという末期の症状だろうし、気持ち悪い日本の自画自賛本もおおく出されて、自国の自尊心が慰められている。自虐史観という自国へのネガティブな見方を修正し、あるいはなかったことにして自国の礼賛と自尊心の保持をねらおうとする歴史認識も、この一連の流れのひとつだろう。


▼隣国はこんなに愚かで、自国はこんなにすばらしいという自慰本。悲惨なほど出ている。
呆韓論暴走と崩壊が止まらない! 仲良く自滅する中国と韓国韓国人による恥韓論 (扶桑社新書)犯韓論どの面下げての韓国人 (祥伝社新書)

だから日本は世界から尊敬される (小学館新書)イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか (新潮新書)日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか (徳間文庫)日本人だけが知らない 世界から絶賛される日本人 (徳間文庫)


 これらの運動は、ポジティブ心理学の流行と似ており、連動しているといえるだろうか。「自分をほめろ、悲観的なことは見るな、前向きになれ」――そういったポジティブ心理学の教条が、国家主義にも押し寄せているかのようだ。ポジティブ心理学というのは、他者蔑視と不都合な認識は存在しないものとみなす詐欺やまやかしも含むものなのか。

 今回の国家自尊心の再興の特徴は精神主義であって、客観的な外的条件の再興がともなっていないことである。経済的な好機が押し寄せているわけでもないし、国際的な期待が高まっているわけでもない。ただ劣等感や閉塞感の打破という内面的な鬱屈からの解放が求められているだけだ。そこが先の大戦のような現実無視の危機に近いのである。

                *

 近代以降、三度の国家自尊心の再興があったと考えられる。一度目は明治維新の列強入り、二度目は昭和初期の皇国的拡大主義、三度目は戦後の経済大国への道。こんかいは四度目の挑戦である。

 成功したのは列強入りと経済大国への道であって、二度目の再興は大きな惨劇を与えて失敗した。こんかいの四度目の再興はこの二度目の再興とひじょうに似ている。外的な要因によるものの勃興ではなくて、内面の鬱屈による再興が願われ、精神主義であることが、危険な共通性をあぶりだしている。

 自尊心の凋落による再興は失敗してしまうのである。外的な好機が好上昇をもたらしているわけでもなく、ただ内面の鬱屈による再興であり、精神主義による現実拒否をともなうからだろうか。

 幕末明治、戦後は経済欠如による再興が可能であり、物資的な経済復興がのぞまれた。ために経済的上昇による自尊心獲得が可能であった。この二度の構築は成功であったといえるだろうが、昭和初期の復興は凄惨な惨劇をもたらした。こんかいの復興はこの三度目の失敗にひじょうに似ている。

                *

 この四度目の自尊心の再興が、失敗しないで成功する方法はあるだろうか。

 経済大国の自尊心は凋落してしまって望むべくもない。自国の人たちに経済的な野望はもうない。文化的な自尊心といったものは自動車や時計、機械といった経済的優越と同一だったのであって、アニメ文化が自国の誇るべき自尊心として機能しているかといえばあやしい。あとは武力的な自尊心に頼るしかないのか。この復興はぜひとも避けたいのであるが、鬱屈した国家的な劣等感はそういった力に頼るしかないほど追いつめられるものだろうか。

 戦後の日本は経済力というモノサシで、「先進」と「後進」を測ってきて、その自尊心や優越感を満足させてきた。バブル期にはアメリカに次ぐ超大国として、アメリカさえしのぐといった自尊心を満足させられた。この二十年でそれはすっかりと凋落してしまい、自国の自尊心は地に墜ちた。

 韓国や中国に追い上げを喰らい、GDPでは中国に二位の地位を奪われてしまった。そういった追い抜かれる恐怖に負けた一部の人たちは、これらの国を叩き、侮蔑することによって、かろうじての自尊心、優越感にすがろうとしている。負けてしまい、誇れるもののない一部の人たちはそうすることでしか自尊心を安定・補給することができないのである。そういった杭打ちが追い抜かれることをふせぐ手立てになるはずもないのはわかりきっているのだが、勝っていたと思っていた者が負けを潔く認めるのは心理的にかくもむづかしいものなのか。

                *

 経済大国の自負心をみょうにひきずってしまうことが、負けを受け入れることのむづかしさを大きくしている。

 日本はゆるやかに衰退していき、経済の中心からとりのこされ、かつての経済大国としての栄華と世界史上において殴りこみをかけて日本はしずかに世界の片隅の忘れられた小国へと戻ってゆくのだ、そういった諦観をうけいれることをできない国民たちは、さまざまな復興と打開策をもちだすだろう。

 衰退と諦念をうけいれれば、この国はおだやかに年老いてゆき、余生をしずかに過ごせるだろう。そういった選択をこの国の人たちは選びとるのだろうか。

 「世界」という競走場において、世界の勝利や優越をねらう価値観は、日本において衰退したわけではなくて、ワールドカップのような世界の舞台においての競争心はこの国ではまだまだ強い。その「世界」という表象がかなり西欧中心主義に偏っているのだが、「世界」という表象で優位をめざす日本人の競争心は潰えたわけではない。経済大国の凋落のあとにもこのエネルギーがくすぶりつづけると、日本はなんらかの方法で世界への再登場をねがうことだろう。

 他国はこんなに愚かで劣っていて、自国はこんなにすばらしく、称賛に値する、こういった言説がちまたにあふれ、凋落するいっぽうの大国自尊心を慰めている。困ったことに経済指標は数値で測れる客観的なモノサシであったが、蔑視や称賛は客観的な数値のモノサシがあるわけではない。なにかもっと確実なものを求めようとする手段が危険なものにならないとだれがいえるだろうか。

 世界の経済の繁栄地というのはだいたいは100年ごとに移り変わっていて、日本は西欧からアジアへと向かう転換期にひとつの橋渡し、役割を果たした。世界帝国になれなかったとしても、一定の役割ははたしたし、文化的影響度も世界にこんなに広がったのはかつてなかったことだろう。

 世界の繁栄は順番であり、持ち回りであり、いずれバトンタッチするものである。日本はそのような衰退と後退をしずかに受け入れられるだろうか。なだらかな下り坂を受け入れず、必要以上の再興や復興が願われたとき、日本はふたたび凄惨な道に踏み入れてしまうのだろう。

 勃興している自国の自尊心再興という動きがこじれるとき、かつての惨劇の道は開かれてしまうのだろう。観念や精神で慰められる国家の自尊心がレールを踏み外して、危険な空想の領域に踏み込まない安全柵はどこにあるのだろう。


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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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