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06 22
2017

幻想現実論再読

言葉が実在しないことについて

 「言葉は実在するのか」と考えてみたこともないことによって、わたしたちは幻想や実在しないことの落とし穴や被害にさんざんな目に会っていると思う。

 わたしたちが日ごろ当たり前に使っている言葉はほんとうに存在するのか、実在するのか、と考えてみること。それが幻想や空想の弊害から抜け出す道である。

 子どもはサンタ・クロースはほんとうにいるのか、と問うことによって、サンタがこの世にいなく、空想上の存在であることを悟る。お化けもほんとうにいるのかと問うことによって、お化けの恐怖を克服してゆく。

 だけど、大人は言葉はほんとうに存在するのかと問うことはない。そのことによって、実在しない空想や幻想との境目や境界をうろうとして、そこから脱げ出すことがない。


時間と空間の実在を問う

 言葉の非実在を悟るいちばんのポイントは、「過去はほんとうにあるのか」と問うことと、「目の前に存在しないものはほんとうに存在するのか」という問いである。

 過去は、現在の瞬間が過ぎるたびに過去になってゆくので、過去というのはもうどこにも存在しない、実在しないものになってゆく。それでもわれわれは過去を思い出したり、言葉にすることによって、過去があたかも現実に、目の前に存在するかのように思うようになる。

 過去なんて永遠にこの世からなくなったのに、どうしてわれわれは過去が目の前に存在するかのように考えたり、思ったりできるのだろう?

 しかも、われわれの大半の悩みや問題、苦労というのは、過去の想起や思い出すことによって引き出されるものではないのか。過去はこの世にもう実在しないものとしたら、その苦悩や悩みというのは、どこに実在するのだろう?

 目の前に存在しないものはほんとうに存在するのかと問うことも、われわれの日常のマヤカシやごまかしに気づく大きなポイントである。

 わたしたちは朝家を出た家族が夜には家に帰ってくるのは当たり前だと思っているし、何年も前に出てきたふるさとの風景は変わらないと思っていたりする。

 だけど、子どもやある種の犬は目の前に家族が見えなくなると存在しなくなると思って泣く。大人になると事故に会ったり、遠くに去ったり、けがをしたとしても、なにも変わらない家族にふたたび会えると思っている。変わってしまった家族は、どの時点で変わり、自分はどの時点までそのことを知らなかったのか。変わらないと思っていた家族は、どの時点まで存在していたのか。

 ふるさとは変わらないと思っていても、建物や道路は変わり、頭の中の思い出の景色は現実には変わりつづける。わたしは実在のふるさとを思い浮かべていたのか。それは記憶の風景であり、過去であり、もう実在しなくなっていたものではないのか。


実在を思わせる言葉

 言葉というのは、実在や存在の境界をあやふやなものにする。言葉がさししめすものはあたかも現実に、実在するかのように思い込んでしまうのだが、それはほんとうに実在するのか。

 過去を思い出したり、だれかと過去のことを話しているとき、その過去はどこに存在するのだろう? いま、現在、どこに存在しているのだろう?

 過去が時間とともに去り、永遠にこの世から失われしまったとしたら、われわれが思う過去は、どこに存在し、実在しているのだろう? それは深淵に呑みこまれて、永遠にどこにも存在しなくなった記憶や回想、もしくは心象、頭のなかのイメージ、実在しないものではないのか。

 わたしたちはなぜ永久に実在しなくなった過去を、あたかも現実の目の前にあるかのように思ったり、話したりできるのだろう?

 未来も将来も同様である。過去はいちどは現実に存在したものであるが、未来も将来もまだいちども現実に存在したことがない。どこにも存在しない空想や想像にすぎない。だけど、未来に恐ろしいものを描くと、たちまちわたしたちは恐怖や不安にとり憑かれる。しかし、それはどこにも実在しないものである。深淵に呑みこまれたように実在しないし、虚無である。なぜ、どこにも実在しないものにわたしたちは恐れたり、不安になったりできるのだろう?


日常やニュースは実在するのか

 わたしたちに大事なことは、日常の人間関係を捉えたり、会社や学校に思うこと、またニュースで知ったりする社会の出来事や事件である。

 これらはだいたいは言葉で伝達されたり、言葉で思い描いたりする。きのう、友だちとどういうことがあり、なにをいわれ、自分をなにをしたとか、あの人にはあんなことがあったとか、過去の回想や言葉とともに思い浮かべられたりする。

 しかし、その言葉は実在するのかと問うてみたら、どうだろう? それが過去に属するとしたら、現在はどこに実在するのだろう? あしたも会社や学校、友だちの関係は同じようにずっとつづくと思っているが、その存続を保障しているものは何なのだろう? 会社や学校が事故でなくなっていたり、友だちが急にいなくなっていることもあるだろう。わたしたちはほんとうに実在する出来事や世界に出会っているのだろうか。

 わたしたちはニュースで世間や世界の出来事やありようを聞いたりするが、それは目の前で見たことがあるだろうか。事件や事故は人から言葉によって聞かれたもので、じっさいに見たものではない。その言葉というのはどこに存在するのだろう? 言葉でいわれたものは実在するのだろうか? わたしたちが思い浮かべる出来事はただ言葉によって組み立てられた想像や空想にすぎないのではないのか。それは実在するのか。

 言葉によってわれわれはこの世界のありようを思い浮かべて、それは現実だ、ありのままの世界を見ているのだと思っているのだが、実在しない、言葉の想像によって組み立てられたただの仮構の世界ではないのか。その世界はどんなふうに、どのようにこの世界にあるのか。たんにわたしの頭の中にある言葉で組み立てられたもの、想像や心象としてだけあるものではないのか。つまり、どこに実在しているのか。


実在を問うてみることはあるか

 われわれはこの世界を捉えるために言葉や想像力を駆使して、抜け落ちた世界の像を組み立てている。しかしそれは実在しているのか問うことはない。そのことによって、実在と空想のはざまはあいまいになり、いや、それ以上に空想の世界にどっぷり浸かりきっていることに気づかなくなる。

 それは実在しているのか? 現在は瞬間ごとに過去になってゆき、もう実在しないものになってゆく。人づてに聞いたり、だれから教えてもらった世間や社会の情報は、いちども目の前に見たことはないのに、現実にあったかのように、現実の出来事に思われる。そんな世界はほんとうに実在しているのだろうか?


言葉がつくりだすマヤカシ

 わたしたちは言葉と想像力によって、この世界の像を組み立てている。しかしそれは現実には実在しているとはいいがたく、この世界を捉えるために想像力と言葉によって、補われた継ぎ目である。抜け落ちた世界をつなぎ合わせるために言葉や空想によって、世界像を補っている。しかし、そんな世界はどこにも存在しない。ただ、わたしたちの頭の中にあるだけである。

 言葉というのは、目の前に存在しないものをさししめす便利な道具である。しかし、「それ自体」ではない。あくまでも目の前にないものをシンボルによってさししめすことのできる代替物である。

 人はしだいにこのシンボルが、現実に、目の前に存在するかのような思いに囚われ、実在や非実在の境界をあいまいにしたまま、この空想や虚構の世界をあたかも現実に存在するかのような認識に浸ってゆく。もはや、それは実在するのかと問われることはない。

 空想や想像が目の前に存在するかのように思う認識が、わたしたちの認識のありようなのだ。そして、それはどこにも実在しない、空っぽの、深淵のような虚無なのである。わたしたちはこの虚無や非実在を思わないばかりに、空想の世界にどっぷり浸かりつづける。

 そして、その非実在や虚無を深く感じるようになると、わたしたちを悩ませていたもの、苦悩していたこと、悲しませていたことも、同じように存在しない、虚無のような無であることに気づくことができる。

 わたしたちは悩みや苦しみを、みずから言葉や想像力によってつくりだし、そしてみずから悩んだり、悲しんだりしていたのである。それはどこに実在するのだろう? どんなふうに現実のものとして、実在するものとして存在するのだろう? それはほんとうにあるものなのか?

 しかしこういうことを頭で理解しても、苦悩や悲しみはつづくのであるが。なぜなら、言葉や思考というのは、自分の意志とかかわりなく頭に噴出するものであり、わたしたちは受動的に思わされたりするからである。思考や考えは受動的に体験するものである。そのことによって、わたしたちは実在しない思考や言葉の被害を受けることになってしまう。

 お化けが実在しないと頭で理解していても、ホラー映画を見たり、幽霊屋敷のようなところにいくと、怖がることと同じようなことである。われわれは虚構を実在と思いこむ脳の構造をもっているのだ。想像によって組み立てたことが、われわれの現実であり、事実なのである。

 禅や仏教の瞑想は、このような自動的に幻想を立ち上げてしまう思考の噴出を止める術である。思考は自分と意志とかかわりなく湧き上がるもので、いつの間にか、その幻想のとりこになっている。

 だから思考を流れる雲のようにつきはなして、同一化しないことによって、その夢に巻き込まれない方法を学ぶ。むりやり思考を拭い去ろうとしたり、止めようとすることは、思考を思考で重ねることである。ただ、それらが実在しない虚無であることに深く気づいたとき、その幻想は霧のように消えてゆくだけである。

 われわれが現実には存在しない映画やマンガに一喜一憂できるように、われわれは空想を現実と捉える認識構造をもっている。フィクションというのは、われわれが経験する過去の構造とおなじものである。フィクションというのは、過去なのである。過去の状態が、フィクションというかたちで表現されるから、フィクションに感情移入できる。しかし、それはどこにも実在しないものである。


「それは実在するのか」を何度も問うこと

 わたしたちは言葉や想像がどこにも実在しないことに、深く気づきべきなのである。気づかないことは、子どものようにサンタやお化けを信じることと変わりはない。認識の構造がこうなっていることによって、われわれはいらない苦労や苦悩を背負うようになっている。

 だから、最初から問うべきなのである。「それは実在するのか、実在するとしたらどんな風に実在するのか」と。どこにも実在しない、空っぽの虚無だと気づけたとき、われわれを無用に縛りつけていた恐れや悩みから解放されることになるだろう。

 あるあると思っていたものが、奈落の底のように存在しないことに気づくことは恐れをもよわすが、いっぽうでは、それは存在しない苦悩からの解放ももたらすのである。わたしたちはどんなマボロシを見てきたのだろう。


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06 19
2017

バイク・ツーリング

尾野真千子のふるさと西吉野をたずねる

 山の景色や田園風景が好きで、毎週週末ながめにバイクで走っているわたしですが、TVを見ていると女優の尾野真千子が奈良の山の奥の出身で、調べたら西吉野で、わたしのツーリング・エリアなので、じっさいにどんな風景なのかながめにいくことにしました。

 大阪近郊の町中で育ち、大人になって自然豊かな山間の風景に魅かれたわたしとしては、子どものころから大自然豊かな山間部で育つことはどのようなものなのか、知りたいと思っていました。

 どこまでいっても人家や電車がつづき、果てることのない都市感覚をもって育ったものとしては、山に囲まれて育つと、どのような世界観をもつのだろうかとナゾに思ってました。

 そういった気持ちにすこしでも近づけるだろうかと、西吉野の風景と、尾野真千子のデビュー作である『萌の朱雀』を鑑賞した後に、じっさいにバイクで西吉野をめざすことにしました。

 『萌の朱雀』は、五條と新宮を結ぶ五新鉄道の計画がとん挫したことによる家族の離散を描いたドキュメンタリータッチの河瀬直美監督の映画ですね。


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広域の地図で見ると、西吉野は五條市や下市町から山間部に入った中にあり、電車は走っていない完全に山の中ですね。西に高野山があり、関西屈指のきれいな川のある天川村も近いですね。西吉野村は2005年に五條市に編入。

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のどかな日本の原風景を感じさせる御所市から金剛山をながめた図です。尾野真千子は平地に降りた御所市の高校に通っていました。

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まだ下市町の風景ですが、農家が点在するなだらかな山の風景。

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街の開けた五條市から168号線で南に下ると、紀伊半島の山の中に入ってきたなあという感じがします。そこで出会う西吉野の入り口の風景。

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川沿いのひと気のない山道が、尾野真千子の実家のある集落につづく道です。清流と大きな岩がごろごろの大自然を感じさせる道すがら。ひっそりとしていて、この先に人家や集落があるように思えません。

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おそらく尾野真千子はこの山の景色をながめて、育ったんだろうと思います。ネットでは実家を特定できる情報がいくつか載せられていますね。こちらの山の斜面に民家がいくつかあり、福寿草の自生地として知られているところだそうですね。

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かなり本格的な山奥の集落ですね。西にある賀名生(あのう)は南北朝の南朝のあった場所で、『萌の朱雀』のロケ地でもあります。

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実家からひと山越えたところが、『萌の朱雀』のロケ地ですね。川沿いの道に降りて、また上らないといけないところですが、『萌の朱雀』はまさしく尾野真千子と同じ境遇の家族の話ですね。

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『萌の朱雀』の天上の家はげんざいも健在で、いまもふつうにご家族が暮らしていますね。記念碑への看板は迷いなく指し示してくれます。

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『萌の朱雀』の記念碑です。映画は97年公開ですから、もう二十年も前になりましたね。まさしく山の上の天上の家。

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いまも生活なさっているご家族がいるので、おじゃまにならないように早々に退散。映画の撮影民家であったことはずっと誇りに思っているのでしょうか、看板も下の川からずっとつづいていますし。

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ここらは山の頂上や高いところに開墾地を開いたところが多いようで、沢や谷のあいだより広い土地は高いところのほうが有利だったのでしょうか。山の下に降りなくても、尾根づたいに遠くまで行けたとかいうところでしょうか。


 尾野真千子さんはすばらしいところで生まれ育ったと思います。年をとるごとに山や緑の景色のなかで暮らしたいと思っているわたしには、こどものときにこんな環境で育ちたかったという思いがつのります。


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06 18
2017

幻想現実論再読

感銘うけず――『中論』 ナーガールジュナ

4873391172中論「改訂版」
ナーガールジュナ・竜樹尊者
西嶋 和夫訳
金沢文庫 2006-06

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 基本的にわたしは思考や観念が存在しないこと、知覚世界も実在しないことをもっと深く知りたいと思っている最中なので、そういう時期に読んだナーガルジュナのこの本は、あまり合わなかった。

 ナーガルジュナは世界の実在性を否定しているのか、非実在性をいっていたのか、矛盾する言葉も見受けられるのだが、「釈尊の教えは実在論である」と扉に掲げられているように、空とか無を否定するというのだろうか。そこまでいけば、仏教の否定に思えるが。

 まあ、この本は教説や学説に対する反証がおもになっており、自分の説を主張するというタイプの本ではないから、ことさらわかりにくい。反証や論理でよくわからないところも多々あり、間テキスト的な書物は苦手である。

 章のタイトルが、「~に関する検証」となっており、否定や反証がおもな目的の本である。その教説をなにを指すのかよく知らなかったら反証もわからないわけで、この本のわからなさの由来はそんなところにあるかもしれない。

 まあ、深く追及するに足りる好奇心を刺激されなかった本である。

 つぎのような説がいちばん聞きたかったものである。

「釈尊が五つの集合体を離れて、物事をありのままに受け入れている際には、(頭の中で考えられた)主観的な存在は全く実在していなかった。

そして(頭の中で考えられた)主観的な存在が全く実在していない以上、(外界の刺激から生まれた)客観的な存在を認めることをしなかった」



 思考や観念が実在しないことはだいぶ実感できるようになったのだが、知覚世界の厳然性はまったく揺るがせないので、こういう意見は参考になる。知覚も観念のような実在しないあり方をしているのだ、そういう考え方は理解の一助になる。

 この本はサンスクリット語から直接翻訳されたようで、じゅうらいの鳩摩羅什の訳は、単語は不鮮明で文法は混沌としており、原文の趣旨から離れているとこの訳者はいう。

 仏教は観念的な虚無思想ではなく、実在論的に理解すべきだというのが訳者の主張であるが、わたしは虚無思想のほうをもっと追究したいし、その虚無は人を解放する虚無ではないのかとむしろ思うのだが、まあその定義がよくわからなくなっている。

 ナーガルジュナは、シャカも、実在するか実在しないかの議論はするなと厳しく戒めたといっているのだが、わたしは思考や観念の非実在を深く知ることこそ、人を解放する知識だと思うのだが。

 ところで4,5世紀のアサンガやヴァスバンドゥは興福寺にリアルな彫像が残っているが、3世紀のナーガルジュナになると、一般的で抽象的な仏像や仏画しか残っていないようだ。ナーガルジュナは神化がすすみ、唯識学者は物質主義な見方をもっていたということだろうか。


龍樹 (講談社学術文庫)大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫)龍樹(ナーガールジュナ)―空の論理と菩薩の道龍樹の仏教: 十住毘婆沙論 (ちくま学芸文庫)ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

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