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![]() | 素朴と無垢の精神史―ヨーロッパの心を求めて (講談社現代新書) ピーター・ミルワード 中山 理 Peter Milward 講談社 1993-12 by G-Tools |
堺屋太一の『知価革命』を読み返すと、「暗黒の中世」とよばれた時代を知識社会としての目で見直したくなる。そういう研究書ってないのでしょうかね。
このピーター・ミルワードの『素朴と無垢の精神史』は中世ヨーロッパの「清貧」の系譜を見直した本である。93年の出版で、おそらく92年にベストセラーとなった中野孝次の『清貧の思想』に啓発されてヨーロッパの清貧の系譜を紹介した本だろう。
世はバブル。ブランドや高級品が飛ぶように売れて、株や不動産のマネーゲームに酔いしれていたころ。だからモノをもたない、心の豊かさをめざすメッセージが叫ばれたのだろう。
物質主義や環境破壊をもたらすものに対しての批判の書である。わたしは中世を知識社会の時代として見直す意味で、再読してみた。本の意図はたぶん物質主義批判だから、知識主義の時代としての中世をのべているのではない。
しかし清貧の思想というのは、知識主義のひとつのかたちとしてみることはできる。物質や目に見えるものの欲望に囚われていては神の道にいたれないというのは、知識至上の考え方にも似ている。だからこれからの知識社会とよばれる時代にはそのような価値のヒエラルキーが進行するかもしれないのだ。
この本はキリスト教からギリシャの哲学者、中世の聖フランチェスコ、エックハルトなどの神秘主義、近代の哲学者、ワーズワースなどの詩人、C.S.ルイスやJ.R.R.トールキンなどの中世的な想像力までじつの幅広い年代のことをとりあげていて、それいでいてそう分厚くはない本である。
いまいちわたしには意図が読みにくい本だが、西洋の思想はどこでまちがったのかと古代まで遡って問われているのかもしれない。
「イエスのねらいは、人々に新しい目で貧しさを見つめ直してもらうことにある。
貧しいがゆえに、この世ではいっさいを奪われ一文無し同然に見える。けれども、自分の心眼を開いて真理を見さえすれば、すべてを持っているという真実を悟ることができるのだ。
万物を深く味わい、万物を与えてくださった神に心から感謝しさえすれば、大地も、水も、取り巻く空気も、太陽も、月も、夜空の星もすべて自分たちのものである」
わたしたちはこれを宗教の言葉として斥けがちである。だけど、たんじゅんに心理的な心の作用と考えると、モノをもっともっとほしい、いつも足りないという気持ちで見ていると、不足しか見えずに、いま恵まれたものに囲まれているということが見えなくなるという基本的なことをいっていることがわかるだろう。
この本はそのような西洋の言葉からはじまり、「自然へ帰れ」といったギリシャ哲学者のディオゲネスやストア哲学の系譜をたどりなおしてゆく。
ギリシャのヘシオドス、ローマのヴェリギリウスのような詩人も「黄金時代」をたたえ、その黄金というのは「心の中の黄金」をいい、田園での質素な生活、純朴であたたかい人情のある時代に焦がれた。中国でも陶淵明や詩人などがたえず田園に隠遁する生活を憧憬してきたが、西洋にもしっかりとこの思想は根づいてたのである。
中世は暗黒時代とよばれるのだが、それは物質主義を基準において考えから見えるもので、もし「清貧の貴婦人」のようなものが評価される目でながめてみると中世は「黄金の時代」として見えるかもしれないのだ。
聖フランチェスコや修道僧が多く活躍した時代である。究極の清貧の思想が実現した時代といえるかもしれないのだ。もっとも物質的にも食料的にも、そして権力的にも貧困な時代だったから、こんにちの物質主義の目で悲惨な時代だったと目に映るのである。
本は中世の神秘思想家エックハルトや聖書につぐ大ベストセラー、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を言及し、神秘思想は禅仏教の無とひじょうに似ているという。
シェイクスピアはいった。「無になれば、何もかもが自分のものになる」
「知らぬところにたどり着くには、無知という道を通って行かなければならない。持たぬものを持つには、持つものをやめるという道によらねばならぬ。自分でないものにたどり着くには、自分でない道を通らねばならぬ。知らぬことが唯一の知ることであり、持つものが持たぬものであり、今いる場所がいない場所である」 T.S.エリオット『四つの四重奏』
近代になると新世界の原住民と出会うことになり、「自然状態」が高貴な人なのか、野蛮人なのか問われることになる。ホッブスは自然状態は戦争状態にあるといい、ロックは自由で平等な高貴な人であると考えた。
工業化、産業化がすすむとブレイクやワーズワースのような田園に焦がれる思想はたえず出てくる。街や都会の喧騒から逃げ出し、子どものころに親しんだ自然の風景のなかにもう一度もどり、湖水地方のような自然豊かな土地に住みたいとねがう。
「かつて牧場も、森も、流れも、大地も、そしてありふれた光景がすべて私の眼には天上の光をまとい、夢の輝きと鮮やかさに包まれて見えた」 ワーズワース『不死のオード』
こんにちC.S.ルイスの『ナルニア国物語』やJ.R.R.トールキンの『指輪物語』が映画化されているが、かれらは中世学者であり、キリスト教的中世に創造力の源泉を求めているのである。
こんにちの際限ない物質主義、環境破壊がはじまったのは、17世紀初頭の聖書の解釈にあったのではないかとミルワードはいう。
「『創世記』には、神がアダムとエバとを祝福し、人が地をすべて「支配」するのを許したと記されている。だが、この一節を解釈するとき、「支配」という言葉を「際限なく資源を開発すること」という意味に取ってしまったのである」
この清貧の系譜のなかに知識社会のヒントは隠されているのだろうか。清貧の思想というもの自体が、知識社会、知識を至上におく時代の表れそのものなのだろうか。
物質主義の世紀が終わると、われわれはずいぶんと価値や目的の違った風変わりな時代と社会を生きているのかもしれない。もっともそれは物質主義と工業化に毒された価値観と目から見た常識と捉え方にすぎないのだけど。
▼西洋中世を知識社会として読み直せるか(中世書はあまりにも多くて)















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![]() | おとぎ話の心理学 (1979年) (ユング心理学選書〈1〉) M-L.フォン・フランツ 創元社 1979-12 by G-Tools |
おとぎ話の心理的解釈についてはまえにまとめて読んだことがある。おとぎ話というのはたいてい言葉で意味がわからないのだが、解釈を言葉で知ることの驚きと喜びはけっこう大きいものである。
ほかのドラマや映画にも適用できるようになる。だけどすっかり自分のものになるにはそうとうの修行が必要なようである。ということでもう一回頭に入れるつもりでこのユング派のフォン・フランツの本を再読した。
ちょっとさっぱり理解できたというよりか、いくぶん難渋だったという読後感がのこったかな。このシンボルはあれもこれも解釈できるという話がたくさん出てきて、竹を割ったような理解には届かない本かな。「納得できる」とか「これはこういう意味だったのか」という感嘆が多ければ多いほど、自分の身につく読解力を手に入られる気がする。
「元型」とか「自己」というユング派独自の言葉が出てきて、これも理解をさまたげたかな。ユング派というのは「全体性」の獲得を人生の目的にしていて、「影の部分」――抑圧したり見たくない部分をみずからの中にとりもどすことが、人生の目標に掲げられているのかな。
フロイト派なんかは性的解釈が多い気がするが、もちろん登場人物の性格とか要素も解読されているのだが、ユング派は登場人物を自我の一要素と解釈する傾向が強いのかな。人物は「外形」というかたちをもった存在ではなくて、自我の一部分。おとぎ話を「自立」の問題として捉える見方もだいぶ役に立つ。
ここでは「三枚の羽」というおとぎ話が長く解釈されている。国王が跡取りを三人の王子にゆずるための課題を与える話で、でくの坊の三男がいずれも成功をおさめて王位をゆずられるという話である。
わたしは死と再生の物語にこだわってきたのだが、いい解釈がここで語られていたとは思わなかった。
「国全体の繁栄が王の健康ないし心の状態にかかっています。もし性的に衰えたり病気になると、彼は殺され別な王にとって代わらなければなりません。そして新しい王の健康と勢力が、女性と家畜の多産と全部族の繁栄を保証するのです」
「何らかの宗教的儀式や教義が意識化されてしばらくたつと、だんだん色あせて当初の情緒的な衝撃力を失い、やがて死んだ公式になってしまう傾向があります。…生命の流れとの非合理的な接触を失って、機械的なものになり易いのです」
「なぜなら、何かが長い間意識的であると、その精が抜けてゆくからです。だから、意識的生活を硬化させないためには、無意識の心的事象の流れと接触して、たえず甦る必要があります」
「<自己>の象徴は、…死んだ公式―意味を失った制度や教義、したがってまったくの形骸―に落ち込む可能性に脅かされている、ということができます」
「われわれは意識を発達させすぎて、人生をありのままに受けとる柔軟性を失った人間です。それが、でくの坊の物語がわれわれにとってとくに値打ちのある理由です。彼はただストーヴの傍に坐って体を掻いています。すると万事がタナボタ式にうまくゆくのです」
社会というのは時間がたつにつれ機械化や形骸化がおこり、どんどん魂を失ったもの、死したものになってゆく傾向があるようだ。再生するためには「死ななければならない」。そして再生を司るものは「でくの坊」のような役にたたない、無用な存在なのである。
「英雄は、健康で意識的な状況を回復する者です。彼は、部族や国民すべての自我が、その本能的、基本的な全体性のパターンからずれている状況を、健康で正常に機能するように回復させる一つの自我なのです」
「それは生きるためのモデル、無意識のうちに生活のあらゆる肯定的な可能性を思い出させる、人々を励まし元気づけるモデルを提供します」
「もしわれわれがこのような神話を手に入れれば、われわれは再びなぜ自分たちが存在するのかを知り、それはわれわれの生活気分をすっかり変え、時にはわれわれの身体条件すら変えることができる、と思えるからです」
ユング派ではアニマ、アニムスという概念で男性性、女性性をいうのだが、その片方の欠如がひどくなるともう一方の回復・再帰がめざされるようになる。男性性が強すぎれば女性性の回復が、ぎゃくに女性性が強すぎれば男性性が、といったふうに。
機械化・形骸化した男性化された社会にはでくの坊のような無用の存在がその回復をつれてくるのだろう。われわれの社会かのようである。
物語を解釈するにはさいしょの登場人物がどのような配置なのか考えると解釈がしやすくなるといっている。「三枚の羽」では国王と王子だけが登場してきて、女性はいない。これで女性性の回復が目指される物語であるということがわかるということだ。
「怖ろしい秘密をもつ禁じられた部屋は、広くゆくわたったモティーフです。何か不気味で怖ろしいものが隠されており、このことは再び、完全に抑圧され閉じこめられたコンプレックス―意識的態度とはあい容れぬ何物かを表しています」
「自分自身の貪欲さや悪意や憎しみなどを見ることができれば、それらを肯定的なものに変えることができます。というのは、こういう破壊的な情緒の中には多分に生命力が蓄えられており、このエネルギーを自由に使えば肯定的な目的に役立ちうるからです」
ユング派というのはこういう抑圧された部分―影の部分を再統合するという目標が多いのである。
なんだか話がばらばらになってきたので、さいごにゾンビの解釈もできそうなつぎの言葉でしめくくる。
「吸血鬼が血を飲むのと丁度同じように、霊は目に見えるようになるために、体を食べるのです。それらは、その形に実体を得ようとして、死体を奪って食べるのです。だから霊たちは死体に見せられるのです」
「死体を貪り食うことは、コンプレックスやその他の無意識内容が絶望的に意識に入りこみ、生きた人の中で実現されようともがいていることを象徴的に示しています。霊の、肉体に対するがつがつした欲望は、生命の充実を求める、認められず救済されぬ願いなのです」
おとぎ話や物語は意味や解釈がわからなくても、感情や情動で味わえればいいといういどみ方もあると思う。だけど解釈や意味がわかるというのも物語をいっそう味わい深いものにする。言葉で解釈できなければ、なんのための物語かと思ってしまう。





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![]() | パワーシフト―21世紀へと変容する知識と富と暴力 アルビン トフラー フジテレビ出版 1991-10 by G-Tools |
情報社会・知識社会を予測したトフラーの著作をいま読み返したら新たな発見があるかもしれないと読み返して見たのだが、ジャーナリスティックなささいな記述が多く、半分くらい読んだところで音をあげてしまった。
十何年もまえに読んでいまだに気になる記念碑的な本だと思っていたのだが、意外だった。つまらなかった。トフラーの本は経済リポート、産業リポートのようなものをずっと連ねるので、水ぶくれの分が大きすぎるのである。
そういえばトフラーのこの『パワーシフト』も『第三の波』、『未来の衝撃』(いずれも中公文庫)も絶版になっている。原理的・概要的なものだけを抽出していたら、いつまでも読まれる学問的な本になっていただろうか。それともビジネス書の常として読まれなくなるのは必然だったのか。
トフラーの著作でいちばん訴えるところは工業労働の不満や怒りを昨日のものにしてしまう情報革命・知識革命の到来を告げた箇所かもしれない。労働者はいっぺんの情報も力もなく、ワイシャツを着た連中に指示され、なにも知らされなかった。情報革命はその奴隷の鎖から解放してくれる福音であったのである。
情報革命・知識革命はその権力の鎖からわたしたちをほんとうに解放したのだろうか。情報は管理職がもっていた情報による権力を下のものにまで解放され、わたしたちはそのくびきから解き放たれたのだろうか。知識は経営者や資本家といった権力からわれわれを自由にしたのだろうか。われわれはあいかわらず経営者や資本家の奴隷や使役者ではないのか。
工業社会の労働者はだれとでも交換可能なパーツであった。失業してもほかの仕事を見つければ、かんたんに仕事につくことができた。だが知識をもちいた仕事になるにしたがって交換不能になってゆく。トフラーはそこに知識権力の源泉をみた。知識社会では長期失業がなかなか解決しない理由である。
管理職の権力は横の部署とつながり、情報を共有することにあるとトフラーはいっている。しかし日本の大企業では同期の新入社員たちをそれに近い横のつながりをもちつづける。はたしてこれは力だったのか、それとも90年ころの世界経済での日本への期待にすぎなかったのか。
知識が権力をもつと物質にたいする軽蔑と価値下落がおこると文明論的に予測したのは堺屋太一である。『知価革命』(85)において中世の僧侶やキリスト教が権力を持ったような知識社会がやってくるのではないかと大胆に予測した。知識と物質はシーソーのようにその価値をトレードオフされるのである。はたして物質と労働に価値をもった社会はテーブルをひっくりかえしたような知識や清貧が至上にされる時代がほんとうにくるのか。
トフラーは『第三の波』で工業社会の六つの原則を図式化してみせた。すなわち規格化の原則、専門化の原則、同時化の原則、集中化の原則、極大化の原則、中央集権の原則である。
工場労働や学校教育ではこの原則が徹底され、われわれの身体・行動は工場労働に適したものにつくりあげられる。知識社会ではその原則が知識創造を阻害したり、破壊したりする。われわれの社会や労働はあいかわらずこの工業社会の原則に縛られ、正しい規律として用いられているのではないだろうか。知識を活かし、知識を用いる社会に適応できているのだろうか。
トフラーの著作は概要的なことを抜き出せばひじょうに重要なターニング・ポイントをのべているのだが、著作はずいぶんと枝葉末節な経済リポートである。その記述に阻まれて、大事な要点に届かない、あいまいになってしまう欠点があったのではないかと思う。知識社会がすすんだいま、トフラーの著作はもっと魅力的に読めると思ったが、そうではなかった。
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