FC2ブログ

HOME
09 21
2019

人生論

死生観をたぐり寄せる――『日本人の死生観を読む』 島薗 進



 宗教的な死後観の本を何冊か読んだが、いっさいリアル感がなく、現代人は死にどう向かえばいいのかという点で、近現代の文学者の死生観までとらえたこの本が、読みたかった本にいちばん近い。

 「おくりびと」からはじまって、武士道の死生観、志賀直哉の観察、柳田国男と折口信夫の民俗学的死生観、岸本英夫、高見順の死の考察までとりあげている。いっしゅのガイドブックとして読んだが、やはり近現代に近づくほど、私の興味にちかづく。

 私は死について考えないようにしていたというより、死を身近に感じないために当事者意識をもてずに生きてきた。いつか考えないといけないと思ってきて、母の死をきっかけに、また私も五十をこえたので、死生観をたぐりよせたいと思うようになった。死の処置の仕方がまったくわからない。やっぱり死と有限性の実感を遠ざけてきたというほうが近い。

 仏教の死後観のみならず、柳田国男や折口信夫の描くような死生観も遠くにありて、ひたすら死を個人的出来事ととらえなければならない孤独な世界に、私は生きているといえる。

 ある意味、私は禅的・神秘思想的な言葉と思考の廃棄による安楽の境地をめざしているので、言葉でつむぎだす死の観念にふみこむ必要はない場所にはいることはいる。だけれど、言葉によって立つ場所をまるで放棄する位置にまでつきぬけていない。このふたつの両輪の探究は、ともに手をたずさえることがのぞましいのではないかと私は考える。

 岸本英夫は生死観を四つの類型に分けた。

 一、肉体的生命の存続を希求するもの
 二、死後における生命の永続を信ずるもの
 三、自己の生命を、それに代る限りなき生命に託するもの
 四、現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの

 だいたいは二と三の混合物に生きて、三が現代人には優勢になってきているのではないか。死んだらおしまいだから、この生の充実と満喫をめざす。死後観は、現世の生き方を規定する。この人生での充実を限りなくめざす者は、しかしそれが終わるときの慰めと納得の論理を見いだせるだろうか。

 ぽっかりと抜けた死生観に、私に適任の思想に出会えるだろうか。近現代の文学者にさがしたい気持ちがこの本によって起こった。


死の淵より (講談社文芸文庫)死を見つめる心 (講談社文庫)小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)新版 死とどう向き合うか


関連記事
09 14
2019

幻想現実論再読

ふつうの人の悟り――『わかっちゃった人たち』 サリー・ボンジャース 編

わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと
サリー・ボンジャース 編
ブイツーソリューション



 神秘思想の探究は一時停止しているが、この本は気になっていたので図書館で借りた。

 ふつうの人が悟りをどう語っているのかという興味だ。7人の人たちの話が紹介されている。いずれも精神世界、神秘思想の探究はおこなっていて、なにも知らずにいきなり悟ったという話はない。幾人かの師にも会った人が多く、トニー・パーソンズに会った人が多い界隈のようだ。

 だいたいは私もわかる話をしているのだが、いくらかは私にはわからない話もあった。私は知的・概念的に理解している部分が多く、感覚的に悟ったという経験はしていない。そういうぼこっと脱落するような経験をするものなのかな。

「分離という中心的な思い込みの本質がいちどでも見抜かれれば、それで全部です。いちど見抜かれたら、それは見抜かれたということなんです。それでおしまいです」



「もしその頭の中のイメージが消えたら、ここにはほんとうは誰もいないんだということがわかります。僕の場合、まさに文字どおり身体が消えたんです」



「なんてこった!今までなんで気づかなかったんだろう? 何をどうしたらこのつまらないちっぽけな奴と同一化して、ずっともがき続けてこられたんだろう?」

 

 分離とか、だれもいない、身体もないということを、私は理解しているわけではない。このへんの認識が私にはまだ足りないようだ。

 言葉や思考がつくりだす幻想や非実在性ということには、だいぶ理解を増したと思う。過去が存在しないという実感もちゃんともっている。だいたいはこのふたつの認識の誤りを克服することで、悟りには近づけたとは思うんだけど、上記の部分では実感をしっかりもてているわけではない。

 人は言葉と思考というシステムで、この世界の認識のほとんどをまかなってしまう。この思い込みをひきはがすことが、神秘思想のまず最初のステップになる。しかしこの思い込みの強固さと、ほかにオルタナティブがあるという視野の欠落は強固である。この部分をのりこえることが、たいがいの人には思いもしない世界なんだろうと思う。これはそうとう難しい最初のステップだと、つねづね思う。

 ちょっと日常のトラブルとかあって、思考の脱落を願う場面があって、また神秘思想の探究にもどりたい気持ちになってきた。非二元とかアドヴァイダとか最近の動向を追ってみたい気持ちがわいている。トニー・パーソンズ、ダグラス・ハーディング、アジャシャンティティとかいった人たちだろうか。

 神秘思想のさいしょのきっかけの本に出会ってもう二十年になる。リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』なんだけどね。


オープン・シークレット(覚醒ブックス)悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて -(覚醒ブックス)存在し、存在しない、それが答えだ(覚醒ブックス) (- To Be and not to be, that is the answer - (覚醒ブックス))ポケットの中のダイヤモンド―あなたの真の輝きを発見する


関連記事
09 08
2019

人生論

底の抜けた死後観――『死後の世界』 立川 武蔵



 立川武蔵は、仏教を中心に東アジアの宗教をはばひろく研究した人なのかな。空関係の本を読んだかな。

 この本では、「なぜインドには墓はないのか」といったことや、「輪廻について」、「草や木に成仏はできるのか?」、「死は終わりなのか?」といったテーマで語っていたので、興味をもった。

 インドに墓がないという話を読んでいて思ったのだが、私個人には墓や遺骨に死者が宿るという観念がまったく根づいていない。死後や極楽の世界観もリアルと感じたことはまるでないし、自分自身の死後観をしっかりと組み立てないと、ちっとも死者を弔う儀礼によりそうことができない。このラディカルすぎて、底が抜け抜けた死後観に、いったいどんなかたちを与えればいいのだろうと思う。

 地方ではなく、郊外のベッドタウンで生まれ育った人はだいたいこんな風な底の抜けた死後観をもっているのではないだろうか。先祖のつながりも途切れ、死後の魂観も抜け落ちている。死者を弔う中身がまったく欠如した状態だ。戦後の無宗教者は、いったいどんなふうに人の死に向き合えばいいというのか。

 輪廻の世界観も、物語やテレビなどでたまに見聞きすることができるが、それをどこまで信じているかも疑わしい。オカルトの扱いだし。仏陀は輪廻からの解脱をめざすと説いたのだけど、現代ではどちらかというと輪廻や生まれ変わりがあってほしいという願望だけが、宙に浮いているのではないだろうか。

 古来の仏教儀式がのこっているにせよ、サラリーマンや都市消費をおこなう人にとって、宗教や死後の世界はもう身近に感じられない世界だ。このかたちだけが残り、中身がすっかり空虚に、からっぽになってしまった死後観に、どうやって人の死や自分の死に向き合うつもりなんだろう? どちらかというと、形だけをすまして、日常の生活に戻ってゆけばいいという現実主義だけで、死に関わればいいと思っているのだろうか。死の関わりがすっかり底を抜けてしまっている。

 草木の成仏など、現代人にはまったく論外の問題だろうが、区別も境界もないワンネスの世界をどう理解したらいいのかという点からだけ、私の興味をひいた。

 現代人は、人の死を弔うことのできないところまできてしまっている。魂や死後を信じずに、どうやって墓や葬儀の気持ちをこめておこなえるというのだろうか。故人の思い出や記憶が、その座にすわることになっているのだろうが、死後の世界の欠落は、墓や葬儀の形式もどんどん落としてゆくことだろう。あまりにもこの問題を棚上げしているように思われる。


人は死んだらどこに行くのか (青春新書インテリジェンス)葬式は、要らない (幻冬舎新書)もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産は、要らない (幻冬舎新書)図説 死の文化史―ひとは死をどのように生きたか


関連記事
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

twitterはこちら→ueshinzz

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top