『雑談力』 川上 善郎


雑談力 おしゃべり・雑談のおそるべき効果 [マイコミ新書] (マイコミ新書)雑談力 おしゃべり・雑談のおそるべき効果 [マイコミ新書] (マイコミ新書)
(2008/07/23)
川上 善郎

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 雑談やおしゃべりといったものをなめちゃいかんと思う。学校でおしゃべりはいつも注意されるし、近所のおばちゃんの雑談はムカつくし、仕事中のほかのやつの雑談はどうにかしたくれといったように、他人の雑談は不快である。

 それは集団や群れというものが脅威であり、自分を排斥したり、評価したり、仲間はずれにしたりといった「権力」や「暴力」が雑談に付与されるからである。この権力の読み方や対処の仕方をまちがうととんでもない目に会う。人間は雑談によって「仲間」をつくり、そして「権力」をもつのである。

 この「承認」と「不承認」のパワーゲームを読みとらないことには、人生苦労がついてまわることになる。「空気を読まない」とひところ騒がれたが、雑談による権力のゲームをしっかりと読み解かないと、雑談の「悪口」に追い立てられることになるだろう。

 雑談は「権力論」として読み解いてほしいのだが、この本はそういう点からいえば、すごく甘い。おしゃべりを「不穏な権力」として読み込んでいない。おしゃべりを夫と妻の会話時間のような軽いデータに還元したりしているのだが、陰口や悪口や仲間外れといった目に会った人なら、この雑談やおしゃべりの輪の「権力性」「制裁力」といったものの暴力を思い知っていることだろう。なぜ雑談の暴力や権力、あるいは序列といった不穏なものから読み解こうとしないのだろうか。

 人がおしゃべりする動機は、孤独でないことの確認や、つまり仲間であるということや、自分を他人に理解させるための手段や、思いやりや支配を示す方法、儀礼としておこなわれるという。仲間に拒否されていないことをメッセージするために雑談はおこなわれたりして、つながりや同盟が誇示される動機がおしゃべりにはある。

 おしゃべりの目標には、社会的な関係を深める、社会的なリアリティを作り上げる、お互いの体面を尊重する、共通の課題を達成する、お互いに楽しむ、といったものがあげられている。仲間とやつらの境界がつくられ、仲間内での解釈がつくられてゆく。場所の気まずさやシラケたムードが緩和されるために雑談が強要されるときもある。

 雑談は類人猿でいう「毛づくろい(グルーミング)」なのであるが、言葉のある人間は雑談によってつながりを維持し、ときには仲間であることの承認や不承認をあらわし、敵と味方の境界がつくられてゆくのである。極端にいえば、雑談は「戦争になるか、ならないか」の分岐点をつくる土台なのである。

 悪口の社会的効用があげられている。集団は制裁やジャッジの力をみずからにもつものである。悪口はルール作りの道具になったり、ホンネの新人教育の道具になったり、悪口によって派閥が形成されたり、情報通貨としての効用をもったりする。否定できず同調を強制される悪口によって派閥という仲間は形成され、集団のルールや規範はかたちづくられ、そして情報は駆けめぐる。悪口はいろいろな「踏み絵」を踏ませて、仲間と敵のふりわけや、解釈や評価のメディアが集団内でつくられ、そしてルールや規範も練り上げられてゆく。つまるところ悪口や雑談は社会のルールや仲間と敵をつくってゆくのである。

 雑談の権力性、仲間意識のウチとソトを甘く見ているようでは、人間社会は渡ってゆけない。


話すチカラをつくる本―この一冊で想いが通じる! (知的生きかた文庫 や 25-1)なぜか、いつも会話がはずまない人へウケまくる!技術


『旅々オートバイ』 素樹 文生



旅々オートバイ (新潮文庫)
素樹 文生

旅々オートバイ (新潮文庫)


 素樹 文生という人は『上海の西、デリーの東』という旅行記を出している印象があるが、この『旅々オートバイ 』という本を読むと文学を志向している文体だなとわかる。ひさしぶりに文学的文体の穴に入るような細密さにちょっと重くて読む進めるのがしんどいなと思ったが、慣れたら旅のエピソードや観察のおもしろさもあって一気に読めた。がんばって小説家として立ってほしいものである。

 この本は日本中を一年のあいだオートバイで放浪したさまが描かれていて、野宿ツーリングを志向する私としてはいろいろ参考になった。バイク雑誌にはそういう連載はあるのだろうけど、文庫となるとそう多くなく、貴重な参考資料である。多くはオートバイ紀行のエピソード集であるが、文学的内省の網のかかった紀行文である。

 著者はクルマでの旅はTVを備えた自分の部屋のようになってしまい、止まりたいところにも止まれないから、風土や空気や季節の中にさらけ出されてしまうオートバイの旅を好むという。かわりに土砂降りの雨や風、寒さ、暑さなどにもろにさらされてしまうのだが、それが空間を移動する旅というものだろう。そのような損な代わりに得られるものが多いことを知っている人がバイク乗りになったり、あるいはクリエイティヴな才能を発揮するという。

 日本中を放浪しないとわからないようだが、けっこう日本には各地を放浪しつづけている人がいるそうだ。渡り鳥のように春に北海道に渡り、南下して石垣島に入る。おもにテントや野宿で暮らし、これは旅人とホームレスの境界が引けないような暮らしをしていることになる。旅とはこのような自由な世界をもっているのである。そして哀れみをもって見られるテント暮らしの人たちとも通底する。アジアを旅する人たちとかも合わせると、旅からもうひとつの日本の姿というものが見えてきそうだ。

 さすらいのライダーがどう見られているというと、男は自由な本能を会社や学校で束縛されているから憧れの目をもって見られることがあるが、若い女性はオートバイなんか視界に入っていないし(笑)、ライダーなんか無視である。女性にモテたいならクルマである。私もクルマの序列に敏感に反応する女性たちを見たことがあるが、友だちのクラウンで歓喜し、軽自動車に軽蔑のため息を吐いたことを思い出す。女性たちはオートバイには信じがたいほど興味を示さない。バイクを「アリみたい」と形容する。オートバイはおもにひとりで乗る乗り物であり、そういう序列市場からのアンチや逃走もひそかにもくろむ乗り物であるかもしれない。

 著者の関心はどこにあるかと考えると、あらゆるエピソードを文学的表現の網にかけることにあることなのだろうかと思う。旅行から文学的考察がすすめられるのである。哲学や社会学ではないな。私なら各地の風景や生業、営み、暮らし、地域の歴史などに興味が向かうのだが、私はそういう考察が跳ねるような野宿ツーリングをしたいと思っている。


上海の西、デリーの東 (新潮文庫)クミコハウス (新潮文庫)愛のモンダイ (ダ・ヴィンチブックス)

バイクはエストレヤRSに決定。


エストレヤ 
 カワサキ・エストレヤRS


 免許取得と同時に250ccのバイクで野宿ツーリングに出られることを計画して、ぽつぽつGoo Bikeを見たり、ショップめぐりをしてきたが、写真のようなレトロなタンク・デザインのカワサキ・エトスレヤRSを購入することに決めた。車体価格19万8千円。

 バイク選びはオールド・スタイルとかレトロ・スタイルとか、とにかくシンプルな感じのバイクを考えていた。アメリカンとかレーサーレプリカのようなスタイルはいっさい考えられなかった。私がバイク選びで考えることは、カッコよさや速さを街中で「誇示したくない」という一点に尽きると思う。そういうバイクの優越感や顕示欲はいやだ、目立ちたくない、という気持ちがオールド・スタイルなバイクに目を向かわせたのだと思う。

 私はバイクにもメカにも性能にもほぼ興味がない。モーターで動くラクな乗り物で、クルマのように駐車代とか車検代とかかからないものに乗りたい、車体価格が高すぎるという「ビンボー根性」でバイクに乗っているだけである。私のアイデンティティとしては「バイク乗り」や「ライダー」であるというものがいっさいなく、「この人たちとは違う、仲間には入れない」と思っている。性能やメカには興味がないライダーって多いのだろうか。私がバイクに求めるのは、自然の景色を見ることだけである。興味があるのは風景だけで、性能なんかどうでもいいし、速さも気にかけない。

 バイク雑誌なんか見ていてもほとんど興味が向かないし、向かう方向性がほとんど興味をもてない。だからバイク選びはなかなか困るのだが、むかしからのレトロなバイクは気をてらわないでふつうに乗れるということでターゲットになった。私にとってバイクは「たんなるモーターの乗り物」以外のなにものでもない。ライダーが憧れる方向性にまったく興味がもてない。私が気になるのはデザインだけである。

 GooBikeとか見ているとそういうオールド・スタイルで気にかかるものがだいたいはカワサキのエストレヤやスズキのST250、ホンダのGB250クラブマンあたりかなと絞れてきた。とくにGB250クラブマンの中古相場は10万台ちょっとのものが多く、狙い目だと思った。安くあげたいというのが大きな目標であった。べつに性能がいいとかスピードが速いとかどうでもいいからね。

ホンダ GB250 クラブマン ホンダ GB250 クラブマン
ST250 スズキ ST250

 しかし写真で見るのと、実物で見るのとは大きく違う。写真で気に入っても、じっさいに見てみるとどうも違うという場合が多い。写真は小さく写っているからその中だけのバランスに目が向きがちだが、実物はサイズがかなり違って感じられるし、視点の違いからでもかなり印象が変わるし、ほかのバイクとの大きさと比べるとそのよさやカッコよさも相対的に変わってくる。原付を買うとき、YB-1のバランスやスタイルはなんていいんだと思ったのだが、実物を見てみるとそのおもちゃみたいな小ささに唖然となった。じっさいに目で見てたしかめるほかない。下のバイクがYB-1であるが、写真で見るとほかのバイクと見劣りしないが、じっさいの大きさはかなり小さくて、恥ずかしくなるほどである。

YB-1 ヤマハ YB-1

 バイク屋はどこもスーパーのように黙って商品を見回るということができない。一歩店に踏み入れば、たちまち店員が食いついてくるというところばかりである。店員に気兼ねせずにあれもこれも見て回るということができないのである。だから冷やかしでいいから実物を何回も見て目をなじませるということがなかなかできない。全体の商品を見て比較・検討するという段階は、雑誌やカタログなどですませておいたほうがいいのだろうが、やっぱりバイクの印象は実物とはだいぶ違う。

 エストレヤのデザインはいいと思ってじっさいに見てみるとどうも印象が違う。横から見るとしごくシンプルで細い印象があるが、実物を上の視点から見るとタンクがかなり大きく丸っこいのである。このタンクの大きさが違うと思わせてしまう。エストレヤはふつうのシートと、ぶち切れたようなダブルシートがあるが、このダブルシートを見ていると、これはいったいどういうカッコよさを志向しているんだろうと悩んでしまう。エストレヤは女性にも人気ということだが、タンクのデザインや丸みを帯びた感じがいいのだろうが、私はいまいち細さのほうを望んでしまうのだが。下の写真のようなタンク・デザインはほんとおしゃれだと思うが、最新型なので激安狙いの私には手が届きません。

エストレヤ カワサキ・エストレヤRS

 エストレヤがいいと思ってバイク屋をめぐってみたのだが、どうもタンクの太さや丸みが違うという印象が大きくなってくる。GB250クラブマンはタンクの無骨なデザイン、激安商品の古さや痛みを見ていやになってきた。10万少しの激安商品を狙ったのだが、さすがに年代モノやボロの入ったものが多く、予算はもう少しひき上げなければならないようだ。スズキのST250はこれはビジネス・バイクだという印象を受けて早くもパス。

 バイク屋を街で見つけるという作業もなかなか難しいものである。駅前にいけば必ずあるというわけではないし、ロードサイド・ショップ沿いにあるというわけでもなし、バイク・ショップの標準的な店舗場所というのは決まっていないのである。Goo Bikeで地図を見ていってみたり、ネットのバイクショップNAVIの地図を見て探したり、ときにはやみくもにバイクショップをもとめて走ってみたり。効率のいい探し方や気に入ったバイクを見つけるのはなかなか難しいのである。住宅街のガレージ・ショップや入りにくそうな店もあったりして、バイク屋めぐりはほんと難しい。レッドバロンのような量販店はいいのだが、激安路線がないのが残念である。松屋町のバイクロードは一店一店、店員と相手をしていたらかなり疲れる。

 エストレヤを見て回って失望しはじめて、GB250クラブマンもいいかもと思い始めたのだが、前に見たエストレヤの茶色のレトロなタンク・デザインが忘れられず、売れしまったらもうなかなか出会えないだろうということで、このバイクを購入することにした。決め手はボーリングの玉を思わせるようなレトロなデザインである。車体価格が19万8千円。整備や登録代などでトータル24万となった。

 私の計画としては一週間先の盆前に納車できてツーリングができると踏んでいたのだが、なんと三週間先に納車になるということでひたすらがっくり。免許がとれたら飛び出そうと思っていたのに、またもや出足をくじかれた。それもほぼ一ヶ月先である。がく〜(泣)である。

 原付でロング・ツーリングするのはカッコ悪いからと普通二輪の免許をとろうと思ったのに、しばらくは原付のYB-1くんで野宿ツーリングしなければならないようである。YB-1くんとの最期のお別れを楽しむとするか。


▼あ〜、早く緑の山中にもぐりこみたい。(兵庫県北部の山中。GWの野宿ツーリングで撮影)
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普通二輪教習を無事、卒業しました。



 五月の下旬から通いだした普通二輪の教習だが、きょう卒検があって、無事卒業できました。

 卒検は10人のうち最後で、緊張がながらくつづいて、困ったものだと思った。ふだんの練習ではめったにおこさないエンストやニュートラルになかなかギアチェンジができないという失態を見せて落ち込んでしまったが、あっけなく合格だった。ほかの課題は問題なかったのだが、ひやひやものだった。

 私は原付のミッションに三年乗っていたので、400ccのバイクでもほぼ違いを感じないで運転できた。一発試験でもよかったと思うのだが、やはりじっさいに400ccに乗らないと不安だし、仕事をそう何回も休んで試験を受けるわけにもいかず、教習に通った。のちに失業していくらでも一発試験を受けられる環境になったのだが、その前に入学を申し込んでしまったので、皮肉なめぐり合わせである(泣)。

 私の考えとしてはバイクは自分で練習したほうがうまくいくと思うし、気持ちにゆとりがもてると思うのである。教習ではうまくいかなかったり、覚えるところを覚えてなかったりしたら、教官に怒られたり、険悪になったりするのだから、どちらかというとこちらのほうに気をとられてしまい、運転技術の向上にうちこめない。人に監視されながらの練習は気をつかってよけいな神経に時間をとられてしまう。人によっては教えてもらうほうがいいというタイプもいると思うが、私は自分ひとりで練習にうちこめる方法のほうがしっくりとくる。原付のミッションを覚えるのにそうとう苦労したが、そういう壁や模索と格闘しながら、運転を克服していった方がよほど自分の身についたと思うのである。

 私はクルマの免許もないから、学科の教習も受けたが、私は人に教えてもらうより、ひとりで問題集を解いていたほうがいいと思うタイプである。教科書なんか自分で読んで問題を解いたほうがいいと思うのだが、たしかに多くの教科は教えてもらわないと覚えが悪いかもしれない。でも問題をやるころにはいぜんの講義はすっかり忘れているのだが。

 学科はそうとうに難しいと苦労している(笑)。ちゃんと教習を聞いていたはずなのだが、問題をやってもぼろぼろ間違うし、覚えていない。私はむかしからもの覚えが悪く、英語のスペルと意味を覚えるのに大学ノート3ページくらい書いても覚えられないくらいだった(泣)。問題をやってもやっても合格点に達しない。

 教科書と問題の違いは、教科書はこれはこう、あれはこうと限定せずに指示をするわけだが、問題は違いや異なるものを聞いてくる。限定や相違点を教科書は指示しないのだが、問題集はそれだけを聞いてくる。だからなにが異なるかと聞かれても答えられない。おまけに物覚えも悪いから、さっぱり答えられない。「安全地帯があるときは徐行か、停止か」と聞かれてもどちらが正解か覚えてない。原付で公道を走っていても、そんなルールはとっくに忘れていて、状況次第で運転している。試験センターでの学科試験が心配だが、それ以前に問題集をまちがいのないようなレベルにひきあげるのがタイヘンである。

 教習でいちばん気を回したことが、人によっては違うのだろうが、私は教官との関係にけっこう神経をつかったのだと思う。教官との関係はコンビニのように顔を覚えられてほしくない距離感のような気もするし、運悪く覚えられたら、距離感を縮めるような関係をつくるべきなのか。教官の顔を覚えても、その自覚を顔に表わすべきなのか、知らんぷりをするべきなのか、こういう距離感に私は神経を使ってしまうのである。このような存在の承認の関係というのは、知っている人からあいさつがなかったり、無視されたりすると、なにか傷つけるようなことをしてしまったのかと不安にさせるものだから、承認というのは人間関係において意外に重要なものである。学生が「あいさつしろ」といわれるのは、無視はときに人を傷つけてしまうからである。それは同時に「制裁の方法」もであるのだから。

 教官との関わりというのは、スクールによって違いがあるのだろうが、あの覚えたての教官がきょうは学科の教習か、きょうは技能の担当か、きょうはシミュレーションの担当かと、ころころ変わっていって、ほとんど消息不明の関係になったり、ときに顔をあらわしたり、またこの担当者と出会ってしまったという関係であった。個性的で覚えやすい教官は「うっ、またこの人か」と思ったり、「この印象のない人はたしかこないだ技能の担当をしてくれた人だな」とか、「この技能の担当者は学科のときこのように講義するんだな、へ〜」とか思ったり、なかなか人間観察がおもしろい場でもあった。

 そしてそのような一期一会の関係をくりかえしながら、ある生徒が顔を見せたと思ったら、さいきん見かけないな、いつの間にか卒業していたということになる。覚えるころに卒業ということになっていたりする。消息がひとコマの教習にあらわれたり、とぎれたり、終わってしまったり、どうなったのかわからないといった存在の不在と顕在をあらわしながら、生徒はころころと変わってゆく。この人の移り変わりの早さからくる喪失感は、けっこう新任の教官なんかは、胸にこたえたりするんじゃないかと思ったりする。まるで親密になる前にベルトコンベアーで人が過ぎていってしまうようなものである。終わってしまったら、あっけないものである。

 生徒同士のつながりはほぼなかった。みな無口にスクールにやってきて、寡黙に教室に入り、沈黙のまま教室を出てゆく。自分の内面の心配や不安や喜びや言いたいことは、いっさい表に出ない。たまに顔を覚えた生徒をよく見かけたり、会ったりするのだが、それもいつの間にか卒業して二度と出会うこともない。徹底的に機能的な学習の場であって、私たちが知る公立の学校のような親密で濃密な共同体の関係はいっさい排除されている。まるで電車に乗り合わせた人たちの群れのようであり、そして電車内では知らない人にみだりに声をかけたり、親密な会話をいきなりしてはならないというルールがあり、この教習所にもそのような規範が支配していたようである。

 まあ、教習で感じたことをあまりながながと書いても読んでもらえないだろうから、そろそろ終わりにするが、ちゃんと頭でまとめて書けよ(笑)とツッコミをいれたくなるのだが、教習は技能のプレッシャーやゆううつ感を感じながらも、終わるときにはあっさりと終わるんだなと感じた。

 あとは試験センターでの学科試験だが、ひじょうに苦戦しそうだ。問題集を間違ってばっかだ。何回も落ちて恥をさらさないようにしっかりとベンキョーしたいと思う。とりあえずは技能の免許レベルには達したのでひと安心だ。

『ホテルアジアの眠れない夜』 蔵前 仁一


ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)
(1994/06)
蔵前 仁一

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 旅行記には二つのタイプがあって、日記タイプとエッセイタイプがある。日記タイプは行動をえんえんと記し、エッセイタイプは一歩踏み込んで思索をくりひろげる。旅行記では日記タイプが多く、ヘミングウェイのように思考より行動に価値をおくのだが、行動にあまり価値をおかない思索型の私はやはりエッセイが好みである。エッセイはものごとや行動を時系列から解放して、要素間の編集をおこない、より思索を深めてそれは学問になる。この本はエッセイでよかった。

 人間は「いま、ここにないもの」を思考や言葉で獲得することによって、動物と異なる存在になった。過去や未来が生まれ、生と死が生まれ、文明が生まれた。行動に思考を寄りそいつづける日記タイプは、人間の特徴である思考の特異性を生かしていないのである。時系列では結びつかない、いま・ここにない要素や物事を結びつけることによって、新たな発見や収穫が得られるのである。

 私はいまアジアの旅行記を読むことが多いのだが、知りたいのは長期旅行者の生き方であったり、日本と違う働き方や人生観、社会であったりすると思う。つまり日本の「正しい」生き方のほかの選択肢を探しているのだと思う。私の探求のいぜんからの目的はこれなのだが、さいきんはアジアの仕事や暮らしにそれを見つけようと食指をのばしているわけである。私は日本の仕事や労働だけしかない人生がたいへん嫌いだから、アジアの正反対のような価値観に魅かれるのである。とくに労働のオルタナティヴはぜひとも得たいものである。

 この本はバブル期におこなわれた旅行記であるようなのだが、このころから世界中をあちこちをひとりで旅するバックパッカーのような日本人も多数存在したようである。バブル期といえば、ニュースで海外旅行の増加が、日本の経済的おごりとともに報道された時期である。団体旅行客やパックツアーのイメージも強かったが、ひとりで旅するバックパッカーも増殖をつづけていたのである。

 しかしとうぜんのことながら、長期旅行者は日本の企業社会から落ちこぼれるわけである。日本に帰っても、就職や人生が保証されているわけではない。いっぱんにイメージされる「成功」や「正しい人生」から、完全にもれてしまわないと長期旅行の決断はできないのである。日本人としての人生をやめるのか、もどるのかと、厳しい選択を迫られることになる。日本の企業は長期旅行者を受け入れるような社会ではないのである。

 日本は農耕民族として定住の人生を長らく送ってきたのだと教科書は教えるのだが、はっきりいえばこれは戦後の終身雇用制度を促進するためのイデオロギーである。ひとつの会社に長く勤め、滅私奉公することが「正しい人生だ」というイデオロギーの洗脳である。転職したり失業したり浮浪するような人間がたくさんいれば困る人がいたのだろう。たとえば税金に頼る政府だとか、勤勉な労働者をほしがった企業であるとか、安定した収入を善とした専業主婦なのであろう。

 そのような社会の風潮が、日本の歴史から、漁民や狩猟民、商人や流浪者の文化や生活を抹殺してきたのである。日本人は先祖代々の土地でずっとコメをつくりつづけてきたのだ、ほかの浮遊する存在はいなかった、だからひとつのところで働きつづけることが「正しい人生だ」と刷り込まれたのである。そのような重圧を逃れようとして、長期旅行者はアジアを漂いつづけていたのである。海外旅行は日本イデオロギーからの脱走でもあったのである。そしてイデオロギーに染まった企業に受け入られず、帰るところも失わなければならなかったのであるが。というより、おそらくそれは一部のエリートや大企業の話であって、中小企業や零細企業ではそうではなく、どこかにもぐりこんだり、しのいで生きてゆけたのだろうが。

 むかしアメリカで鉄道ができたころ「ホーボー」といって、無賃で鉄道に乗ってあちこちを旅した労働者たちがいた。季節労働や仕事を求めての旅であった。作家のジャック・ロンドンなどが、自由と悲惨さを抱えもったそのようなホーボーの体験記を『アメリカ浮浪記』に記している。その後アメリカは工業社会としての繁栄や成功を手にするのだが、60年代になり、ホーボーに憧れたジャック・ケルアックなどがヒッピーのような旅のスタイルをふたたびはじめるのである。人間は定住と放浪の狭間にいつも悩まされてきたようだ。日本でも高度成長さなか『フーテンの寅さん』が人気を博した。できれば、定住のイデオロギーに染まりきらない社会になってほしいものである。

アメリカ浮浪記 ジャック・ロンドン
アメリカ浮浪記
ホーボー アメリカの放浪者たち
ホーボー アメリカの放浪者たち
ホーボー―ホームレスの人たちの社会学 (上) (シカゴ都市社会学古典シリーズ (No.3))オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))漂泊の民サンカを追って江戸の漂泊聖たち

 著者の蔵前仁一はインド旅行に行って、日本とあまりにも違うことに驚き、「正しさ」とはなんなのかと書いている。

初めて日本とは違う別の世界があることを知ったのだから、もう日本を絶対的に正しいと思うことなどできなくなったのだ。

僕は一度「正しさ」というものをなくしてしまった。……僕が学生だった頃は、よい成績をとるのが「正しい」ことだった。いうまでもなく、これは今の僕にすれば、「クソ」である。なんの役にも立たない。なぜなら成績がいいか悪いかが問題になるのは、学校という特殊な世界の中だけであり、生活していくには、そんなもの単なる「飾り物」にしかならない。

「人並み」なんていう「標準」も「正しさ」も、本当はこの世にはない。



 海外旅行者はアジアなどにいって、そのような日本の「相対化」を探しにいくのだろう。自分が縛りつられている「正しさ」や「絶対」などというものを外側からながめ、客観視し、自分を解放するために。できれば、アジアや海外にいかずに、相対化や客観視できればいちばんなのだろうが、日本という国家、社会はそれをできない、許さない社会のようである。しかし定住民のイデオロギーを壊す試みは海外旅行者などがおこなったり、あるいは学術の世界からも疑問が投げかけられ、そのような知恵を知った人たちは人生や自我を解放するすべを知るのだろう。知らない人はいつまでたっても牢獄の中だろうが。


人生を変える旅 (幻冬舎文庫)世界最低最悪の旅 (幻冬舎文庫)セルフビルド―家をつくる自由

『求む、仕事人! さよなら、組織人』 太田 肇


求む、仕事人! さよなら、組織人 (日経ビジネス人文庫)
太田 肇

求む、仕事人! さよなら、組織人 (日経ビジネス人文庫)


 大田肇は名誉欲や承認欲求について追究しているから読みたいと思っていた。意外にこの欲求についての研究は、散文は多いにしても体系的な研究は少ないため、期待している。

 たとえば、『承認欲求』や『お金より名誉のモチベーション論』、『認められたい!』といった本を出している。人間の欲求はこのような認められたい気持ちや名誉、尊敬をめざすことに多くのウェイトをおいていると思うのだが、あんがい、この欲求は軽視されている。自分の恥部をさらけ出すようで、あるいは承認の欲求を認めたくないのか、本格的な著作を見かけないのである。

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?お金より名誉のモチベーション論  <承認欲求>を刺激して人を動かす認められたい!―がぜん、人をやる気にさせる承認パワー

 私がそのような著作で目の引く論述に出会ったのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』の優越願望や対等願望であったり、勢古浩爾の『わたしを認めよ!』であったり、アラン・ド・ボトンの『もうひとつの愛を哲学する』といったあたりだろうか。ほんとうに少ないのである。

歴史の終わり〈上〉 (知的生きかた文庫)
歴史の終わり〈上〉 (知的生きかた文庫)
わたしを認めよ! (新書y)もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学


 『求む、仕事人! さよなら、組織人』を読んだのは、そういう承認欲求の著述を読みたかったのだが、金欠のため安い古本でみつけた太田肇の著作を先に読んでみたいというわけである。こちらのほうはじつにありきたりの本でべつに読んでも大しておもしろくもなく、得るものはなかった。

 「組織人」が組織に一体感を抱き、組織からの報酬を目的にするに対して、「仕事人」は仕事に対して一体化し、仕事をとおして目的を追求するということである。組織の窮屈で市場価値のないこれまでのサラリーマンの生き方ではなく、仕事に忠実な仕事人になろうということで、べつにこのことにかんしてはなんの感銘もわかない。ありきたりすぎるし、希望や期待を抱かせるものでもない。オダブツ。やっぱり読みたいテーマの本を読まないとなということでした。

 ということで、古本屋でみつけた『お金より名誉のモチベーション論』を500円で買った。しかしこの承認欲求を会社の労務管理につかわれるようになると、あまりにもヤバイんじゃないかと思ったりする。ますます魂まで会社に売り払わなければならず、魂の逃げ場所がなくなるじゃないかと危惧したりする。


仕事人と組織―インフラ型への企業革新 選別主義を超えて―「個の時代」への組織革命 (中公新書) 「外向きサラリーマン」のすすめ 個人尊重の組織論―企業と人の新しい関係 (中公新書) ホンネで動かす組織論 (ちくま新書)
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阿久悠と「国民」の時代



 きのう、阿久悠の一周忌ということで『ヒットメーカー阿久悠物語』をやっていた。私は世代的には阿久悠の全盛期には小学生ていどだったのでヒットした曲はよく聞いたのだが、阿久悠にとくべつの思い入れもないし、いまからふりかえってあの時代はよかったと思うこともないし、郷愁したい思いもない。阿久悠はあの時代に聞けばよかったのだろうが、今日まで長く聞きつづけられるものをつくったかどうか。

 北の宿から 都はるみ
 石川さゆり - 津軽海峡・冬景色
 沢田研二- 勝手にしやがれ
 ピンク・レディー 「UFO
 ひと夏の経験 山口百恵
 もしもピアノが弾けたなら 西田敏行
 宇宙戦艦ヤマト 佐々木功

 ピンクレディーが大ヒットしたころ私は小学生でとうぜんのようにふりつけの真似(笑)をした世代なのだが、きのうのドラマを見ていて、『スター誕生』という番組があのころのアイドル歌手やヒット曲を生み出していたことはよく知らなかった。小学生ですからね。森昌子、桜田淳子、山口百恵、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜といった人たちがこの番組からデビューしたそうだ。

 このころの時代というのはヒットする曲は国民の誰もが知っていて、国民の関心事になりえた。国民が一体となって、TVの音楽番組を見ていた。今日では音楽は若者やティーンエイジャーのものになり、ヒット曲がそれ以上の大人や国民に知られるということもなくなり、共有されることがなくなった。いまから考えれば「奇蹟のような時代」であり、「国民」はTVやヒット曲により、ひとつになり、一体感をもっていた。ヒット曲やTVは国をゆるがす事件であったのである。

 『スター誕生』はそれまで歌手や俳優は専門の才能ある人しかなれないものであったが、となりのしろうとやふつうの子がスターになれるという夢やきっかけを与えたということになるのだろう。ある意味では専門業のしろうと化であり、大衆化であり、低俗化であった。このころを境に歌唱力が抜群によい選抜された歌手という地位は弱くなり、歌がうまくなくてもかわいさや愛嬌で若者に愛されるアイドルというものが生まれていったのである。

 80年代はアイドル全盛期となったのだが、個人的には悲惨な時代であったと思う。しろうとのヘタな歌など聴きたくない、プロのうまい歌や深みのある歌唱力といったものを聞くことを期待することが音楽を聞くふつうの動機だと思うのである。それがかわいらしさや愛嬌、美貌だけがアイドル歌手に求められたのである。期待されていたのは音楽ではなく、性的な魅力だけである。音楽は音楽であることをやめた、才能や技能を捨てた、恋愛・性的魅力の市場となったのである。

 女性歌手やアイドル歌手には性的な衝撃がもとめられた。公共的な場での性規制の解除といったものに挑戦する姿に私たちは衝撃を受けた。性は個人的なものであるが、メディアという公共的な場での性規制の解除が挑戦されていったのである。性が個人的で隠蔽されるべきものから、公共で共有され、そして心情や行為の情報も共有されるというものへと挑戦されていったのである。性は解放されていったのだが、公共性の規制解除はたんに性の商品化・マーケット化をもたらしたに過ぎないように思えるのだが。性の魅力や欲望がマーケット・貨幣経済にとりこまれていっただけであって、性は市場の新たな拘束・規範を受けるようになっただけと思わなくはない。

 TVは幼児化や青少年化をひきおこした。こどもや思春期のティーンエイジャー向けのメディアに占領されたのである。恋愛・性的魅力を売る産業となり、大きく十代の客層をとりこむことになったのだが、同時にそのような低年齢化は、多くの国民の視聴者を去らせた。アイドル・ブームになり、「国民の時代」は終わった。音楽は十代の限られた層だけが聞く、閉じられた市場となり、今日のヒット曲を国民の多くが知り、共有するということはなくなった。TVが国民であった時代は終わったのである。

 『スター誕生』はそのような時代の転換期をつくり、そしてしろうとや十代がスターになる可能性を開いたのだが、同時にそれはTVが国民であった時代の幕引きを用意したのだろう。才能や能力がなくてもスターやアイドルになれるという期待や希望の演出は、のちの「おニャン子クラブ」や「モーニング娘。」などにひきつがれて、TVはプロや専門家のメディアであることをやめていったのである。それはTVが最大公約的な視聴者を対象にすることによる避けられない宿命だったのだろう。TVはどこにでもいる「私」のような子でもスターになれるという期待を与えて、そしてこれらの大きな層を客にとりこんだのである。『スター誕生』は客層の拡大化をもたらしたのだろうが、同時にそれは才能や能力の低層化でもあったのである。最大公約数のメディアに高級化や専門化はのぞみえないのである。TVは国民の多くの客層をのぞんだがゆえに、高級化や専門化を捨ててゆき、質の低下を志向するほかないのである。

 阿久悠はTVが国民であった幸福な時代に生きた作詞家であったのだろうし、同時にマーケットを広げたがゆえにTVが国民であった時代の幕引きを引いたといえるだろう。力道山のプロレスや王のホームラン、国民的ヒットといったTVが国民を結集し、一体化する時代から、国民がばらばらになり、もはやTVで一体化したり、国民的ヒット曲が生まれるという時代は去ってしまった。『スター誕生』はその国民の時代の終わりを宿命的に幕を引いてしまったといえるだろう。


阿久悠周辺の著作
夢を食った男たち―「スター誕生」と歌謡曲黄金の70年代 (文春文庫 あ 8-5)歌謡曲の時代―歌もよう人もよう (新潮文庫 あ 57-1)阿久悠のいた時代―戦後歌謡曲史
生きっぱなしの記 (日経ビジネス人文庫 オレンジ あ 1-1 私の履歴書)

日本人の勤勉とはなんだったのか



 「日本人「勤勉続くと思わない」61%」という記事が読売新聞を飾った。いっぽう、「一生懸命に働くことは美徳だ」という考え方への賛否を聞いたところ、「そう思う」が71%を占め」たということであり、どうも「ワタシたちと違う人たちが日本人の勤勉を崩す」と考えているようだ。「違う人」というのは、企業の労働コスト削減に利用される非正規やニートの人たちであろうが、あいかわらずかれらを「自発的怠慢者」と読みとる人が多いのだろう。

 2008年の労働経済白書をみると、「仕事の満足度」はもともと各項目が80年代から30%と驚くほど低かったのだが、2005年度には軒並み10%代に落ちている。(「第2-(1)-2図 仕事の満足度」5ページ目」

 さらには非正規化や成果賃金で労働意欲や働く気すらなくしている。(「第三節 働く人の意識と社会の課題

 そもそもなぜ勤勉は褒め称えられるのか。よい製品や品質のいいサービスを提供できるからだろうし、勤勉は日本の繁栄やGDPの上位を占められるからだということになるだろう。しかしこのような評価というのは、品質やサービスは顧客ではなく、会社内に向けられることが多くなったし、「お国自慢」や「お国のメンツ」でしかないわけで、庶民や労働者はそういうモチベーションでいつまでも勤勉な仕事をつづけられることはない。

 かつては庶民に自動車や家電、マイホームなどの夢があったりしたのだろうが、それらも充足してしまえば、目標や目的がなくなってしまう。「なにをめざして働くのか」「なんのために勤勉に働くのか」といういちばん根本的な疑問が問題になる。いちばん基本的な目標や目的が溶解してしまったのである。目標や目的がなくなってしまったのに、豊かになるためのハードワークのシステムだけが残ってしまい、われわれを拘束し、ムチ打つ。労働の勤勉観も意欲も満足度も、軒並み落ちるしかないのである。

 勤勉に働く意味がなくなってしまったのである。労働意欲を維持する土台がなくなってしまったのである。どうやって勤勉や意欲を維持するというのだろうか。ほしいモノがなくなり、豊かな生活や安定した保障を得るためだけに、経済を繁栄させ、仕事を創造し、継続しなければならない。いちばん重要な骨組みや土台がなくなったところに、経済の循環や繁栄を求めたところで不可能というものである。

 もう日本人には勤勉も意欲も満足も労働から得られないのである。それなら日本人のホンネのところで生きるべきではないだろうか。もうハードワークの仕組みやシステムを解体すべきなのである。このシステムは成長や発展という目的があるばあいには有効に働くのだが、目的がなくなってしまえば、拷問や拘束装置にしかならない。この装置を解体して外すべきなのである。日本人が幸せになるのはこれしかないだろう。日本人をハードで長時間の労働から解き放ってやるのである。目的なき「漂流ニッポン人」にはそれがふさわしいのだろう。

 ヨーロッパのようにバカンスが一ヶ月や二ヶ月とれるようになるのが好ましい。労働や会社だけの人生に日本人はすっかり疲弊し切っているのだが、日本人には「働かないで暮らす」、「働かない期間を楽しむ」という発想を思いつきもしない。それが日本人の人生の貧困さや、つまらなさ、窮屈さを生み出しているのだが、むやみな勤勉観や労働美徳説なんかがまかりとおっているため、人生を壊滅させる。

 労働の満足度が10%台というこれほど労働に満足を感じないお国柄なのに、どうして日本人は労働と会社に人生を多く縛られるシステムをつづけているのだろうか。企業社会がまことに強健な権力で日本人の人生と時間の大半を強奪しているのである。この労働強制キャンプのようなしくみは高度成長の目標や夢があった時代には合理的であったのだろうが、それがなくなり、仕事の満足が得られない時代になれば、強制労働収容所になって人生の強奪と剥奪になる。

 そもそも日本人の勤勉とはなんなのだろうか。日本の生産性は輸出市場に進出するような一部の製造業をのぞき、生産性はけっして高いとはいえない。大半の人は生産性でないところに勤勉を見出す。その勤勉というのは、長時間会社に残って残業をしたり、あるいは会社の仲間とつるんでゴルフに行ったり居酒屋にいったりすることではないのか。すなわち「共同体」の拘束や束縛に勤勉であるということであり、仕事や労働に対してではない。勤勉というのはつまり仲間意識の醸成に勤勉ということなのである。あるいは仲間との協調や一体感である。日本人にとって勤勉とは仕事仲間の規律を乱さないということではないのだろうか。生産性に向けてのものではない。

 そのような共同体意識の強い日本企業にアウトソーシングや非正規雇用の流れがやってきた。つまりは共同体意識の破壊であり、否定である。概してこれまでの中高年や正社員はフリーターや非正規を働かない、怠け者だと認識しているようだ。だから正社員になれないと考える。共同体への勤勉が断ち切られ、ますます働く意欲や気力をなくす。共同体があったからこそ働く意欲を駆り立てられていたのだが、その絆が断ち切られれば、日本人の勤勉観はかんたんに失墜する。能力主義によって給料も落とされる。漂流ニッポン人は内部崩壊や精神の空洞化がますます進む一方である。日本人の勤勉観をかろうじて支えているものは、年金や健康保険、あるいはマイホームやマイカーの借金の「支払い」のみなのかもしれない。これでは景気が回らないので未来は先細りするばかりである。

 日本人はもう勤勉でもないし、仕事の満足もちっとも感じていないし、労働意欲や働く気をすっかり失っている。ほしいモノもないし、したいこともないし、海外旅行に行きたいとかクルマがほしいという若者もすっかり減ったし、出世したり金持ちになりたいというモチベーションもないし、なんらかのほかの目標や野望が大きいというわけでもない。すっかり失われた=ロスト・ジェネレーションなのである。今日の若い世代があらわしている特徴、ニートやひきこもり、フリーターというのは明日の日本人の姿でもあるのだろう。目標や夢がないのにどうして労働だけ勤勉でがむしゃらに働けるというのだろうか。すっかり無欲に貧困に生きるしかないではないか。

 もう日本人は坂を落ちているのではなくて、すっかり坂を下りてしまったのだろう。そしてなんの目標も夢もない。ただ坂をのぼっている最中の馬力状態を、そのゆるゆる精神で乗り切っているだけである。骨のないクラゲのようなものだ。

 もう上る坂はないのである。そして勤勉も仕事の満足も意欲もない。そういう精神モードにあった形に社会に労働システムを変えてゆくしかないのである。フリーターやニートに合ったような形に社会を変えてゆくのがいちばんびったりした未来社会なのかもしれない。日本人の今日の精神モードにはそのような形態しか合わないのである。日本の近代化はおおよそ130年つづいたが、それは終わってしまったのである。あとは江戸時代やひと昔前のアジアのように貧しい、怠けた社会に戻ってゆくしかないのだろう。それが時代の趨勢というものである。


参考URL、本 第6回 日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART1〜 反社会学講座
 第7回 続・日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART2〜
 日本人の勤勉神話ができるまで  加藤哲郎

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)勤勉の哲学 (NON SELECT)日本資本主義の精神 (山本七平ライブラリー)

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