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04 12
2021

神秘思想探究

進化心理学からの解放――『なぜ今、仏教なのか』 ロバート・ライト

   

 ハヤカワ・ノンフィクション文庫に入ったから注目した本。ロバート・ライトは進化心理学のジャーナリストであって、そういった視点から仏教を独自に解釈している。

 ロバート・ライトは『モラル・アニマル』という進化心理学の本が翻訳されており、この本を書いたあとに人間の錯覚、およびその解放を考えるようになり、それが西洋仏教ではないかと思いはじめたということだ。

 進化心理学によって人間がかなり妄想にまどわされていることがわかり、その解放としての仏教を学ぶほど信憑性が増したといっている。錯覚や知覚のゆがみ、欲望の本性に人間は釘づけられているが、仏教はその解放になる、著者の立場はそんなところだ。

 仏教というのはその見方において千差万別だ。人によっては宗教の後進性や迷信といった非科学的なものと見なしている人もいるだろうし、流行のマインドフルネスが医学的・科学的に証明されているならためしてみようかと、その関わり方もかなり違うものだと思う。それがテコでも動かないほど頑迷になっている。著者は進化心理学という旗で、仏教の効用や効果の援軍を買って出ている。

 私の印象としてはこの本は、冗長すぎる。禅であったなら言葉をもっと捨てさせるだろうし、言語は妄想やいらぬ虚言をつくりだすものである。その当の排除すべきものに果てしなく巻かれることは、矛盾のかたまりではないだろうか。言葉を無益に思うようになったら、思索の効用などに頼らなくなると思うのだが、著者の思索スタイルは果てしなく逡巡である。

 さいしょの瞑想体験にいろんな知見があったからとその体験をなんどもふり返るのだが、二十年は断続的に瞑想している私にとっては、ファーストラックにそんな重要性があるのかと思うが。

 思索に逡巡しまくっている本書であるが、その洞察や知見は深みや高みには達していると思う。

「自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるという矛盾だ」



 私たちは自分がCEOや王のように、自分の身体や感情を全コントロールできると思っている。仏教ではそんなものはいない、無我であると説き、それが逆説的に私たちにコントロールの主体を与えるようになるのである。コントロールできる主がいると思うと、できない。そんな主がいないとわかると、ぎゃくにコントロールできるようになる。

 コントロールする主がいると思うことは、二重にコントロールの主体を設定して、エネルギーを衝突させてしまうからである。とくに緊張とか感情、恐怖にこれはよくあてはまる。その苦しみから無我や非実体の世界への洞察が開けてくるわけである。

「「フットボールのフィールドや、ほかの社会的場面での『ことがら』は、それになんらかの重要性があたえられてはじめて、経験される『できごと』になる」

…どうやら、いったん重要性が割りあてられるまで世界はある意味で形がない、つまり無色らしい。しかし、いったん重要性が割りあてられれば、そこには形があり、本性がある」



 私たちは、自分にとって重要な世界を「創造」している。それまでは無色である。それは意識の焦点であったり、言語が創造するわけである。それまでは、「世界がない」。私たちは記憶なり、回想なり、思いだして語ることによって、その世界を創る。私たちはこの「創られた世界」にあまりにも無頓着、あるいは無自覚すぎるのである。

「どちらの場面も、知覚するためにははなれた場所から私の頭まで情報が伝達される必要がある。私の足のしびれの情報を伝達し、鳥がさえずりの情報を伝達する。何がちがうというのだろう。

自分の皮膚は本当に意味のある境界なのか、内側にあるものがすべて自分以外のものと考えるのは本当に筋がとおっているのか、ということだ」

「もし自分が無になれば、もし自分が消えれば、あらゆるものになりえます。しかし、無にならないかぎり、あらゆるものになれません。これは論理的に導かれる事実です」



 自分の内と外の問題はむずかしい。身体が私だと思うと、身体の外はすべて私ではないが、音は私の内外に関係なく通過する。まるで身体の境界などないようだ。頭の中の自我を私だと思うようになると、身体はそうではないのか、頭の中のどこに私などいるのだろうかという問題になる。私が無であったなら、身体が透過されるものであったのなら、外界は破れ、私や身体は外界、あるいは内界になって、世界そのもの、あらゆるものになる。この境界の線を消しゴムで消したとしても、固い思い込みはなかなか頑迷に離れないものであるし。

 こういった洞察の本は、たとえ認識をがつんとやってくれても、自分の思いこみ、慣習までをも変えてくれるわけではない。指示や命令、あるいはくりかえし暗示することによって、それまでの慣習的な思い込みや行動パターンをようやく変えることができる。だからいくらこのような洞察の本も読んでも変わらない。実践・指示の本をくりかえし叩きこまないと、効用は現れない。

 瞑想や仏教を学ぶことによって、進化心理学が説くような進化の奴隷や慣習から解き放たれたいか、それとも仏教のような古い宗教的なものになにも学ぶことはないと思うか。仏教は人によってはあまりにも違う貌を見せるようである。





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04 11
2021

神秘思想探究

シェリングは神秘思想家か――『知と無知―ヘーゲル、シェリング、西田 (叢書シェリング入門 (3))』 松山 壽一

   

 私は神秘思想を探究している者だが、まさか西洋哲学にその探究をしている者がいるとは思わなかった。汎神論とよばれるそれは、スピノザ、シェリング、ゲーテ、ヘーゲルに認められるという。

 この本はシェリングがどのような神秘思想を語っていたのか入門書のつもりで読んだが、入門書と銘打たれているのは研究者にとっての入門書のようである。神秘思想からとりだしたシェリングの入門書などそうそうあるものではない。

 シェリングは『人間的自由の本質』などの主著名だけは知っていたが、J.S.ミルのような社会論的な自由論でも描かれていると思っていた。どうもシェリングの自由とは、絶対者と同一することが「永遠の自由」であるといっていたようである。それこそが、学問の始まりだといっていたのである。

 その絶対者は、無制約者、絶対的活動、絶対的理性、『自由論』では生、原存在者・原生命、絶対的主体といろいろ呼び名が変わっていたようである。まさしくウパニシャッドで説かれるような見えるものでも、かたちあるものでも、認識できるものでもないというブラフマンを表現するのに近いものである。

 シェリングは中世の神秘家ヤーコブ・ベーメに学ぶことが多く、エックハルトは視野に入ってないようだった。この本でともに論じられている西田幾多郎は禅者や仏教のイメージが強いのだが、共感を寄せていたのは古代ギリシャ哲学でもなく、中世神秘哲学――ディオニュシウスやエリウゲナだったとされる。流出説ではなく、創造説に傾いていたといわれる。

 シェリングや西田幾多郎が語った哲学用語は、私にはとっつきにくいものであって、日常用語で語られた神秘思想を読んできた私にとっては、なかなかの障壁である。これが神秘思想と同じものを語っているのかというほど距離を感じるのだが、いくらか分け入れられたならなと思う。

 神秘思想というのはオカルトや非合理の極みのイメージがあるのだが、西洋哲学者にとりあげられたそれは、オカルト・イメージをまったく払拭されているというか、宗教的な装飾さえまったく感じさせない。高尚な学問のイメージがあるのだが、論じられているそれは、怪しい内容そのものである。ふしぎなものである。

 この本によってシェリングがかなり神秘思想を語っていたことがわかって、その著作に安心して当たれそうだという感触を得た。

 神秘思想を探究していても、西洋哲学の中に神秘思想的な世界観が混じっていることを、なかなか外からは知りようがなかった。エックハルト、ヤーコブ・ベーメは神秘思想家として知りえる。シェリング、ヘーゲル、スピノザにそれが語られているとは、洩れてこない。いやプラトンやプロティノスといった新プラトン主義こそが神秘思想だったというのは、西洋哲学の非宗教性を誤って自覚していたというほうが近いのか。

 シェリングはいった。

「われわれがそれ(永遠なる自由)を見るのではなく、それ自身が自己をわれわれを通して見るのである」



 禅や西田幾多郎がいいそうな言葉と著者は語っているが、スピリチュアルな言葉でもある。

 なおこれらは第二章「自由と脱自 ヘーゲル、シェリング、西田」に語られており、第一章「常識と懐疑」は目的外の内容だった。





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04 02
2021

神秘思想探究

汎神論と神秘思想――『神 スピノザをめぐる対話』 ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー

   

 スピノザは無神論者として世間から無視されていたのだが、その後、無神論者ではなく汎神論者ではないのかといった「汎神論論争」がおこった。ヘルダーのこの書は、そのときのスピノザの名誉回復の本である。

 汎神論というのはこの世界は神であり、神は全にして一であり、神の実体だけがあるという立場である。スピノザは「神即自然」という立場をとった。

 近代の合理哲学者としてのスピノザが同時にこのような汎神論をとなえていたというのは、日本人にはとうてい理解できがたい矛盾に思えるのだが、スピノザは人間の行動や思考はそういった世界の基盤――つまり神のことを考えずに人間の行動や思考の決定はできないと、重要視していたようである。

 世界の神秘思想を探究している私としては、この西洋哲学の中に汎神論とよばれる流れがあったことを探究せずにはいられない。だが実践面においてはほぼ益をもたらさないと目されるが、東洋宗教の独壇場と思われているそれが、西洋哲学にもあったことの表明は、神秘思想への貢献にもなるだろう。

 それにしてもこの汎神論という名称において、神秘思想との連関はちっとも言及されず、西洋にもキリスト教神秘主義や新プラトン主義のような流れもあったのに、汎神論はそれらからまったく切り離されているのはどういうことだろう? 私には汎神論の「一者」「一なるもの」は、インドのブラフマンとまったく同一のものに思えるのだが、汎神論は神秘主義への言及がほぼないのである。

 スピノザは現代思想家から再評価されて、こんにちでは多くの研究書が出る活況を呈しているのだが、おそらくはこの汎神論界隈からの評価ではないだろう。私も『エチカ』を読んだときには感情論がいちばん印象に残ったが、前半に神について言及されている部分はほぼ無視して読んだ記憶がある。スピノザの神は、現代思想にとって重要視されている問題には思えないのだが。

 スピノザは『知性改善論』の中でこういっている。

「それはつまり、心が自然の全体と一体になっているという認識である。
したがって、私が努力している目的は、こうした本性に到達することであり、多くの人が私とともにそこに到達するようにということである。つまり、私が洞察したものをほかの多くの人も洞察し、彼らの知性と欲望が私のそれとしっかり一致するよう努力することも、私の幸福の一部なのである」



 スピノザは神秘主義的な悟りを目的にするといってるのだが、これはプラトンも同じことをいっていたのだが、当時の世界にはスピノザは汎神論者であり、無神論者であるという矛盾した断罪をうけた。世界の外部にあり、世界を創造した人格神が信仰されるキリスト教西洋においては、世界自体が神であるという理論は、神の信仰に値しないと断罪されたのだろう。

 スピノザは創造の神の意図を否定したといわれるし、神には知性も意志もないことを決然と語ったといわれる。これによってキリスト教界隈からの過激このうえない敵を呼びこんだといわれる。スピノザの神は、世界をつらぬく力の活動の根源となる力そのものであると、本書でいわれたりする。だからスピノザの神は世界に内在し、世界と同一ではなく、汎神論者ではないという論も見られる。

 スピノザは「すべての事物は様態である」といった。「すべての事物は神的な力の能動的な表現であり、世界に内属する永遠の神的活動の具現なのである」といった。だから汎神論の罪を着せるのは不当だという主張が本書には見られる。

 私はスピノザの「一なるもの」「一者」がどのようなものか知りたい者である。スピノザを汎神論からも、無神論からも救い出す意図をもった書を読みたいのでもない。予想していたことだが、本書から神秘思想の果実を得られたわけではない。西洋哲学が神秘思想にかすると、どういう表現があらわれるのか、本書で垣間見た程度かもしれない。

 なお本書では、第一版と第二版が並列して載せられているが、比較は私には重要ではないので、第二版だけを読んだ。





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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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