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09 19
2014

右傾化再考

「日本人論」のスタンダードとなるべき本――『「日本人論」再考』 船曳 建夫

4062919907「日本人論」再考 (講談社学術文庫)
船曳 建夫
講談社 2010-04-12

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 「日本人論」のスタンダードとなってゆくべき本なんだろうね。

 「日本人」自体を論じた本ではなくて、その「論」自体を論じた本は、青木保『日本文化論の変容』や大久保喬樹 『「日本文化論」の系譜』、杉本 良夫・ロス・マオア『日本人論の方程式』という系譜があるが、これほどまでに日本人論が書かれた理由を探った本をほかに見ない(未読と忘却もある)。

「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー (中公文庫)日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)


 「日本人」だけを論じていると頭を穴につっこんだ状態になるが、その姿から距離をおいて「なぜそう考えるのか?」という知識社会学的なメタ視点は、優越感や劣等感だけにおぼれない客観性をやしなう。日本人論にはその距離をおいた冷静な視点が必要だ。

 日本人論はなぜ書かれるのかという問題意識はしばらく忘れていたのだが、さっこんの嫌韓嫌中本、自画礼賛本の氾濫から、ふたたびこんにちの日本人論はこれまでの系譜にどう位置づけられるのかという興味をもたらした。かなり下劣な風景がひろがっているこんにちの日本人論は、なにを意味するのだろう。この本は2003年に出された。

 著者の船曳健夫は日本人論が書かれ、読まれるのは不安だからということだ。うまくいっている頂点、うまくいっていない谷の時期に要請される。

「「日本人論」とは、近代の中に生きる日本人のアイデンティティの不安を、日本人とは何かを説明することで取り除こうとする性質を持つ。不安を持つのは、日本が近代の中で、特殊な歴史的存在であること、すなわち、「近代」を生み出した西洋の地域的歴史に属さない社会であった、ということに由来する。

…その競争、レースにそもそも日本は参加資格があるのか、という疑いから来るものなのである。日本が「近代」の正統な走者ではないという疑い。西洋「近代」の外部のものとして、その近代を受け入れることが可能か、正統か、または「正しい」ことなのか…。

そしてその成功のあと下落すると、そのときのやっぱり、というアイデンティティの不安はいっそう方向性のない、自己喪失を感じさせるものとなる」



 わたしはたんに優越感や礼賛を感じたいから書かれ・読まれるものとたんじゅんに揶揄の気持ちをもっていたが、西洋の参加資格という不安だとは思いいたらなかった。

 近代の日本人論の古典をそれぞれ検討してゆく章に入ってゆくのだが、日清・日露戦争の高揚期の古典にあげた本と著者たちの共通点には、なるほどと思った。

 この明治の「坂の上の雲」をめざした時期の古典にあげられるのは、志賀重昂『日本風景論』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』である。このうち三人は札幌農学校に学ぶのだが、とうじは学士があたえられる機関は全国で東大と二校しかなく、一期に20名もいなかった文字通りエリート養成校だった。

日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)代表的日本人 (岩波文庫)武士道 (岩波文庫)英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)


 欧米の評価が低いがゆえの不安にたいし、『日本風景論』と『代表的日本人』は書かれ、評価が高いがゆえの不安に『武士道』と『茶の本』は書かれたとされる。その後、評価は変わる。

 著者は大正時代はアイデンティティの不安が比較的少なかった、近代化が順調にレールを走っていたから、日本人論が必要とされなかった時期だといっているのだが、おおいに疑問である。橋川文三はこの時期は、「国家衰亡の危機」「国難」と支配層に認識されていた時期だといっている。格差と共産主義運動、右翼活動が拮抗していた時期であり、昭和初期の危険な時期を導いたのはこの時代にほかならない。再検討が必要なのではないか。

 昭和5年から敗戦までの古典に選んだ本がまたちょっと疑問が残る本である。九鬼周造『「いき」の構造』、和辻哲郎『風土』、横光利一『旅愁』、河上徹太郎ほか『近代の超克』をあげているのだが、これらはそもそも日本人論とさえ呼べないのではないか。

「いき」の構造風土―人間学的考察 (岩波文庫)旅愁近代の超克 (冨山房百科文庫 23)


 第五章の司馬遼太郎と夏目漱石を論じた章はわたしの問題意識と重なるのでしごく興味深かった。

 司馬遼太郎は日露戦争以後を「鬼胎の40年」とよんで、そのような時代を招来したものはなにかと追究したのだが、わたしはこれを二十年前に稲村博という精神科医から知ったのであるが、司馬遼太郎からいいだしたメジャーなものとは知らなかった。この「鬼胎の40年」の精神史をうきぼりにすることが目下のわたしの興味だが、読者の方々にはほぼ興味がないような傾向も強い。

 司馬は86年から『この国のかたち』というエッセイをはじめるのだが、日露戦争から敗戦までの「鬼胎の40年」を昭和や平成に再現される危機を感じていたのではないかと著者はいい、日本全体がその40年後に全崩壊するのではないかという恐れをもっていたとされる。漱石は国家からドロップアウトした青年を好んでとりあげて、それがいまも好まれる「国民文学」になるのだから、どうもこの周辺の問題がまだ解消されていないようである。

 著者は大崩壊は戦争か、国債の暴落による経済崩壊だと読んでいるのだが、わたしもいぜんは経済崩壊の危機しかないと思っていたのだが、さっこんの右傾化の勃興によってどうもそのシナリオが違うようになるのではないかと危機感を新たにしている。

 のちの章はいまいち「日本人論」論というより「日本人論」に近いものになっていて、ちょっと減速かな。

 著者は司馬問題の「鬼胎の40年」をつくりだしたものはなにかと答える際にその担ったかれらはどのような人物であったかに答えはあるという。この世代は明治の親世代からアジアにたいしては優位で、欧米にたいしては引け目や劣等感をもたない誇りある自信をもつように育てられた人物たちであった。司馬のいう「健康な明治」から生まれるべくして生まれた人たちであったという。そのような自信にあふれた者たちが日本を崩壊に導くのである。

 また平成の若者たちも昭和の世代がのぞんで育てた理想ではなかったのかという。戦後の夢の体現者である。かれらは昭和初期のように転落と崩壊の道にひきずりこむのだろうか。

 著者はこれから日本人論を必要としない時代がやってくると予想している。これまでのような不安を感じない世代を生み出しているからという。だけれど、排外主義や日本礼賛、右傾化という2014年の状況を見ているととてもそうはいえないと思う。日本人の危機ではないのか。戦後の危機か、近代150年の危機かはわからないが、アイデンティティの破損と復興が噴出する不気味な時期をむかえている。


昭和維新試論 (講談社学術文庫)この国のかたち〈1〉 (文春文庫)イデオロギーとしての日本文化論日本人という自画像―イデオロギーとしての「日本」再考敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人


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09 15
2014

右傾化再考

モノから心の豊かさの戦前の陥穽――『日本の文化ナショナリズム』 鈴木 貞美

458285303X日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)
鈴木 貞美
平凡社 2005-12

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 文化といういちばんやわらかい部分にナショナリズムは無自覚に入りこむものだと思う。物語であったり、なにに価値をおくかという心情を、ナショナリズムに鼓舞された言動やメディアによって、われわれの価値観・心情はかたちづくられる。文化ナショナリズムは、無自覚なナショナリズムといってもいいと思う。

 この本はおもに「伝統の発明」論によって日本の文化ナショナリズムを探ってゆく各章と、第四章の「帝国の思想」の歴史記述にきっぱり分かれる本である。

 不整合を感じないわけでもないが、第四章は戦争や超国家主義にいたるまでの精神史を追うわたしにとってはひじょうに興味をひかれたし、百科全書的・教科書的な記述は、わたしがもっとも必要としたものだ。こういう本がひじょうに少ないんだよな。

 「伝統の発明」論は、伝統はおおむかしからつづいていたわけではなくて、近代の民族の独自性を問われたときに、あらためて風俗や習慣がつくられるということが多いことを指摘したカルチュアル・スタディーズの研究からあからさまにされてきた。伝統というのはたいがいは近現代のナショナリズムの要請から、「発明」「創造」されたものである。

 わたしは超国家主義になった精神史を追っているから、とりわけ第四章の「帝国に思想」はむさぼり読んだのだが、トピックが多すぎるので、覚え切れないほどだ。

 気になるひとつに、1918年(大正7年)ころから物質的な豊かさより精神的な豊かさを求める「文化主義」がおこったことであり、そのことによって「文化鍋」や「文化包丁」、「文化住宅」が売り出されることになる。物質の西洋と精神の東洋という対比もしきりにおこなわれて、そのために戦時中の失敗によく指摘される客観性をうしなった「精神主義」が横行したのではないか。

 現代でもバブル前後あたりから「モノの豊かさより心の豊かさ」はしきりに唱えられて、わたしもその精神動向の中で生きてきてそれが正義とは思ってきたのだが、戦前の失敗の萌芽にこの思想があったことを見逃すわけにはゆかない。「文化主義」や「精神主義」は客観性や現実性をうしなわせるのである。

 物質主義は個人主義で功利主義だから、もっと全体のこと、他者のことを考えろという説教になり、国家や公共に尽くせというかけ声に変わってゆく。国家のための死ねという思想はすぐそこまできている。

 1904年に生物学者のヘッケルの『生命の不可思議』がよく読まれるのだが、そのころ万物の根源に「生命」をすえる思想がおこっていた。どうもこの思想に国家や皇国に生命をみとめるその後の思想のきっかけになったと思われ、著者・鈴木貞夫は、『生命で読む日本近代』(NHKブックス)という本も書いており、気になるところだ。

 神がかった国家観や皇国観を生みだした思想家に筧克彦や紀平正美という人がいるらしいのだが、こんにちでは名前を聞くことはほぼないし、悪人と称号されているわけでもない。近代デジタル・ライブラリーで読むことができるのだが、かれらの言葉に過ちや論理的矛盾を見いだせるだろうか。


 昭和のはじめに超国家主義やファシズムになった精神史をうきぼりにすることがいまのわたしのテーマである。その点でいえば、この本は満点に近い百科事典的な教科書みたいである。項目が多すぎて摂取できないくらいだ。

 著者のこの本がよく読まれているようには見えないのだが、げんざいの排外主義、ネトウヨ化、政府の右傾化という流れはまさしく戦前に起こったことの二重写しのように思え、いまこそ戦前の過ちに陥らない道を探るべきだと思うのだが、近代精神の再検討がおこなわれているという声は聞かない。

 転落してしまったナショナリズム、国の誇りをとり戻せという声や動向をあちこちに感じるのだが、現代の人は歴史の過ちに学ぶことなく同じ道におちいってしまうのだろうか。戦前がどんな時代であり、精神史をたどったかということがまったく断絶された戦後を生きてきたのがわれわれだからね。


「生命」で読む日本近代―大正生命主義の誕生と展開 (NHKブックス)生命の不可思議 (上巻) (岩波文庫)国家神道 (岩波新書)創られた伝統 (文化人類学叢書)


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09 11
2014

レイライン・死と再生

性の解放はなんのために?――『愛欲三千年史』 中山太郎

             

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 『愛欲三千年史』 中山太郎
 昭和10年・1935年刊
 近代デジタル・ライブラリー


 こんにちでは手に入らないこの本を近代デジタル・ライブラリーでダウンロードまでして読みたかったのは、大和岩雄の『遊女と天皇』に多くの箇所が引用されていたから。すなわち引用されている部分は、むかしの日本の性的解放と放縦の民俗的資料。

 なぜそのような部分を読みたいかというと、そのような性的放縦が豊穣祈願とむかしの世界観にかかわってくる重要な部分だから。農作物の豊作と人間の性は平行して考えられていて、人間の性行動の旺盛さは豊作につながると考えられていたからだ。

 つまりのりうつった神相手に性の饗宴をおこなうのであり、もしくは神の性欲を刺激して性行動を旺盛にさせ、農作物の稔りを増やすとむかしの人は考えていたわけだ。秋の実り、宇宙の事象は、そのような神の性行動によって生まれるとされていた。ゆえに人間の性行動も旺盛でなければならない。このような関係の確認には、中山太郎の赤裸々な性民俗資料が欠かせない。

 中山太郎も以下の箇所ではっきりとそのことをいっている。字がつぶれて読みにくくて申しわけないが、近デジ自体、だいぶ文字がつぶれているので仕方がない。国会図書館での心ない人によっておこなわれたこの本の傍線引きも文字をおおっていて、読みにくくて極まりなかったのだが。

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 「即ち古代の民族は宇宙間のあらゆる事象を××(性交か?)の結果であると信じていたのである。換言すれば天を父とし地を母とし、此の天父地母の××によって萬物が生まれるのであると考えたことである」

 このことによってむかしの日本で性的解放や性的豊穣がおこなわれた理論的根拠をうることができるだろう。ただ堕落や快楽のためにおこなわれたのではなくて、世界観や祈願だったのである。性的放縦が豊作や豊穣をもたらしてくれる、それらはその結果によるものだから、という世界観をもっていた。性的放縦の反対は、不作や飢餓、冬、死であったのである。

 明治以降はこのような日本の土着的な風俗は、西洋化にともなって政府や警察の度重なる取締りをうけ、都市生活への流入や分断をへて、かつての日本のような性風俗・世界観も断絶するにいたった。

 こんにちではまったくそのような性風俗をおこなった理由・世界観を知ることもなくなった。

 わたしは古代にあったと思われる太陽の日の出と日没、寺社仏閣をむすぶとされるレイラインという世界観をさぐるうえで、この世界観に出会うことになった。導き手は井本英一や大和岩雄である。

 太陽の日の出と日没、あるいは春夏、秋冬の対立は、生と死であり、再生への祈りである。その関係をむすびつけるのは、大地に神の性をみる世界観であり、その世界観は人間の性関係も象ることになっていたのである。わたしたちはこの古代から明治や大正、昭和のはじめまで残っていたかもしれない世界観をすっかり忘れてしまっているのである。


 たとえばつぎの「性的祭礼考」の章では、祭りのあとの性的放縦の事例が全国からたくさん集められている。この茨城県北相馬郡の例では、女の身体が丈夫になる、良縁に会うことができるといった世俗的な理由によってだれかれともなく肌をゆるすとなっている。この事例を豊穣祈願の世界観とそれを知らないとでは、だいぶ意味が異なるだろう。

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 つぎの「嫁盗考」では日本にもむかしあった嫁盗の習俗が、各地から集められている。この章では「神の嫁」であったがゆえに「盗んで」こなければならなかったという解釈を、中山はあまり語らないのだが、初夜権を神に捧げた名残りと同じようなものがふくまれているのだろう。

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 つぎの箇所では、娘は村の所有物であり、十五になれば村の若者に捧げるべきであり、拒めば親の監禁と非難が待っていたということである。中山は神の介在をあまりあげていないのだが、かつては神への捧げもの・おもてなしといった儀礼の名残りであったかもしれない。

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 500ページの大部であり、奴隷や人身売買といったかつて日本にあった暗部をとりあげたり、愛欲や「変態」といった字句もよく使うように下世話な話もとうぜん多く出てくる書物である。わたしは神や豊穣祈願のかかわりとして読みたいので、それと関係のない大部分は、いささかへきえきとして読まなければならなかった。「エロ・グロ・ナンセンス」といった要素も多くふくみ、正当な学問としての民俗学は、この部分はあまり公にしたくなかったといえるかもしれないね。

 中山太郎は『売笑三千年史』がちくま学芸文庫から文庫化されたが、この『愛欲三千年史』がふたたび日の目を見ることはあるのでしょうか。

 赤松啓介の『夜這いの民俗学・性愛論』に衝撃をうけた方は、この本に進むべきなんだろうね。赤松啓介は世俗化した性風俗しか捉えていなかったが、この性風俗にはかつて「聖なる世界観・神々と交合をおこなうコスモロジー」があったということを覚えておいてほしいね。


売笑三千年史 (ちくま学芸文庫)遊女と天皇(新装版)夜這いの民俗学・夜這いの性愛論名著絵題 性風俗の日本史 (河出文庫)

盆踊り 乱交の民俗学豊穣と不死の神話蛇 (講談社学術文庫)性の民俗誌 (講談社学術文庫)


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日本ナショナリズム論―愛国心にたいする羞恥を (1968年) 太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫) 日本人とは何か (講談社学術文庫) 昭和の精神史 (講談社学術文庫 (696))
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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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