『大人の心に効く童話セラピー』 アラン・B・チネン
大人の心に効く童話セラピー―お姫さまと王子さまが中年になっても幸せでいるために (ハヤカワ文庫 NF 337)
アラン・B・チネン

40歳をこえて人生のサイクルがひとめぐりしたのを感じて、「私はなにも得ていない」という落ち込みを経験した。これが中年クライシスというのかと慄然とした。このような落ち込みとどのように闘い、融和していったらいいのか知恵を欲した。
子ども向けと思われている童話にも中年の課題をかたった中年童話というものがあり、物語だけでは意味がわからない話がおおく、解釈をあたえてくれる本書のような本はたいへんにありがたい。深い洞察や含蓄が中年童話につまっていることにあらためて気づかされる。もう一度読み返して心に刻みたいよい本である。
中年の課題でいちばん気にかかったのは魔法の喪失や若々しい理想との決別といったものだろう。おとぎ話では主人公は敵や悪と闘い、数々の冒険をくりひろげる。自分は強く、ただしく、おおくのことをなしとげる、たくさんのものを得られるという根拠のない希望や夢をいだいているものだ。しかし中年になると数多くの現実の壁につきあたり、おおくのものも得られないし、自分がちっぽけな存在にしかすぎなかったという衝撃の事実と出会わなければならなくなる。
魔法というのはこのような根拠のない自信や希望のようなもので、それをもっているために青年や若者は世に出ていけるのだし、不安や自信のなさものりこえていける。若者は根拠のない自信や誇大な自己をもっていると非難する本を読んだことがあるが、誇大な自己をもっているからこそ若者は社会に出て、わたってゆくことができるという心の防備や機能にあらためて気づかされる。
それが他人の侮蔑や衝突をひきおこせば問題になるが、この防備があるからこそ若者は夢や希望をうしなわずに生きていけるのだ。社会や他人、親に対する怒りも無力な若者を支える心の柱となる機能をそなえているということが中年童話からわかるのである。魔法をうしなうということは現実とむきあい、青年の夢や希望をなくしてゆくということだが、成熟するというのはこの喪失とどうむきあってゆくのかという課題とのつきあい方だといえるだろう。
中年童話にはしばしば男が女の格好をし、女がおとぎ話の男の子のように冒険や悪とたたかう話が出てくる。著者はそれは子どもや若者時代に男らしさや女らしさをもとめ、自分のなかで抑圧してきたそれぞれの男性性、女性性のとりもどしをうたっているのだと解釈している。中年では一方の性の特性を追求してきた欠落面をおぎなうことが課題になるのである。
男は男らしく、権力や地位を追い求める生き方を奨励されるのだが、いっぽうでは女性のように親密さ、人間関係、感情をそぎ落とされるため、このとりもどしが中年ころに意識される。女も抑圧されてきた男性性、冒険や強さ、戦いといった男性的要素をとりもどす試みがおこなわれるのである。男や女というのは社会的な役割や象徴なのであって、本質ではないのである。
たとえば男は男らしさを追い求めるさい、母親やそれにまつわる依存や親密さの欲求まで拒否する。男っぽさをめざすということは女の特性と思われている属性までもすべて拒絶するということだ。このような洞察は、男の若者がなぜ硬派になったり、依存性を拒否するのかという種明かしを教えてもらった気がする。それは女らしさの拒絶なのである。
中年になるということはさまざまな若者の夢や理想、希望、または認識のありかたとどう折り合いをつけ、融和してゆくかという課題や成長をともなうということなのだろう。善や悪に対する多元的な目をつけたり、理想的な考え方から現実的な考えにおちつき、あるいは抽象的な知識から実際的で経験をへた知識にうつりかわってゆく。自分のことばかり達成しようとしていた青年は子どもを守る生殖性を発揮することがもとめられ、社会でも責任や役割をせおわされる。自分の自立や力の限界といったものにも気づき、それもうけいれていかなければならない。
この本はおとぎ話から目を醒めたとき、人はどう生きていったらいいのかという含蓄や洞察をたくさんあたえてくれる。私的にはやっぱり自分の限界や無力さとどうつきあえばいいのかということがいちばん気になる課題である。無根拠で現実的でもないおとぎ話の希望や夢は私を守ってきてくれたのだろうが、中年では限界や現実がむきだしになりはじめる。そのときにどうやって限界をうけいれ、落ち込みや攻撃から身をかわせばいいのだろうか。たいそうショックな認識であるが、過去に誇大な妄想があったのだと知ることで、ぎゃくに緩和されるかもしれない。おとぎ話が守ってくれた認識は脱皮していかなければならないということだろうか。
▼童話の解釈っていいですね。ワケのわからない童話の意味をよみといてくれますね。一時期、私もたくさん読みました。





2009年11月刊の新刊・注目本情報
2009年11月刊の新刊・注目本情報です。
はやくもことしも終わろうとしていますが、去年は9月のリーマンショック危機以来、世界的な株価大暴落がおそい、派遣切りへとつながり、世間を騒然とさせましたね。ことしは民主政権が生まれ、あたらしい脱官僚の改革がおこなわれようとしていますね。デフレが深刻になり、雇用が生まれない状況がながくつづき、日本は転げ落ちるしかない展望しか残されていません。激流の時代をどうやって生きていけばいいのでしょうか。
ここで紹介するような本は実際的で実務的な技能を身につけさせてくれるというわけではありませんが、激流の波頭にまどわされない見識や知識をやしなえるかもしれません。読書というのは時代にながされない普遍的な知識を身につけるためにおこなうものなのでしょう。



『「嫌消費」世代の研究』が注目ですね。三浦展も『マイホームレス・チャイルド』で指摘していましたが、若者の中では脱消費の流れがつよまっています。消費させる側からはたいへんな事態ですが、人間としては消費が人生のすべてみたいな生き方はカンベン願いたいですね。『群集』についての本はたくさん読んだのですが、おかげで集団や人づき合いが嫌いになって困ったものです。湯浅誠という人が注目されたのは時代ですね。



『社会学にできること』 私の興味の中心は社会学でしたが、社会学っていったいなにができるんだろうと思います。社会へ目を向けつづける態度というのは、社会への神経質な態度をつくってしまって鈍感で鈍い神経でつきあったほうがよかったのじゃないかと思わなくもありません。よけいで繊細で、内省する態度はどうもいい結果をもたらしてくれないように感じるのですが。臨床社会学ってジャンルがあるんですね。なにか社会を治療したり、改革する技術なのでしょうか。



進化論から『強い者は生き残れない』といわれれば、強者をめざすだけの価値観も反省できますね。強者がいつも勝ち、生きのびるとは限りません。勝ったことによって負けたり、自滅することもたくさんあったのでしょう。愚かなる強者と思えればいいですね。



『坂の上の雲』や竜馬などの幕末明治の時代が注目されていますが、私は歴史にあまり興味をもてなかったのですが、英雄に憧れるという気持ちが子どものころからなかったからでしょう。英雄に憧れるという気持ちはどのように涵養されるんでしょうかね。



『歴史に名を残した人たち、そのとき何歳?』という興味深い本が出ていますが、私はどんどん無為に年をとってゆく気がします。「何歳までになになにをする」という目標を立てるのがいいのかもしれませんね。



ブローデルの『歴史入門』を私は読んだのですがまるっきり記憶がないのですが、中公文庫入りするそうです。先ほど100才の大往生をとげたレヴィ=ストロースについての新書が出るそうですね。


山登りや山間ツーリングをするようになってなぜ景観に心ひかれ、癒されるのかと知りたくなりましたが、なかなかぴったりの知識がないもので、古代史とかに寄ったりしましたが、景観の魅了の謎はいまだ解けないまま知識への興味をうしなってしまいました。
この時期の野山はほんとうに美しい
紅葉といえば京都なんですが、ダダ混みが予想されるうえ、大阪からなんどか挑戦してもなぜか宇治で時間切れになってしまいます。大阪南部から京都は遠い。こんかいはバイクで茨木から山にもぐり、豊能町、亀岡をへて、なんとか京都高雄山までいきつくことができました。貴船とか大原までいきたかったのですが。
豊能町の黄葉風景に感激して、「この時期の野山はほんとうに美しい」と感動しきりでした。紅葉の名所でもなく、写真うつりもとてもいいものとはいえないのですが、色とりどりの色彩に彩られるこの紅葉の時期は野山が燃えるように美しいと思ってしまいます。あちこちの樹木がそれぞれの色をつけて、色彩がとてもにぎやかになるのが美しいのでしょうね。あらゆるところを写真に収めたくなりましたが、ふつうの人はどこともしれない紅葉の場所なんてあまり見向きもしないのでしょうね。
京都の紅葉は寺社仏閣の気品や上品さとあいまって高貴さがよりいっそうひきだされるのでしょうが、やっぱり人がうじゃうじゃの観光地は避けたいですね。私は野山の色とりどりの黄葉の美しさに感嘆するだけでじゅうぶんです。
それにしても感動したわりに写真はしょぼいですね。野山の黄葉の美しさがつたわっていない気がします。どちらかといえば、私はふだん見慣れた野山の緑一色でない風景に驚いているのかもしれません。いや、やっぱり写真が小さく凝縮されているため、柿色、黄色、ピンクなどさまざまな色にそまった樹木がつぶされてしまっているからでしょうね。また紅葉の場所や時期は見逃すことがおおく、だから宝探しのような気持ちが風景をより美しく見せているのかもしれません。

豊能町あたりの黄葉風景。まばらに黄葉していたり、緑がまだのこっているグラデーションがまたきれいなんでしょうね。あたりを見渡せば、民家や作物の樹木も紅葉していたりして、野山の色彩がとてもにぎやかになっています。

雲に陽射しをさえぎらたため暗くなっていますが、この野山の紅葉は目をひくほどきれいでした。ピンク色に彩られていたのでしょうか。名所でもない紅葉もじゅうぶんに美しいと思えます。

この野山も山全体が黄葉していましたから、思わず近くまで寄って写真に収めました。工事現場のむこうに見える低山の黄葉に感動するなんて私もチープなものですね(笑)。

むこうの山の上あたりが紅葉していました。こういうどこもが紅葉にそまっていないという景色が名もない紅葉の感激を高めるのでしょうね。

京都・高雄山の紅葉。高雄山は紅葉の名所らしく観光客がたくさんいて、私は幹線沿いにぱしゃりと写真を撮っただけでした。名所はどんな景色がひろがるのかよく知りません。苔むした家の屋根が味わいがありますね。

高雄山をすぎて北上しても北山杉の山地は緑のまま紅葉していませんでした。ぐるりと一周して帰ろうとしたら行き止まりの道に入ったらしく、パトカーに先導してもらって帰ってきました。

なんでもない場所の黄葉でしたが、ぜんたいが黄葉していてきれいでした。鴨川の上流あたりでしたが、夜にむけての冷え込みがあたたかった日中の空気を冷やして霧の蒸気を発生させていました。

このデジカメは夜景がきれいに写らなくて残念です。光が線を引いてしまいます。ここは谷崎潤一郎の『蘆刈』の舞台となった水無瀬神宮があるあたりで、対岸の山をおおった住宅地の光が目をひきます。作品の怪しい夢うつつのような世界を思い出しました。京都からの渋滞に疲れて休憩に曲がれば、碑が立っていたとは偶然です。
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黄葉をさがしに奈良山奥ツーリング
黄葉(こうよう、おうよう)という名前があるようですね。山の紅葉をバイクでさがしにいったら、どういっても黄色にそまった紅葉しかみつけられません。これは黄葉とよぶしかなく、ちゃんと種別があるのですね。紅葉といえば、赤色のイメージがぬけきらないのですが。
黄葉の山はとてもきれいだと思います。まだ緑の山色がおおいなかで、黄葉の山色をみつけたら、「おおっ」と感動しています。おおくの人にとっての紅葉は真っ赤なもみじを連想するかもしれませんが、私は見慣れた緑の山色の変化に感動しています。こんなに色とりどりになる季節はほかにありませんからね。あまりほかの人にとっては山の黄葉は鑑賞する名所ではなく、万葉集では黄葉のほうがおおかったようですが、こんにちの寺社の紅葉を鑑賞する習慣はどうして根づいたのでしょうね。
11月なかばの大阪や奈良の山はまだ緑色の樹木がおおいのですが、ばくぜんと大阪から奈良の町中を通過して、奈良の山奥の榛原や室生寺あたりをバイクでやみくもに走っていたら、さすがに奈良の山深くは寒くて黄葉がところどころ広がっていました。緑の中にピンポイントで黄葉にそまっているのがまたいいですね。
奈良の山奥をバイクで走りまわった帰りはさすがに寒さで身体がどうにかなりそうでした。そろそろ私の山中ツーリングは限界の季節になってきそうですね。来年の春までおあずけになってしまうのは残念でなりません。

榛原から室生寺にかけてやみくもに紅葉をさがして走ったのでここはどこか特定できません。緑の山色がおおいなかで、こういう黄葉にそまった山をみつけるととてもうれしくなりました。

山の黄葉はこんにち鑑賞の対象になるということはあまり聞かないのですが、緑の山色に慣れた私にはじゅうぶん美しい、感動する対象です。この季節だけの山のプレゼントに感謝です。

陰になってわかりにくいのですが、山の上の部分だけ黄葉にそまっています。こういうツーポイントの色合いもまた美しいと思います。

山あいを走っていると木々のすきまから開ける、ところどころ黄葉した山の色が見つかるのがまたいいですね。あたりは奈良の山奥の人影や人家もまばらな山中というのもまた解放感や安堵をもたらします。都市ではあじわえない贅沢な空間がここらにはひろがっています。

ここはもう三重県の名張にちかい黄葉の山でした。そろそろ山中の寒さにからだの芯まで冷え込んできました。この寒さはからだからかんたんにとれるものではないです。

黄葉の美しさは太陽の光や夕日の加減によってまるで黄金色に光り輝いてみえるときもあって、写真ではとてもとらえられるものではありませんね。光のエルドラド(黄金郷)と勘違いしそうな光景を感じるときがあります。

夕陽の加減でか赤色にそまっていた山がまたきれいでした。冬は日が五時に沈んでしまうので三重の名張からはやくひきかえさなければなりません。からだもすっかり冷え込んで、これからの山中の帰路は厳しいものになりそうです。

ことしのカマキリ。できればカマキリはまいとし出会いたいのですが(なんで?)、ことしはもう見れないと思っていたら十月なかばにお食事中のカマキリと奈良の山添村あたりで出会うことができました。ことしのカマキリたちはみんな死んでしまって、卵のカマキリが来年あたらしく生まれることになるのでしょうかね。
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『私という病』 中村うさぎ
私という病 (新潮文庫)
中村うさぎ

作家中村うさぎがなぜデリヘル譲になったかという話だが、男性諸氏が期待する風俗ルポタージュを満足させる内容ではまったくなくて、またそこまでして世間に名を売りたいのかという不審を払拭する本であり、この本はだれに読まれるべき本であるかというと、「女であること」に悩む女性たちに贈られた本である。射程は東電OL事件もふくまれている。
内省たっぷりでかなり議論がややこしく、読みがいも考えがいもある本なのだが、男の私としては理論がこんがらがって図式的な理解ができない。要はなにをいいたいのかというと、年をとって男に欲情されなくなった女がふたたび金銭という目印でわかるかたちで、男に欲情されたいということなのだろうか。女の自尊心がつき落とされて、ふたたびそのプライドをリベンジしたいという思いが作家中村うさぎを風俗譲へと駆り立てた。男はすぐに男に飢えているからだろうと短絡して考えるが、地に墜ちた女の自尊心の回復が風俗に走った根底にあるということだ。
この自尊心回復の物語は東電OLにも通じてくると推測され、エリートOLはおそらく女として生きることを抑制して生きてきたから、女の自尊心を満足させるために彼女は夜の街に立ったのだとこの本ではいわれている。
女性というのは二つの面を求められる。男に求められ、欲情される娼婦性と、家庭や仕事などで求められる淑女性というふたつの面だ。性的でなけらばならない女性と、性的であってはならない女性に分裂させられる。東電OLは性的な女性であることに嫌悪感や罪悪感を抱いて育ち、社会的成功を手に入れたが、いっぽうでは女としての「負け組」のプライドを回復するために、あるいは女の自尊心の快楽を味わうために夜の街に立ったのだと中村うさぎは分析している。男がすぐ思うように性的衝動につき動かされてではないのだと中村はいいたいようだ。
女性は性的な匂いをさせていれば男になにをされても仕方がない状況におちいる危険と隣りあわせで、中村が風俗をやったために差別や侮蔑をうけたようにならないために、女性性を隠すように育てられる。それがいきすぎると女性嫌悪や成熟した女性を避けようとする摂食障害になったりする。また女性性を払拭した生き方だけをしても、女性の自尊心も満足されないし、しぜんな性的満足もえられないだろうし、かといって淫売のように男にもてあそばれる存在になる転落とも紙一重だ。女性はそんな狭間で苦しんでいるといえる。
女性はひじょうに繊細に注意深く自分の女自意識をコントロールしなければならないのである。しかしバランスをうしない、嫌悪や羞恥にとらわれたり、役割意識にからみとられたりして、自身の女性性を疎外しがちになる。しかし心の中の眠れる姫、女性性の願望や叫びはやむことはないのである。
中村はOL時代やフリーランス時代にセクハラや仕事の代わりに一晩付き合えといわれ、とことん男性憎悪になった。女であることを呪った。ミニスカートをはく女の子は男を誘うためでなく、同性の目やカッコよさを追求しているだけであって、男は誘惑だと勘違いするなと憤っている。女性はこちらの望みと関係なく、性欲や欲望の対象とされてしまう。そういう性的客体にされてしまうことに中村は激烈な怒りを抱いている。しかし心の眠れる姫は許してくれないのである。中村がホスト遊びや風俗譲になったりした理由はこの性的主体になることの試みだといえる。
私は仏教や老荘などの本を読んできたから、中村の自意識や自我の拡大が気になった。そんなもものは捨ててしまえ、心の思いや考えは無視しろ、自我や思考を大事にするなという考えになじんでいるから、どうも中村が自我拡大の病にかかっている気がした。もちろん論考や分析というのは深く思い、考えるということがなかったらその問題を考えたり、考察することはできないので、とことんその道を追求するのもひとつの道である。深く考えて女性性の問題を開示して分析するのは、同じ女性性の問題になやむ女性たちへの道しるべになるだろう。
中村は仲のよいオカマに茨姫みたいにトゲトゲの蔓をはりめぐらせていると表現されたそうだが、自意識や自我にこりかたまっているのだ。自分が自我の病にかかって茨のなかに身体ごと放り込んで現代社会の問題を血を出しながら見せてやるといった体当たりを演じている。彼女は権力や欲望や自我の極限をめざして、自己の愚かさや過ちを体験して、過ちをおかし、現代自我の問題を垣間見せようとしているかのようだ。自我というよりか、権力の病に思えるのだが。
中村うさぎはとことん自我の格闘を演じて、さいごは瀬戸内寂聴のように出家してアガリになればいいと思う。彼女は自我の重みや膨張をとことん追求して、さいごは風船がはちきれるように自我の破裂を経験しようとしているのだろうか。それまでは自我の病、苦しみをとことんわれわれに開示しようとするのかもしれない。「私は現代社会の自我の病の実験台よ、たっぷり自我の病を見せてやるわ」といった使命感をもっているのだろうか。彼女はいつか自我を捨てるのか、それとも重い自我をかかえもったまま人生を全うするのか、それは現代社会のゆくえとも重なってくるのかもしれない。
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『バカになれる男の魅力』 河野 守宏
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仏教的な「バカ」をめざす本と思ったらちがった。仏教的なバカというのは人間の序列や価値からぬけだして安心の境地をえることなのだが、こういう本がなかなか得られなくて血迷ってヘンな本を読んでしまった。
ひどい本というか、ひどい自伝である。「バカ」をとおりこして、頭がおかしいんじゃないか、どういう思考回路になっているのか、というエピソードのオンパレードだった。この河野守宏という人は自己啓発や歴史書を書いている人と思うのだけど、なんらかの実績や功績をのこしている人でないとこの人生はとても評価できるものではない。
転職70回で履歴詐称がバレても懲りない話、坂口安吾の自宅に酔って押しかける話、俳優になりたくて女優の自宅に頼みにいく話、火の見やぐらの半鐘を鳴らして追われる話、高僧のポストを要求して門前払いを喰らう話、どれもこれも読むにたえない話だった。
器が大きいとか、破天荒というか、型破りなのだが、私にははた迷惑な誇大妄想の人にしか思えなかった。ぎゃくにいえば、こじんまりと小さくまとまり、人に迷惑をかけまいとする私の思考回路の相対化もうながさないわけでもないが、これはすこしイッちゃった人すぎる。1929年生まれの人だからこういうことも許されたのか。
これはバカな大物というよりか、社会からの逸脱を大物の証拠だとかバカの至上化というレトリックで自分をだましている人に思えた。まあ。それほどまでに現代の人間のありかたは規格化や標準化が進行していて、逸脱や規格外れを許されない社会になっているのだろうが、やっぱりこの人の生き方は私は評価できない。自己啓発の優れた人とみなす評価はこの人にあるのだろうか。
『男には七人の敵がいる』 川北義則
男には七人の敵がいる (PHP新書)
川北義則

だれでも人と仲良くしたり、人から好かれたいものである。だけど人から嫌われるのを恐れすぎたり、敵をぜったいにつくらないという「いい人」をめざしすぎるのも問題である。というか不可能だし、自分を殺しすぎたら自分の人生も生きられない。
敵はできてしまうのだし、性格や考えがちがうだけで敵になるし、また偉くなったり勝とうとするだけで恨みや嫉妬を買って敵は生まれる。なにをしたって敵は生まれてしまうものだと覚悟や前提をもたないと、つきおとされたり、不可能な試みに人生に疲労困憊してしまうことになる。自分らしく生きるためには敵をつくってしまうしかないのである。
嫌われる、人から嫌われていると思われることを恐れるために、評判ばかり気にする人がおおいようだが、けっきょくそういう人生は評判のかわりに自分の人生も生きられないし、勝つことも偉くなることもほしいものも得られない人生を生きるだけだ。ほしいものを得ようとしたら敵が生まれ、嫌われる、その覚悟は必要だ。敵をつくってもほしいものを得る、そういった人生観も必要かもしれない。
さっこんではいい人に思われようとする人がだいぶふえて、アダルト・チルドレンという名称で呼ばれたりするが、学校集団や職場集団でそういう規律をつよく刷り込まれてしまうのだろう。そういう訓育された生き方は生命の生きる力を去勢された不自然な生だ。平和でゆたかな社会がつづいたせいで、エネルギーのない生き方が善になってしまったが、流動や変化のある時代にはおしのけられて、殺されてしまうだろう。
「草食系」ともよばれたりするが、ある意味、老荘的な生き方は達観した生き方だが、これからベクトルはエネルギーのあるほうに向けたほうがいいだろう。中島義道は『カイン』などで、あえてこういう時代に自己中心、自分勝手な生き方を提唱したが、生命力が殺されているという危機感は感じたほうがいいのだろう。マキアベリ的な生き方も必要ということである。
この本ではどんなに身近で親しい仲でも敵や裏切りに会ってしまうのだという警告をあたえてくれる。親や子、信頼した友も敵に転嫁する。身内の存在だからこそ、強烈な敵になるのだと自覚したほうがいいだろう。妻はべつの可能性を奪ったがゆえに潜在敵になり、親子の愛憎劇は根本的なものだと考えるべきである。夫婦や男女関係はおたがい利益を共有する関係だから衝突もおこりやすいだろう。自分でさえ敵になる。
敵というのは宿命的に存在して、それとどうつきあうかが人生というものかもしれない。勝つだけでは敵だらけになるし、負けを先どりしすぎても人生を生きられない。かねあいをよく考えるべきだ。敵を回避しすぎる生き方は考えものだろう。
人間というものは生まれたときから動物的な序列競争や階層闘争をしているものだ。そのために友という勢力や防壁が必要だったり、趣味や遊びがあり、ゲームやスポーツがある。それらは敵をめぐっての攻防といえるかもしれない。人間という種の食料や資源をめぐっての序列闘争が根本にある。勝たなければ、強くなければ、人とうまくやらなければ、序列の下におしつけられて満足な食糧も資源も得られない。だから序列秩序があるのである。敵は必然である。資源が有限である以上、奪い合いは避けられず、それが生命の限界というものである。敵との関係は生存の戦略と考えるべきなのかもしれない。
いぜん私は職場で集団の対立や闘争という荒れ果てた環境に落ち込んでしまい、つくづく人間の闘争や対立という関係について考えなけらばならなかった。人とうまくやりたいけど闘争や対立、嫌われること、敵は生まれてしまうのだと思わざるをえなかった。
ブログのカテゴリにある「集団の序列争いと権力闘争」というテーマでなんでこうなってしまうのだろうと考えた。人間はそういう存在で、その闘争の中で生きるしかないのだと思わざるをえなかった。集団の中でいじめや闘争はどうしても生まれてしまう。回避だけでは生きられない、闘わなければならないものが人間という動物かもしれない。敵とのつきあい方が人生の質を決めてしまうのかもしれない。
▼敵と闘うための本

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