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07 17
2021

神秘思想探究

神秘思想セラピー、おすすめの記事

 神秘思想は怪しくて、オカルトだというイメージがあると思う。
 だが、それは聖典や名著と呼ばれる本を読んだことがないだけである。
 神秘思想は、言葉や思考でつくる世界のフィクション性や非実在性を悟ることである。
 その知識を得ることによって、パワフルなセラピーや癒しを得られる。
 私たちを苦しめていた偽りの正体を知ることができるようになる。
 おすすめの記事を紹介します。


 「過去をなんども思い出す「反芻思考」をやめよ」

 「心は実在しないと見なしたほうが、人生ラクになれる」

 「人は存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている」

 「言葉が実在しないことについて」

 「思考の実在を解く方法――苦しみからの究極の解放」

 「それは実在していない無ではないのか?」

 「いやな思い出を思い出して叫びたくなることへの根本的解決策」

 「うつ病と神経症は神秘思想で治せる」

 「パニック障害と西洋的自我の失敗」

 「仏教とは、思考システムを変えることである」

 「人類の壮大なミステイク――言葉の非実在性」

 「瞑想がめざすのは思考の「脱同一化」ということ」

 「瞑想を理解するための10冊の本」

 「神秘思想のおすすめ本11冊」

 「アドヴァイタ・非二元論者まとめ」


 おすすめの神秘思想の本



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07 08
2021

神秘思想探究

ギリシャの「一なるもの」――『ソクラテス以前の哲学者』 廣川 洋一

   

 ギリシャの知性に求められるものというのは通常は近代に通じる科学精神や合理的精神の萌芽というものだろう。西洋は、近代になって世界のひのき舞台に躍り出たのではなく、古代からも潜在的に突出していたのだという物語である。

 私は神秘思想を探究しているものだから、反動的である。ギリシャに一なるもの、ブラフマンといった神秘思想を探し出す探索をおこなっている。ギリシャは果たして神秘思想的な知性を宿していたのか。

 該当するような思想を抜き出したい。

「彼らは、無限なもの(ト・アペイロン)が万物を包括し、万物を舵とる、と考えている。さらに、それは神的なものであるとも考えている。なぜなら、それは、アナクシマンドロスや自然学者たちの大多数が主張するように、<不死であり不壊>である、というのだから」



 アナクシマンドロスの思想であり、アリストテレスに語られたものである。「不死であり、不壊である」という言葉がインドのブラフマンやウパニシャッドを思わせる言葉である。

 ヘラクレイトスも一なるものを語っている。

「私にではなく(かの)理ロゴスそのものに耳を傾けるなら、万物が一なることを認めるのが(理にかなった)賢いありかたというものである。

一なるもの、ただそれのみが智であるものは、ゼウスの名で呼ばれることを欲せず、しかもまた欲する。

智あるありかたはただひとつ。すなわち、万物をあらゆる仕方を通じて操るその(真の)叡智を知ること」



 パルメニデスも、ブラフマンを思わせる言葉を書き連ねている。「唯一・不生・不滅・不変・不動・均質一様の充実体」という言葉はじつにブラフマン的、ウパニシャッド的な言葉である。

「「ある」もの以外にあるものはなにもない以上、「ある」ものは、ひとつながりのもの、一様均質なもの、分割されえぬものであり、それは、同じものとして、同じところに留まり、ただ自分だけで横たわっている。「ある」ものは、こうして、唯一・不生・不滅・不変・不動・均質一様の充実体であり、またそれは欠けるところのないものだから、完全・完結したものでなければならない」



 パルメニデスの徒メリッソスも同じようなことをいう。

「⑴ したがってこのようにして、それは永遠であり、無限であり、一であり、まったく一様である。
⑵ またそれは消滅することもなく、大きくなることもなく、配列をかえることもなく、苦しむこともなく、悲しむこともないのだ。なぜなら、何かその種のことがらによって影響を蒙るのであれば、それはもはや一ではありえないのだから」



 エンペドクレスが輪廻転生と浄めを語っており、ピュタゴラス同様、輪廻からの解脱という目的は、ギリシャにも語られていた。

 ギリシャは近代に通じる科学的精神をもっていたのか、それともインドの神秘思想のような宗教的な相貌を多く持つものであったのか。

 後につづくプロティノスを中心とする新プラトン主義というのは、ほぼ神秘思想といえるものであった。それがキリスト教へと合流してゆくのが西洋の歴史である。

 私の探究というのはあくまでも精神の解放であったり、実践であるので、このような歴史を立てたいのではない。実践に通じるような知恵を、ギリシャから引き出すのは困難なようなので、この探究に価値があるのか疑問がきざす。





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06 27
2021

神秘思想探究

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は「心」をどのように語ったのか


 ■「『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は身体をどのように語ったのか」
 ■「『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は「世界の現れ・知覚」をどのように語ったのか」

 アドヴァイタ・ヴェーダーンタの最高峰『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からひきつづき、抜粋・注釈をおこないたいと思う。第三弾のテーマは「心」である。

    



「人は心以外の何ものでもない。心は全世界だ。心は大気圏、空、大地、風だ。心は偉大だ。心が愚か者だけが愚か者と呼ばれる。身体で死んで知性が失われたとき、その遺体を愚か者と呼ぶ人はいない。心が見るとき眼が生じる。心が聞くとき耳が生じる。他の感覚器官においてもそれは同様だ。それらをつくり出すのは心なのだ」 P.119



 心は全世界だ。大気圏、空、大地、風だ。身体の外にあると思われる外部世界も、心の中だ。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の唯心論的立場が大々的にのべられる。外部はない。すべて心の中だ。私たちは外部の世界を、私とは無関係の物質世界だと見なすだろう、その否定をおこなうのである。

「この空っぽの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか? ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。ただ一なる真我だけが真理なのだ」 P.123



 私というものは存在しない。ただの概念だ。アドヴァイタ・ヴェーダーンタも、仏教のように自我の否定、無我を説く。そして一なるものだけ、真我だけが実在と説く。私たちの自我があり、一なるものが見えない常識では、到達できない世界観である。

「心のことは部外者あるいは小石か何かのように見なすがいい。無限の意識の中に心は存在しないのだ。それゆえ、存在しない心によって為されたことも、非実在に違いない」 P.130



 心を軽んじろ。心は存在しないのだ。存在しない心が抱いたものはすべて実在しないのだ。私たちは心こそが大事であり、実在と思う人生を生きている。

「ラーマよ。ただ心だけがこのすべて(世界の現れ)になる。そして心が癒されたとき、世界の現れもまた癒されるのだ。この心が思考機能によって身体と呼ばれるものを魔法のように生み出す。心が機能しないとき、身体のようなものは存在しない。それゆえ「対象物を知覚する」という心理的な病の治療が、この世界で最高の治療なのだ。心は妄想を起こし、誕生と死という観念を生み出す。そして、それ自身が生んだ想念によって心は束縛され、それから解放されるのだ」 P.135



 対象物を知覚するということは、心理的な病なのである。自然に無自覚におこなうわれわれの知覚、この病を治すことが最高の治療なのである。われわれの知覚は病にかかっているのか。このような世界の前提がまったくひっくりかえったものが、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の唯一性をあらわしているのである。

「何であれ、ただ心がすることだけが行為なのだ。それゆえ、心だけが行為者であって、身体ではない。心だけがこの世界の現れとなる。世界の現れは心の中に起こり、心の中に消えゆく。対象物とそれを体験する心が静寂に帰すれば、ただ意識だけが残るのだ」 P.157



 心だけが行為者であり、世界の現れとなる。心が静寂になれば世界の現れは消えてゆく。そして意識だけが――静寂な観照者だけが残るという。私たちは世界の現れではなく、ただ意識や観照者のみに焦点を合わせつづけられるだろうか。

「すべての観念が止んだとき、そこには大いなる平和と静寂がある。そして、悲しみは根源から一掃される。この宇宙のすべてのものは、単なる観念でしかない。それには、心、魂、ジーヴァ(個我)、知性、条件づけといいった異なった名前がつけられている。だが、これらの言葉に相応する実体が、実際に存在するわけではないのだ。
…観念が弱まれば、不幸や幸福に左右されることはなくなる。「世界は実在ではない」という知識を得れば、執着は起こらない。期待がなければ、得意になることも落胆することもなくなるのだ。意識の中に反映されると、心はジーヴァとなる。そして、心は空中に城を築き、自身を過去、現在、未来へと拡張されてゆくのだ」 P.167



 この宇宙のすべてのものは、単なる観念でしかない。さらに世界は実在ではないという知識を得れば、悲しみも不幸も一掃される。私たちは心がつくった観念や概念によるものを実在と思い、それに執着し、勝手に悲しみや不幸に襲われているのではないだろうか。観念や概念を一掃せよ。

「心には生命力がなく、実体もない。だとすれば、それは死んでいるも同然だ!  にもかかわらず、この世の生き物はこの死者に殺されている。何と不可解な、何と愚かなことか! 心に自己がなく、身体もなく、支えもなく、姿もない。それなのに、この世のすべてのものがこの心に食い尽くされてしまう。何と奇妙なことか! 実体のない心に殺されたと言う人は、蓮華の花びらで頭を砕かれたと言うのと変わらない。自ら動けず、言葉も発せず、知覚することもできない心に傷つけられたという人は、満月の熱で焼かれたと言うの変わらない」 P.188



 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』には心への侮蔑や非難が多く語られる。心は死んでいる、その死者に生き物は殺されている。しかもそんなものは実在するものではないのだ。そんな非実在のものに食い殺されるとは、やわらかい花びらや満月の熱で殺されたというのに等しい。心は実在するという無知や過ちによって、われわれは命を殺されるのである。

「この心は身体という粗悪な土地に深く根を張った木のようなものだ。心配や不安はその花。枝は老いや病気という果実でたわわになっている。…
心は身体という森を彷徨い歩く象のようなものだ。それは妄想で視界が曇り、条件づけと無知という裏道に迷い込んだため、真我の至福の内に安らぐことができない。…
この心は身体という巣に宿るカラスのようなものだ。それは汚物をついばみ、肉片を食らうことで力をつける。…
この心は幽霊のようなものだ。それは渇望という魔女を召使として、無知の森に棲んでいる。心という幽霊は妄想から生まれた無数の身体の中をうろつき回る…」 P.227



 心の侮蔑がさんざん並べ立てれ、非難される。心は幽霊のようなものだ。心は気づけば気づくほど霧のような、霞のような淡い存在であることが感じられる。まさに幽霊という言葉はふさわしい。われわれは心を幽霊だと思ったりするだろうか。私たちの中心に居すわって、そのように見なすことは皆無ではないだろうか。

「もしよく調べれば、心と呼ばれるようなものは存在しないという真理がはっきりするからだ。心とは無知の産物でしかない。無知が消え去れば、心も消え去る。それゆえ、お前はいずれ消え去る運命にあるのだ。…お前は日ごとに弱まっていく。だから私はお前を棄て去ろう」 P.230



 心というものは存在しない。無知の産物でしかない。それに気づけば、私たちの中心を陣取って我がもの顔でいた心は消え去る。私たちはただ知らなかっただけなのだ。だまされていただけなのだ。幻の、非実在の心、想念、観念にだまされつづけていたのだ。心という不法侵入者が、私を乗っとっていたのである。禅の無心論を思わせる言葉である。

「自我の感覚と呼ばれる妄想は、空の青さのようなものだ。そのような観念は二度と起こらないようにただ棄て去ったほうがいいい。自我を根こそぎにして、静寂の本質である真我の中に安らぎなさい。自我は果てしない悲しみ、苦しみ、邪悪な行為の源だ。生は死に終わり、死は生へと導く。存在するものはそれ自身の終焉を迎え、崩壊する。自我が抱くこのような観念は、途方もない悲しみをもたらすだけだ。
…だが、もし自我が終焉すれば、世界の現れという幻想は二度と起こらず、すべての渇望も消え去るのだ」 P.232



 私という自我は、悲しみ、苦しみ、邪悪な行為のパンドラの箱である。無数の悲劇が、自我によって生み出され、解き放たれる。しかもそれは妄想であり、錯覚であり、トリックである。騒がしい自我を棄てて、安らぎの真我に憩おう。無知や過ちの覆いを拭い去れば、その安らぎが残るはずである。

「すべての現象は、夢の体験や譫妄状態で見た幻覚、酔っ払いの妄想、視覚的錯覚、心身の病気、感情的動揺、精神異常などのような一時的な実在性しか持っていない。だが心よ。恋人が愛しい人の別れを心に思い描いただけで苦しむように、お前はそれらに永久的な実在性を与えてきた。それはお前のせいではない。それは私のせいだ。お前、つまり心は実在するという観念に私がしがみついているからなのだ。すべては幻の現れだと理解したとき、お前は無心となる、感覚的体験などの記憶は消え去るだろう」 P.233



 すべての現象は酔っ払いや精神異常、幻覚や夢のような一時的な実在性しか持っていないというさんざんな言われ方である。心の実在性を信じるばかりに、現象の実在性という二重の過ちに陥っているのだ。私がこの愚かさに気づいたとき、その実在性とまやかしは霧のように去ってゆく。実在性という誤った思い込みを手放すことの重要性が語られる。

「愚かな心よ。お前の真の本性は無限の意識なのに、なぜ嘆き悲しむのか? 「普遍の存在」、それがすべてだ。それを認識したとき、お前はすべてとなる。お前は存在しない。身体は存在しない。ただ無限の意識だけが存在し、その単一の存在の中に「私」や「あなた」といった多様な観念が現れるように見えるだけなのだ」 P.258



 心は存在しない。身体も存在しない。ただ無限の意識、普遍の存在があるだけなのだ。愚かな心よ、無知と過ちの罪を背負って消え去れ。災いと悲しみを背負って消え去れ。心の実在性という災いを解き放つことはできるだろうか。

「心よ。お前の存在自体がお前にとっての苦しみだったのだ。お前が存在するために、どれほどの生き物があらゆる順境や逆境に惑わされ、病や老いや死という不幸の海に溺れ、善良な性質を渇望によって台無しにされ、性欲や欲望によってエネルギーを浪費させられたか知っているのか?」 P.259



 心への最大の非難が語られる。その存在自体がお前自身の苦しみだったのだ。心があるためにあらゆる生き物はどんな苦悩を背負わなければならなかったか。心よ、災厄を背負って消え去れ。

「…だが、お前は存在しない。だから、お前の幸福は妄想なのだ。お前は実在しない。無知と妄想ゆえにお前は生まれてきた。だが、心と感覚と自己の本性を探究することで、ふたたびその存在は消えるのだ。この探究をしないかぎり、お前は存在し続ける。真我探究の精神が起こるとき、そこには完全な静寂と均一性がある。知識と識別がなかったために、お前は生まれてきた。だが、この知恵が起これば、お前は消え去るのだ」 P.259



 心は存在しない。無知と妄想ゆえにお前は生まれてきた。真実を知ることによって、その存在は消える。私たちはそのことを知った。心の実在を誤るという無知を知った私たちは、その妄想と非実在を手放せるだろうか。知識がないばかりに、私たちは心の途方もない苦しみを背負いつづけてきたのである。




 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』では意外に心にかんする記述は少なかった。いいや、少ないというより、身体や世界の現れの言及と、分かちがたく結びついていて、心だけを単体に抜き出すことがむずかしかったといえようか。

 心は、身体や世界の現れの言及と折り重なり、積み重なり、交差する中で語られ、切り離したかたちで抜き出すことが適していなかっただけだ。この世界の現れ身体は心が反映したものに他ならなく、それは心がつくりだしたものといえるのである。

 心こそが、それらの言葉に語られているのである。世界の現れも、身体も、心が生み出した妄想や観念だ。それも実在しないといわれる。棄て去れといわれる。心を源流として、世界の現れ、身体は生み出されてくるのである。根っこにある心は妄想や偽りの観念を生み出しつづけるのである。この根を断て。

 この聖典で語られるのは、徹底した「無心論」である。まるで禅だ。ボーディダルマの「無心論」だ。そしてそれは実在しない。実在という偽り、マヤカシに騙されるな。

 この思想の探究において、実在という言葉の重要性がより重みをもってくるように思える。実在していると思っていたものが、実は実在しないものであった。この気づき、度重なる実在のマヤカシ、ごまかしに気づいてゆくことこそ、この現象世界の真実に気づいてゆくことではないかと思うのである。実在という勘違いこそ、この現象世界のいつわりの根源にあるものではないだろうか。


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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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