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04 14
2018

幻想現実論再読

がっかり――『ナラティブ心理学セミナー』 ミシェル・L.・クロスリー

4772411011ナラティブ心理学セミナー―
自己・トラウマ・意味の構築

ミシェル・L・クロスリー
金剛出版 2009-10-06

by G-Tools


 「言葉が現実をつくる」という社会構成主義から発展したということで、ナラティブ・セラピーについて興味をもって読んだのだが、言語を基礎に立脚した禅や神秘思想とぜんぜん違うところに向かっていて、がっくりときた。

 禅や神秘思想は、言語の徹底否定や滅却をおこない、物語や現実を虚偽や迷妄としてしりぞけ、それらの仮構の世界がなくなったあとの安楽や一体感を説く。言語が苦しみを仮構するのだから、それさえなくなれば、安心安寧の世界がひろがるというのが、禅や神秘思想の立場だ。しごく単純といえるすじ道である。

 社会構成主義もナラティブ・セラピーも、言語の構築という立場から理論を立ち上げるのだが、言語の滅却には向かわずにひたすらナラティブ(物語)へと寄り添う道は手放さないようだ。

 言語はたしかに、社会的な制度や基準といった社会の基盤を維持している土台である。もしそれらがなくなれば、制度も基準もなくなるという恐れがあるのだろう。

 だが、物語が人を苦しめるなら、なぜ物語を滅却させようという一直線の方法をとらないのだろうか。この本では応用編として、性虐待者やエイズ患者のナラティブが語られる。あくまでも言語が構築する物語を手放そうとしない。

 禅や神秘思想の立場では、そのような物語を語ること自体が苦しみを創造するのであって、それすらも捨てろというのだが、このナラティブ・セラピーはポストモダンをへた思想であるはずが、まるで近代のフロイトの精神分析に戻るかのようだ。傷をふたたびえぐり出すような記憶の想起が、ふたたび人を感情的に苦しめるという認識にどうして到らないのか。

 西欧では、言語を手放すことの禁忌が強力にはたらいていて、言語なき世界は想像すらもタブーがかかっているのかさえ思えるほどだ。そのことによって、東洋的な安らぎの境地は、うかがい知ることもできない。わたしはたとえ強力な宗教的禁止が入っていようが、一足飛びで言語滅却の安心の境地にたどりつきたい。

 もう少しナラティブ・セラピーの可能性を探ってみるかも知れないが、早くにその動向を手放しそうだ。


ナラティヴ・セラピー・クラシックス―脱構築とセラピーナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践心理学とポストモダニズム―社会構成主義とナラティヴ・セラピーの研究ナラティヴ・セラピーの冒険物語としての家族[新訳版]


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04 06
2018

幻想現実論再読

共同幻想論の社会学版――『あなたへの社会構成主義』 ケネス・J ・ガーゲン

4888489157あなたへの社会構成主義
ケネス・J. ガーゲン
Kenneth J. Gergen
ナカニシヤ出版 2004-11

by G-Tools


 共同幻想論にずっとこだわってきたのだが、社会学にひとつの学問として成立していたことをはじめて知る。

 社会構成主義は、「言語が現実をつくる」や「意味や現実は社会的構成である」といった説をとなえている。わたしはこれを自己啓発の「思考は現実ではない」というウェイン・ダイアーの言葉で知って、ずいぶんと格闘したわけだが、社会構成主義というのは、その社会学版である。

 この本は著者のケネス・ガーゲンが一般向けにやさしく社会構成主義を説明した本で、入門書として書かれたものだ。

 科学の真理や事実の写し絵理論のようなパラダイムが近代をおおっていたわけだが、社会構成主義は、それらもふくめて、言語が現実をつくるという相で捉える。真理のような客観的な世界観は消え去って、ただ言語がどのような現実をつくりだしているのかだけが問題になる。それは客観や事実ではなくて、言語で構成されたものだ。真理という覆いをとりはらわれれば、絶対的な真理の機制もその力を失う。

 ポストモダン思想が、この社会構成主義に結実したといえるのかもしれない。客観的世界を( )に入れるのは、フッサールの現象学からもおこなわれている。

 はじめて知ったといったが、共同幻想論を探っているころ、シュッツの現象学的社会学やガーフィンケルのエスノメソドロジー、廣松渉の世界の共同主観的存在構造や、ゴフマンの演技論的自己呈示などの本はよく読んでいたので、源流は知らなかったわけではない。マンハイムの知識社会学、クーンの科学革命、フーコーの権力論も、そのパラダイムにふくまれる。

 わたしは自己啓発の思考は現実ではないという言葉を契機に、トランスパーソナル心理学や仏教、神秘思想に、日常や通常の意識においての幻想やフィクションとしての考察にうつっていった。だから、社会構成主義はいかにも歯がゆい。言語で現実や社会構成を守ろうという防波堤の意識が強く、禅のような言語否定にはまったく踏みとどまる。

 言語が現実をつくるのなら、それはフィクションや虚妄であって、そんなものは存在しない砂上の楼閣だ、捨て去ってしまえというのが、禅や神秘思想の立場である。

 社会構成主義は、あくまでも言語が現実をつくるのなら、その考えを書き換えようという思想に収まる。まだ未読なのであるが、社会構成主義から発展したといわれるナラティヴ・セラピーもその立場を出ていないようなので、いかにも歯がゆい。

 社会制度としての言語をあくまでも死守しようとするのが、社会構成主義である。これには言語を捨てれば、無知や狂気におちいり、文明を捨て去るという禁忌が強く働いているからだろうか。

 禅や神秘視思想では、自我を捨て去れというわけだから、盲従や隷従への恐れも強い。仏教や神秘思想は、言語がマヤカシや虚偽の世界をつくるのであって、そんな夢から立ち去れといわれるのだが、言葉が現実をつくるという出発点が同じであっても、その帰結と方法は、社会構成主義やナラティヴ・セラピーとずいぶんちがう。

 わたしはもう禅や神秘思想の説に感銘しているので、社会構成主義もナラティヴ・セラピーも肩入れるするほど乗りこめない気がする。現代社会学や現代心理学がなにを語っているのか、参考や参照の域を出ないかもしれない。でももうすこし社会構成主義が共同幻想論をどう語っているのか見ないわけにはいかない。

 西欧というのは、言語をぜったいに手放そうとしない社会なんだなとあらためて思う。インドやアジアはずいぶんと言語の放棄はおこなってきた。言語は理性の砦であって、文明の閾だという禁忌が強いのでしょうね。ために言語がいかに砂上の楼閣をつくってきたという反省がうながされない。それは物質文明の砦でもあるのでしょうね。


社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる心理学とポストモダニズム―社会構成主義とナラティヴ・セラピーの研究現実の社会的構成―知識社会学論考ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践生活世界の構造 (ちくま学芸文庫)


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03 29
2018

幻想現実論再読

むづかしさの理由――『生の全体性』 J. クリシュナムルティ

4892031038生の全体性
J. クリシュナムルティ
デヴィット・シャインバーグ  デヴィッド・ボーム
平河出版社 1986-02-01

by G-Tools


 ごぶさたしております。本を書くことに時間を使いたいので、読書もブログも二の次になっております。原稿用紙240枚書き上げましたが、書くたびに煮詰まることが多く、けっこうむづかしいんだなと思っております。人に自分の考えを説明するために、どの要素を出してくるかというひっぱりだす能力の不足を感じております。

 クリシュナムルティの『生の全体性』は、クリシュナムルティとはじめて出会った本です。独特の語法や言葉使いでずいぶん面喰う本だと思います。ずいぶん久しぶりに読み返しました。

 「悲しみは、時間と思考の結果である」とか、「観察者と観察されるものとの分裂は、葛藤のもとである」といった言葉は、読んだことのない人にはなにをいっているかわからない類の文章だと思います。

 この本の半分は対談集です。量子力学者のデヴィッド・ボームと精神分析医のデヴィット・シャインバーグとの対談です。この対談集はずいぶんクリシュナムルティの強引なところがめだち、あまり好きではないのですが、後半の講和をあつめた第Ⅱ部がすばらしいと思います。

 ひじょうに心理学的洞察に満ちていると思うのですが、宗教書と思われるのが残念です。

 クリシュナムルティの言葉がむづかしいのは、言語や思考の根底を話すことにそのむづかしさの要因があるのだと思います。言葉で語れない領域を、言葉で語ろうとしたむづかしさだと思います。目を近づけすぎて、見えない状態に似ていると思うのですが、禅なんかではもう語ろうとしなかった領域を、言語で明晰に語ろうと努力したのが、クリシュナムルティだと思います。

 「なせなら思考は、記憶、経験、知識の生み出したものであり、つねに過去から生じるものであり、したがって時間に制限されたものだからである」

 時間という定義を飛ばして語っているので、独特のわかりにくい文章になっていると思います。

 「恐怖は、思考の運動である。量、測定としての思考の──。恐怖は時間である。思考は記憶、知識、経験からくる反応である。それは限られている。それは時間の運動である。もし時間がなければ、恐怖はない。私は、いま生きているが、死ぬかもしれないと恐れている。私はそのうちに死ぬかもしれない──。思考によって生み出された時間の感覚がある。しかし、もしまったく時間の間隔がないなら、恐怖はいっさいない」

 これはけっきょくは、想像したものは存在しないといっているわけですが、言語や感情が想像したものから生み出されているという方面から語っていないことが、わかりにくくしているのかなと思います。想像力や空想、あるいは心象という物体でないものを、現実にあると思う勘違いが、わたしたちには根差していて、その自覚がないところに、言葉や感情の実在視がおこります。

 想像力や言語が実在しないという一点から語りはじめれば、理解の助けになったかもしれません。わたしたちは、想像力の力を軽視しすぎていて、想像力が現実と思われるわたしたちの認識に、あまりにも無自覚です。

 クリシュナムルティは、これまで開拓されていなかった領域を、独自に自分の考察で切り開いたために、独特の言葉使いになっているのだと思います。禅や仏教も語ってこなかった詳細な領域だと思います。言語での明晰化をめざしたために、人に通じにくい文章になっているのだと思います。

 ほかの領域からの理解も必要になると思うのですが、わたしはそれは想像力の範囲やカテゴリーをもっと広げることや、言語や過去が実在しないという考察を深めることに、その理解の穴があると思っています。

 クリシュナムルティは宗教者というより、心理学者だとも思っています。言語や思考が立ち上がる繊細な根源に立ち向かった心理学者だと思います。まだ読まれていない方は、ぜひクリシュナムルティの著作に当たって、面喰ってほしいと思います。


既知からの自由最初で最後の自由(覚醒ブックス)恐怖なしに生きる時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集全体性と内蔵秩序


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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