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07 22
2016

強制と自発性

奴隷になった親の闇――『「子供を殺してください」という親たち』 押川 剛

4101267618「子供を殺してください」という親たち
(新潮文庫)

押川 剛
新潮社 2015-06-26

by G-Tools


 タイトルが幼少期の子どもを勘違いさせるものになっているが、いずれも成人後の子どもが問題になっている。親に暴力をふるったり、近隣に迷惑をかけたりして、親にはどうにもならなくなった大人の問題である。

 警備サービスから精神障害者専門の移送サービスをおこなってきた著者の話であり、心理学的なそれではなく、ドキュメントや精神保健分野の問題が中心になっている。

 ドキュメントに親がタイトルのように嘆かざるをえなかった実例がいくつものせられており、たいへんに読後感の悪い強烈な印象をのこす。親の力ではどうにもならなくなった家族関係の問題をあぶりだしたものになっている。

 精神疾患にかかっていると思われるが、本人には自覚がなく、親は子どもから暴力や奴隷のようなあつかいをうけ、ときには殺し殺されるような関係の瀬戸際まで追いつめられていたり、ゴミ屋敷に母子ともどもひきこもり、近隣に迷惑をかけていたり、アル中でどうしようもなく家族に迷惑をかける者、兄弟に脅迫をくりかえす問題などがとりあげられていて、警察にも医療にもあつかわれないグレーゾーンの闇の中で、家族が落ち込んで沈み込んでいる実態が、赤裸々につづられてゆく。

 親が成人後の子どもから暴力をうけたり、殺されそうになっていたり、奴隷のようにあつかわれているようになった現状は被害者といえるのだが、その幼少期には、親から攻撃や抑圧、束縛をうけた被害者であったといえるのではないかと著者は指摘する。虐待の連鎖が、子どもに継承されずに、親に返ってくるのである。

 人から嫌がることを執拗にやる、無言の圧力をかける、言葉尻を捉える、嫌味をいう、こういった問題行為をおこなう子どもは、幼少期に親が「しつけ」や「教育」という名のもとにおこなってきたことではないのだろうか。子どもは成人になって、親にそのままの姿を見せつけるのである。

 幼少期から親にもどうにもあつかえなかったという暴力衝動の激しい子どももいて、親の責任ばかりにはいえないとも考えられるのだが、同時進行で親の虐待まがいの子育て関係はなかっただろうか。

 移送サービスの著者の元には自分勝手な人の迷惑をかえりみない被害者である親の相談者がおとずれるのだが、そのような身勝手な行動こそが、子どもをそのような人物に育ててしまった因果が見えると著者はいう。

 こういう親子関係の因果を見ていると、いま身近に人を人と思わない言動や行動をとるサイコパスな人は、幼少期に親からそのままのことをされた人格をなぞっていると見ることもできるようになる。本人の資質がいくら与っているかは、わからないのだけど。だからといって、いままわりの迷惑や被害をかけるその人をどうしようもないのだが。

 警察や医療の保護から抜け落ちたグレーゾーンで、家族が犠牲になり、どこにも助けの求められない状況が広がっているということである。現代の殺人の半数は、まったく知らない赤の他人ではなく、家族や親族間でおこるという。そういった事件がいまにもおこりそうな家族の闇の部分が、この本からはつたわってくる。後味がたいへんに悪いので、読書には覚悟が必要である。


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07 15
2016

強制と自発性

トラウマ理論VS唯心論の相克――『いい子に育てると犯罪者になります』 岡本 茂樹

4106106590いい子に育てると犯罪者になります
(新潮新書)

岡本 茂樹
新潮社 2016-03-17

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 前著『反省させると犯罪者になります』と同じ主張をひろげたもので、前著からべつに変わったものはないのだけど、酒井法子の謝罪や反省文の解釈は読みごたえがあったかな。

 岡本茂樹は、トラウマ理論や交流分析の考えを元にしていて、幼少期に愛されなかったり、本心や感情を抑圧するスベを身につけるとそれがどんどん蓄積されて、さいごには犯罪のようなかたちで爆発するというものである。

 本心やホンネにふれないで、反省や抑圧をさせれば、どんどん自分の本心が見えなくなり、自分をたいせつにしなくなり、同様に他者の気もちも存在もたいせつにしなくなるという因果関係を説く。

 「迷惑をかけない」とか「ひとりでがんばる」、「人に頼らない」、「人に甘えない」という考え方は、危険極まりない犯罪につながりかねない考え方というのである。ますます抑圧を増やして、本心にふれることを遠ざけるからである。

 人に合わせすぎることも危険である。「自分の意見をいってはいけない、自分の考えをもってはならない」という考えをいだくようになるからである。「相手の気持ちを考えろ」も、「自分の気持ちを大切にしない」ことによって、抑圧や本心にふれないことを増やしてゆくことになる。

 わたしはどうもこの抑圧理論やトラウマ理論が、本心や感情を解き放つということが曖昧模糊としてつかみがたく、よくわからないといった考えをずっともっていた。本心やほんとうの感情というものがよくわからない。自分が本心や感情を抑圧しているのか、ほんとうの感情かもつかみがたい。ただ、自己中心的な怒りや不満を抑圧してはならないということになるのか。

 わたしはこのトラウマ理論や交流分析的な考えにふれると、かならず「唯心論」的な立場からの不満を感じる。「唯心論」というのは「思考を捨てれば苦しみも感情もない」や「思考は現実ではない」という考えがベースになった禅・仏教的な考え方である。こういう現在志向のセラピーを信奉するがゆえに、ほんとうの心ってなに?と思うのである。

 岡本茂樹は感情をコントロールするような方法も抑圧を増すと考えている。すなわち認知療法のような思考の偏りをただすようなセラピーも否定しているようだ。わたしはここでふたつの心理学派の越えがたい深い溝に悩むのである。

 酒井法子の章で、現在志向的なセラピーのウィリアム・レーネンの方法も、つらい過去にふたをすることといって否定している。トラウマ派と現在志向の思考療法を、どう統合してとりいれたらいいのか、ひじょうに迷うのである。

 現在志向のセラピーは、感情的な問題にはかなり即効性がある。思考を捨てれば感情はなくなるのが道理だからだ。自分を責めてぐちゃぐちゃになる鬱やアルコール中毒などには効くと思う。しかし深層の行動パターンや思考パターンの問題になると、トラウマ理論の探求が必要になるという使い分けでいいだろうか。

 岡本茂樹や長谷川博一は、犯罪者にトラウマ理論、交流分析の考えを適用して、それを健常者や通常人にもひろげようとしている。トラウマ理論はこれまで神経症やメンヘラ方面だけに適用されて、一般人にまでひろげられていなかったのだろうか。

 精神分析や交流分析はそこまで一般にひろがっていなかったのだろうかと、90年代後半の犯罪少年ブームがおこったときの心理学への関心の大きさは、どこにいってしまったんだろうと思う。

 幼少期に抑圧が強すぎるとのちに破滅的な影響をもたらすという考え方なのだが、世の中は抑圧や我慢しなければならない規範や常識は数限りなく多い。親はそれを見越して、我慢強い、抑圧に強い子に育つように、親みずからが抑圧や負荷をかける子育てをするのだが、トラウマ理論が明るみに出すことは、それが問題行動や犯罪をひきおこすという告発である。

 トラウマ理論が世に届いている部分も大きいように思うし、まったく届かない層もあるように思われる。甘えやわがままな子に育たないように厳しくしつけなければならないと考える親もあいかわらず多い。知識は伝わっていたり、まるで伝わっていなかったりして、その因果がどうなっているかわらなくて、混沌としているものだ。


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07 12
2016

強制と自発性

「勝ち組競争」元凶説は時代錯誤――『暴力は親に向かう』 二神 能基

4101375720暴力は親に向かう
―すれ違う親と子への処方箋 (新潮文庫)

二神 能基
新潮社 2010-01-28

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 ひきこもりやニートの家庭内暴力についてよく知らないので、「あ~なるほどね」と思いながらさいごまで読んだのだが、勝ち組教育がすべての根源という説には、違うのではないかと思う。

 親が友だち親子になり、反抗期をあたえず、自主性を尊重するといいながら、親の思うとおりの人生を生きなければ不満に思う選択できない立場に追い込んでおきながら、失敗すれば自分のせいだといわれる、責任を回避した友だち親子、自主性尊重の親の卑怯なあり方は、たしかにと思う。

 しかし、勝ち組競争がすべての根源という考え方には、一周遅れているというどうしようもないまちがいを感じる。

 著者は戦前の昭和18年生まれで、高度成長期の夢や希望があった時代を生きた世代である。このころの時代に止まった高齢世代の時代錯誤があふれ出している。

 若者は勝ち組競争に落ちぶれたり、脱落したから、ひきこもって家庭内暴力をおこすようになったのではなくて、すでにそういう高度成長期に夢見ることができた金持ちになることや物質的に豊かになる、偉くなって世間から承認されるという大きな夢がもう終わってしまって、共有も駆り立てる原動力もない時代になったから、若者はかんたんにつまづくようになったのである。

 国家目標がなくなって折れてしまったから、若者は折れるようになったのである。勝ち組競争から脱落したのではなくて。そういう国家的な目標がなくなってしまったのに、学歴や教育の中ではその価値観で競争させるシステムだけが残っている。

 戦前生まれの著者には、まるでバブル以降の右肩下がりの転落の時代の意味がまったく存在しないかのようである。こういう現実認識で、夢の折れた時代を生きる若者の気もちをとらえることができるのか不安になる。

 豊かになったあとにどのように生きてゆくかという問題が問われることがなく、いい学校いい会社の勝ち組人生の価値観とシステムだけが残り、世間もそのモノサシだけで人を測ろうとする。これが終わってしまったから、がんばる意味も見いだせず、折れてしまってもほかの生き方を模索できない。

 これは日本社会全体が手放してしまった、豊かさの後の生き方の哲学的問いの苦難そのものではないのか。

 エリートや勝ち組をめざさなかった若者は、アニメや趣味であったり、友だちや恋人、家族と楽しむこと、音楽やお笑いなどに人生の享楽や意味を見出してきた。しかし学歴の勝つことだけに意味を見出し、脱落したものには、ほかの価値観を見出すことができない。しかも、脱落したり、ブランクのあった数年後の正規コースへの復帰がむずかしい社会である。「どうしてくれるんだ、親のせいだ」というしかない。

 団塊世代の村上龍は98年ころには近代化の終焉とさみしい大人たちという表現で、それまでの国家目標が終わったことを告げた。アパシーやひきこもりは、そういった心情から生み出されたものだ。しかしこの戦前生まれの著者には、バブル以降の右肩下がりの時代の意味がまるでつかめなかった高齢世代の鈍感さを感じる。

 その他の家庭内暴力から立ち直るステップや方法論には、謙虚に学べるものはあると思う。しかし戦前生まれの著者のどうしようもない世代間断絶のズレは、「親にいってもなにもわからない」といったあきらめの言葉と同じものを感じる。もう、あなたたちの目標や理想はとうのむかしに終わってしまったのに。

 真摯に家庭内暴力に向き合っている姿勢がすみずみから伝わっている著者だけに批判はあまりしたくないのだが、原因の求め方が違うと対処法も変わってくるので、この違いはしっかりと批判せざるをえないというものだ。

 この国家目標が終わってしまった、折れてしまったという実感は、都市生活者としてひきこもりをはじめた第一世代、60年代生まれ以降の世代ではないと、肌感覚としてわからないのだろうか。同じ転落の時代を生きてきたはずなのだが、見ていたものはまったく違っていたのだろうか。


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