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12 06
2018

書評 心理学

心理学を知りたいときは?――『心理学の名著30 』 サトウ タツヤ

心理学の名著30 (ちくま新書)
サトウ タツヤ
筑摩書房



 心理学を知りたくなる時というのは、どういうときだろう? 人間関係でつまずいたり、なにか精神的に困ったことがあったときなどではないだろうか。でも大学の心理学では、動物実験などをやらされて、思っていたことと違うということがよくあると聞く。

 私もいくらか心理学の本を読んできたが、ほとんどは心理療法系や臨床医学になるので、そういった欠落をうめたくてこの本を手にとった。というか、分類すらよくわからない。やっぱりセラピー系でないと、読みたくはならないのだけどね。

 この本の選ばれた30冊の本の中では、セリグマン、カバットジン、フロイト、ユング、ロジャーズ、フランクル、マズローといったあたりになるだろうか。科学系の実験証明を是とする人から見ると、これらは「文学だ」となるかもしれないけどね。臨床医学なんて実証はむずかしいので、そのへんの分断はどうなっているのだろう。

 この本ではセリグマンのポジティブ心理学やカバットジンのマインドフルネスはとりあげられているのだが、認知療法や交流分析をとりあげていないのは、流れ的にはかなりの欠落に思えますが。

 マインドフルネスの説明で、意識を身体中に満たすことであり、なぜそれがうつ病に効くのかあいまいだといっているのだが、たしかにカバットジンの説明は不明瞭である。たんに言葉や思考をなくし、過去も考えないようにすれば、感情は生まれない。うつはなくなるという道理だ。ただ思考は勝手に生まれるので、だからうつや感情は制御できないのである。

 日本の心理学の名著は一冊もとりあげていないのだが、小此木圭吾のモラトリアム論とか、土居健朗の甘え論とか、世間一般にまで話題になった本もある。90年代後半には心理学ブームといったものがあり、猟奇犯罪の心理学やトラウマなどが世間にものすごく注目を集めた時期もあった。そのへんもカバーしていないね。いまはアドラーが注目されているのだが、アドラーもなし。

 私は精神分析ではぜんぜん納得せずに、自己啓発のカーネギーとかダイアー、リチャード・カールソンにだいぶ学ぶことが多く、それは広義の意味では過去を掘り下げないということで認知療法だったと思うし、ついにはトランスパーソナル心理学をへて、神秘思想や仏教にも理解がおよぶことになった。セラピーは自己啓発のジャンルからも、おおいに学ぶことがあると思うのだが、この本ではいっさいふれていない。

 心理学というのは、科学であるためにはたえず実験実証の目から批判がおこる。文学であっては、科学たりえない。そこで実験心理学のような動物や人を実験する実証が必要になるのだろうが、そういう手間をとっていると、現実の問題からずっと遅れて後手にまわってしまう。それは現実に悩み苦しんでいる人への手助けになるのかという知識にもおちいる。ここいらをうめる知識をこの本からも期待したのだけどね。

 ずっとむかしに心理学の基本書を知ろうとして、『カウンセラーのための104冊』のような本も参考にしたことがある。この本を手にとったのは、心理療法の今日的評価を聞きたかったのかもね。



改訂新版 カウンセラーのための基本104冊世界の心理学50の名著 エッセンスを学ぶ心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 (講談社学術文庫)心理療法の交差点―精神分析・認知行動療法・家族療法・ナラティヴセラピー精神分析の名著 - フロイトから土居健郎まで (中公新書)


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12 01
2018

書評 哲学・現代思想

人生のいちばん重要な問いかもね――『私の生きた証はどこにあるのか』 H.S.クシュナー



 タイトルがよいので、本屋で見かけたときから読みたいと思っていたが、図書館でみつけた。手元においておいて、赤線をたっぷり引いて残しておきたい本だったが、図書館で借りて読んでしまった。

 著者はアメリカ人のユダヤ教ラビで、この本はユダヤ教のかなり人生への懐疑的な見方をつきつける『コヘレトの書』を導きの書にしながら、話がすすむ。

 3章の「自分の利益だけを追い求める人間の孤独」は、現代人への疑問をじゅうぶんにつきつける章で、成功だけを追い求めて孤独に生きるわれわれへの人生の深い問いをつきつける。自分の成功だけを求める人生でいいのかという懐疑は、現代人にいつもきざすのではないだろうか。そういうシステムの中でしか現代は生きられない。

 かといって、著者のクシュナー、ならびにコヘレトは、宗教的な他者への犠牲だけに生きる人生も疑問にさらす。

 クシュナーはうまいことをいうのだが、アメリカ人は「アテネとエルサレムの双方の申し子」といって、快楽のギリシャと禁欲のユダヤ教キリスト教の双方に引き裂かれているという。クシュナーはユダヤ教のみの見方をもつのではなく、アメリカ人らしい欲望と禁欲の両方に目配りもできる感覚ももつ。

 クシュナーは痛みを避けるためにまったく痛みに不感症となるような生き方ではなく、痛みも感じることが愛や喜びをも感じられる生き方だと説く。私はこれには反対派であって、感情のない平安の境地をいちばんによしとする。感情をもたらす思考や認識というのは、ひとつの幻想や虚構であり、私はそんなメロドラマに身をゆだねるなという立場だ。だけど、感情主義な生き方はこんにちのいちばん共感をもって迎えられている価値観だとは思いますけどね。

 この章で、私も中学のころに好きだったサイモン&ガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」に言及される。「僕はただの島、ただの岩。……岩なら傷つきはしない。島なら泣くことはないさ」。クシュナーはこのような生き方には否定的である。

 クシュナーは、宗教を疑問に思う人がいちばん疑問にもつ、神への服従がよい生き方なのかという疑問も俎上にのせる。ピアジェの『児童の道徳的判断』という本を手がかりに、親に全面的に服従していた子供時代と、権威に反抗したくなる青年の心理に言及する。クシュナーは宗教的服従をのりこえ、自分自身の高い規範に生きることを理想とする生き方をすすめる。

 コヘレトはさまざまな人生を懐疑にさらしたうえで、人生は無意味かもしれないが、それをうけいれ、つかの間の消えゆく喜びのなかに意味と目的を見いだせと説く。わずかな瞬間だとしても、味わい楽しめ。そういったささいな喜びをすすめるのである。

 9章でクシュナーは「私が死を恐れない理由」を説明するさいに、私は人から頼られてきた、ベストセラーも生み出したようなことをいっているのだが、これはあまりにもなんの成果もなしとげていない者には突き放しすぎだと思ったけどね。

 全般的にとてもよい本だと思います。私たちは人生が終わってしまえば、この世にはなにも残らない、なにか残さないと価値がないと思いつめるのだが、それにも失敗するかもしれないし、だいいちいつまでも消えない生きた証しはこの世に残せるものなのだろうか。

 マルクス・アウレーリウスを読むと、そういう名声の空しさを嘆く言葉に出会う。私は人生になんの価値も評価もみいださないで、それに嘆いたり、空しいと思う気持ちさえ捨てて生きるのが、いい生き方だと思っている。人生を人間の評価やモノサシで測る必要なんてない。言葉のない次元でただたんたんと生きる。それだけでいいと思う。



伝道の書―コヘレトの言葉 (TeTコンパクト聖書注解)なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)恐れを超えて生きるモーセに学ぶ 失意を克服する生き方ユダヤ人の生き方:ラビが語る「知恵の民」の世界


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11 28
2018

幻想現実論再読

過去の悔恨――『還らぬ時と郷愁』 ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ


還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)
ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ
国文社


 残念ながらほぼ読みとれなくて、さいごまで読み通すのが苦行でしかない本だった。難しい言葉は使ってないと思うのだが、詩学や美学というのか、あいまいな表現のためか、ほぼ読みとれない。

 タイトルがよいので、還らぬ時にたいする郷愁の気持ちを呼び覚ますような具体的な表現でも読めると思ったのだが、まったく違ったようだ。時間の不可逆性や逆行できないものといったものを主題にしているのだが、言葉が曖昧蒙古として霧のように消えてゆく。

 私は、時間が瞬間ごとにつぎつぎと奈落の底に呑みこまれてゆく実感を強化したいと思っている。時間の前後は、たえず無だ。底なし沼のような無を実感することにより、思い出や過去を実在化するような心の習慣を断ち切りたい。私たちはこのような瞬間に無になってゆくような存在や世界のあり方から遠ざかることにより、記憶や思考の苦悩の責め苦を背負うのではないのか。

 タイムリープ物語のように、過去をやり直すことや過去の後悔を塗りなおす物語を、私たちは好むのではないだろうか。失っては二度と戻らない過去を、なんとかやり直したい、書き替えたい。それが恋や失われた愛なら、なおさら心魅かれる。そういう物語を山のように浴びて、また日常の生活においても、過去の想起をなんどもくりかえすのが、われわれではないだろうか。

 私たちはこのような自然の傾向こそを、断ち切らなければならない。過去の反芻は、私たちを後悔や悔恨、憂鬱や懺悔の気持ちへと落とし込む。それが精神の安定を保てる軽度のものなら、支障はないかもしれない。だが、たいていは度を過ぎて、うつ病や憂鬱から離れられないといった病理におちこむのが関の山というものではないだろうか。そして、私たちはこういう習慣に歯止めをかける知恵をもたず、際限なく底なし沼におちいってゆく。

 過去が瞬間になくなってゆく世界観と、過去はいつまでも終わらず、実在のように立ち上がる世界観。私たちは後者の過去がいまも現実のように存在する世界観のなかで暮らしているのではないだろうか。そしてうつ病や憂鬱の感情の病から抜け出せない。

 マインドフルネスや瞑想のブームは、過去の想起や思考の反復をやめさせる習慣を、私たちにようやくもたらしてくれる。私たちは過去をシャットアウトする知恵を、まったくもたないできたのである。

 それは過去のおこないや言動を銘記しておかなければならない社会制度の必要や要請からではないだろうか。過去がまったく実在しない無という社会では、過去の犯罪も行為も裁かれない。責任も負えない。それで過去の銘記や想起は重要な習慣になった。だけど、うつ病におちいるようなら、はたしてその習慣は、私たちに平安をもたらすだろうか。

 ジャンケレヴィッチの本から離れたことを書いたが、私はこういうことを考えたいと思っていた。ジャンケレヴィッチは『死』という本が有名なのかな。ベルクソンに強い影響をうけたフランスの哲学者だ。ちょっとつかみがたい文章を書く。


死道は開ける 文庫版時間ループ物語論時は流れず生き生きした過去: 大森荘蔵の時間論、その批判的解読


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うえしん

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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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