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03 14
2020

セラピー・自己啓発

誰かのせいにするな――『史上最強の人生戦略マニュアル』 フィリップ・マグロー

  

 「だれかのせいにするな、人生の責任は自分にある」の主張はおおいに同感。

 「回避せずに手遅れになる前に行動しろ、人生は行動だけに見返りをあたえる」という意見には耳が痛い。

 「事実なんてない、あるのは認識だけ」は、これをつかまないと、人生おおいに誤る。

 基本的にほしいものを勝ちとれ、勝者になれという人生指針なので、私はその点は受け入れがたい。意味や目的をもとめる人生は、神秘思想からは誤った認識だと捉えられている。

 私がこの本を読みたくなったのは、「だれかのせいにするな、人生の責任は自分にある」の章である。マグロ―も「他人を責めるのが人間の本質であることだ」と認めているのだが、私たちはだれかのせいや他人を責める人生をたいがいは生きている。

 他人のせいにしておれば、自分の人生の責任を負わなくてすむ。けれども自分の責任をもって、自分の人生を生きられることはない。他人のせいにするということは、他人の犠牲者になり、自分で人生も感情もコントロールしようとすることもないのである。

 このカラクリは、ウェイン・ダイアーに学んだのだが、身近なまわりの人は他人のせいにして、他人を責める人でいっぱいだし、それが自分の損失になっていることや、自分から犠牲者になることに仕向けていることに気づかない。この他人のせいにする思考のカラクリには、ぜひ気づいてほしいものだ。

 経済的な自己責任論とは分けて考えてほしいのだが、経済や政治では人を助け、困窮者を守るという意味では、だれかの責任を問うことは大切だと思う。だが、自己の感情や人生にたいしては、他人を責める習慣に染まるべきではない。みずからを他人の支配下におき、他人の犠牲者に捧げることにほかならないからだ。

 「問題を認めないと悪化してゆく」という主張は、「認識は選べる」という主張と拮抗して、後者を尊重すると問題すらも消散してしまうと考えることもできる。「そうしてなにも求めず、なにも得ることはできないのだ」というマグロ―の言葉はつき刺さるのだが、私は認識の解釈論を採用しすぎて、人生の回避障害に傾きすぎているのかもしれない。

 「事実なんてない。あるのは認識だけ」という主張は、フランクルやストア哲学がとなえている「考え方が世界のとらえかたを決め、感情もそれによって生まれる」という考え方である。私たちはその考え方をすっとばして、あたかも「事実」だけを見ているのだと捉えがちである。「考え方」「解釈」があるからこそ、私たちは物事をとらえることができて、感情を生むのである。これを知らないと、私たちの考えや解釈は、自分に見えない凶器になり、私たちを殴りつづけ、見えない暴君に支配されることになる。

 「万人に共通する10の特徴リスト」では、人を理解する上での大切な基本条件が捉えられている。「すべての人がいちばん恐れているのは拒絶されることである、いちばん必要としているのは受け入れられることである、相手の自尊心を傷つけない、くすぐることだ、人は自分にとって個人的に大事なことを話したがる」などの大切な特徴があげられている。この基本要件をよく理解したうえで、人と接したいものである。

 マグロ―のこの本はこれらの人生の原則を捉えそこなうと、人生におおいに痛手を負うものだし、知らないとあちこちにぶつかりつづける困難な人生をたどってしまうかもしれない示唆に満ちた内容になっている。知らないと人生の損害を大きくしてしまうものだし、知っている者には確認をすることができる。まわりの人はそうは教えてくれないだろうから、このような本で学ぶことはひじょうに大切である。





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03 04
2020

セラピー・自己啓発

人生を変える名著がある――『世界の自己啓発 50の名著』 T・バトラー=ボードン

 

 この本の中で選ばれた名著の中で、文字通り私の人生を変えた本が何冊もある。

 あげられている著者のタイトルが違うものがあるが、リチャード・カールソン『楽天主義セラピー』、ウェイン・ダイアー『どう生きるか、自分の人生』、ノーマン・ピール『積極的考え方の力』、そしてマルクス・アウレーリウス『自省録』だ。

 これらの本で語れていることは、思考が感情をつくり、思考が自分の認識する世界をつくりだしているということだ。事実や出来事は自分の外側にあると思っていたが、まさしく自分の思考や考え方がつくりだすという認識の転換をしてくれた。

 そのおかげで、私は自分の認識する世界をコントロールするすべを身につけることができるようになったし、そのことは感情のコントロールも身につけられることを意味する。私は自己啓発の本によって、感情のコントロールや平安な心のもちかたを学ぶことができたのである。

 客観的な科学や学術にくらべれば、自己啓発なんてまやかしの安っぽいおもちゃのように思われる向きもあると思う。しかし科学や学術は、うつや悲観に沈み込む気持ちをもちあげる方法を教えてくれなかったのである。

 自己啓発の中には「願えば叶う」式の欲望成就的な成功哲学もむろんたくさんある。ジョセフ・マーフィーはそのような願望成就的な自己啓発の中に、気持ちを明るく維持する方法もふくませている。こんにちではそれは「引き寄せの法則」といわれるものだが、お手軽な願望成就のハウトゥも、ポジティブ心理学や心理セラピーを潜ませているのである。

 自己啓発というのは、客観的な科学が全盛の時代に、唯心論的な流れをとりもどす試みといっていいかもしれない。科学は自分の外側に世界があり、他人や外界を変えないと幸福にならないと考えることになる。他人のせいや政府が悪いといって、四六時中腹を立てる生活を送ることになる。

 自己啓発は考えや解釈をつくりだしたのは自分であり、その選択は自分でできるのであり、それゆえに自分の感情も気分も選択できるのだといった。この考えからすると、ずっと他人が悪いといって腹を立てつづける姿勢は、みずからが犠牲者となって、感情の罰を自分に課していることになる。唯心論は、他人のせいにする科学の愚かさを見せるのである。

 この本の中では比較的に学術的だといわれるマーティン・セリグマンやデビッド・バーンズなどの認知療法の本もあげられている。認知療法はまさしく自己啓発が語っていたことであり、学術の流れも唯心論のほうに傾き出しているのである。この本は2003年に出されており、もう少し後に出ていたなら、マインドフルネスの流れも入れられていたことだろう。

 老子やブッダ、『バガヴァッド・ギーター』もこの本におさめられている。東洋的な宗教、思想が自己啓発にあたえた影響は大きく、いまもつづいているのだろう。

 『聖書』もあげられているのだが、自己啓発に近いという意味では中世のベストセラー、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』がふさわしかったと思わなくもない。

 デビッド・シュワルツの『大きく考えることの魔術』もぜひ入れてほしかった。アラン・ド・ボトンは違うタイトルがあげられているが、私は『もうひとつの愛を哲学する』が承認欲をとりあげていて、自己啓発からたしかに外れるが、この名著を忘れないでほしい。

 自己啓発は安っぽくて、お手軽な願望成就をうたい、詐欺みたいなものだと思いこむ向きはたしかにある。科学や学術にくらべれば、安っぽさを否めない。だけど私的はいちばん救われ、人生に役立ったと思っている。疑わしいと思えるのなら、使える知識と使えない知識を判別すればいいだけのことである。ハナから頭から信じることなんかしなければいいだけのことである。科学や学術で学んだ賢明な諸氏なら、そのくらいの選択はできるだろう。

 私はこの自己啓発の唯心論的な流れが、認知療法やマインドフルネスの学術的な流れと重なって、どこに行くのかだれか研究書を出してくれないかと思うのだけどね。禅や神秘思想がこれに加われば、言葉や思考によるわれわれの認識自体がひっくり返されるような転換がおこるかもしれない。学術より、自己啓発や神秘思想が先行していると私は思うのだけどね。






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02 16
2020

幻想現実論再読

世界も私も幻である――『脳はなぜ「心」を作ったのか』他2冊 前野隆司




 前野隆司の本を三冊つづけて読んだので、まとめて書評。『脳はなぜ「心」を作ったのか』、『錯覚する脳』、『人はなぜ「死ぬのが怖いのか』以上三冊。

 前野隆司は心は幻だという立場に立つ。感覚器官が色や音などのクオリアある世界をつくりだしているが、それは人間がつくりだした幻であって、この世界はなにもないのっぺらぼうな世界だ。

 われわれはこの意識や私がなくなることを恐れて死を恐れるが、この意識や世界のクオリア自体が幻であって、そもそも生きていながら死んでいる状態とそもそも変わらないのだ、だから死を恐れることはないと説く。

 仏教のこの世界は幻だという見解を、科学的に解いた本である。私の感覚のクオリアも世界も感覚器官がつくりだした幻、私という意識も進化上に必要なエピソード記憶のためにつくられた幻、もともとないに等しい、だから死を恐れる必要はない。

 心はあるように感じられる、しかしそれは幻想にすぎず、もともとなにもないのだ、死んでいる状態となにも変わらない、だからなにも恐れる必要はない、というのである。

 私は神秘思想で学んできたから、ひじょうに近いこの幻想論と距離をおきにくくて、頭を整理しにくかった。神秘思想はこのようなことをいっていたのかと、ぎゃくに距離をおいてながめられない。

 世界も心もないのだ、幻だという考えによって、仏教や神秘思想はやすらぎの知恵を手に入れたのか。私は個人的には、言葉や思考は実在しないのであって、だから苦悩も悲嘆も存在しないという立場で、やすらぎを手に入れる方向に進んできた。

 前野隆司は理論としては心や世界の非実在性を説得するわけだが、日常的には言葉と思考にまみれているのだから、この隙間隙間ごとに苦悩や悲嘆がつくられてしまって、日常のそれを拭い切れないことになると私は危惧するのだが、心と世界の幻想論はそれなりの効果は否定しない。

 前野隆司は人は自分の意志を信じているが、手を動かす前にすでに無意識のスイッチは入っているのだという実験を知らせて、主体やコントロールの幻想を説く。私はなになにをした、このようなことをきのうしたといったエピソード記憶もそれを覚えていないと場当たり的な行動しかできないので、必要上につくられた幻にすぎないと、「私」の非実在性も説かれる。

 音も色もこの世には存在せず、感覚器官がつくりだした幻だ。音はそこに身体がないのに、遠い場所から聞こえるというクオリアがあるのは驚異的だといっている。指や身体なら感覚のクオリアがつくりだされても不思議ではない。だが身体のない場所までクオリアはつくられるのだ。身体はそこまで拡張される。目に見えるものであっても、明るさや色などの空間をつくりだせるのだ、なにもないのに。

 このことは、禅の話に、雨はおまえの心の中に降っているといわれる話を思い出した。唯心論的な話に帰ることなんだろうか。感覚のクオリアは身体を拡張して、はるか遠くまで感覚できる。身体の外にあると思われる世界は、私の脳がつくりだしたリアルな幻想なのか。

 私がこれまで読んできた神秘思想と仏教の話と、距離をおいて、比較や検討をする頭がなかなか働かないんだな。神秘思想や仏教はこのようなことをいっていたのか。唯心論や、心・自我の非実在論がそれらだったのか。

 仏教や神秘思想は、言葉を滅却させることによって、理論を組み立てずに、いま・ここ以外の幻想性や非実在性を身体にしみこませてゆく方法である。言葉で理論を組み立てると、言葉の壮大な実在の幻に囚われ、実在の世界から抜け出せなくなってしまう。だから言葉は言葉が立ち上がるこの現場から、瞬間に落としてゆかなければならない。心を立ち上げる瞬間こそが、仏教がたえず立ち返ろうとする場所である。理論を後生大事に抱えてしまっては、幻想の建物に捕えられたままなのである。

 理論ではなく、自分の実際の心や身体に、その幻想性や非実在性を感じてゆく、神秘思想や仏教の方法である。理論はもちろん理解を増やして、納得の地平をひろげてくれるので、ふたつの車輪のように理解してゆくのが好ましいと私は考えるが。

 理論で理解しようとする人は、ふだんに思考をはりめぐらせているだろうし、言葉の非実在性を反省してみることはない。その陥穽こそが、われわれの苦悩や悲嘆の立ち上がるまさに源泉そのものである。言葉と思考の滅却にこそ、この幻想論の有効性はない。言葉と思考にまみれた頭に、苦悩の消失がおとずれることはないのである。






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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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