FC2ブログ

HOME
02 16
2020

幻想現実論再読

世界も私も幻である――『脳はなぜ「心」を作ったのか』他2冊 前野隆司




 前野隆司の本を三冊つづけて読んだので、まとめて書評。『脳はなぜ「心」を作ったのか』、『錯覚する脳』、『人はなぜ「死ぬのが怖いのか』以上三冊。

 前野隆司は心は幻だという立場に立つ。感覚器官が色や音などのクオリアある世界をつくりだしているが、それは人間がつくりだした幻であって、この世界はなにもないのっぺらぼうな世界だ。

 われわれはこの意識や私がなくなることを恐れて死を恐れるが、この意識や世界のクオリア自体が幻であって、そもそも生きていながら死んでいる状態とそもそも変わらないのだ、だから死を恐れることはないと説く。

 仏教のこの世界は幻だという見解を、科学的に解いた本である。私の感覚のクオリアも世界も感覚器官がつくりだした幻、私という意識も進化上に必要なエピソード記憶のためにつくられた幻、もともとないに等しい、だから死を恐れる必要はない。

 心はあるように感じられる、しかしそれは幻想にすぎず、もともとなにもないのだ、死んでいる状態となにも変わらない、だからなにも恐れる必要はない、というのである。

 私は神秘思想で学んできたから、ひじょうに近いこの幻想論と距離をおきにくくて、頭を整理しにくかった。神秘思想はこのようなことをいっていたのかと、ぎゃくに距離をおいてながめられない。

 世界も心もないのだ、幻だという考えによって、仏教や神秘思想はやすらぎの知恵を手に入れたのか。私は個人的には、言葉や思考は実在しないのであって、だから苦悩も悲嘆も存在しないという立場で、やすらぎを手に入れる方向に進んできた。

 前野隆司は理論としては心や世界の非実在性を説得するわけだが、日常的には言葉と思考にまみれているのだから、この隙間隙間ごとに苦悩や悲嘆がつくられてしまって、日常のそれを拭い切れないことになると私は危惧するのだが、心と世界の幻想論はそれなりの効果は否定しない。

 前野隆司は人は自分の意志を信じているが、手を動かす前にすでに無意識のスイッチは入っているのだという実験を知らせて、主体やコントロールの幻想を説く。私はなになにをした、このようなことをきのうしたといったエピソード記憶もそれを覚えていないと場当たり的な行動しかできないので、必要上につくられた幻にすぎないと、「私」の非実在性も説かれる。

 音も色もこの世には存在せず、感覚器官がつくりだした幻だ。音はそこに身体がないのに、遠い場所から聞こえるというクオリアがあるのは驚異的だといっている。指や身体なら感覚のクオリアがつくりだされても不思議ではない。だが身体のない場所までクオリアはつくられるのだ。身体はそこまで拡張される。目に見えるものであっても、明るさや色などの空間をつくりだせるのだ、なにもないのに。

 このことは、禅の話に、雨はおまえの心の中に降っているといわれる話を思い出した。唯心論的な話に帰ることなんだろうか。感覚のクオリアは身体を拡張して、はるか遠くまで感覚できる。身体の外にあると思われる世界は、私の脳がつくりだしたリアルな幻想なのか。

 私がこれまで読んできた神秘思想と仏教の話と、距離をおいて、比較や検討をする頭がなかなか働かないんだな。神秘思想や仏教はこのようなことをいっていたのか。唯心論や、心・自我の非実在論がそれらだったのか。

 仏教や神秘思想は、言葉を滅却させることによって、理論を組み立てずに、いま・ここ以外の幻想性や非実在性を身体にしみこませてゆく方法である。言葉で理論を組み立てると、言葉の壮大な実在の幻に囚われ、実在の世界から抜け出せなくなってしまう。だから言葉は言葉が立ち上がるこの現場から、瞬間に落としてゆかなければならない。心を立ち上げる瞬間こそが、仏教がたえず立ち返ろうとする場所である。理論を後生大事に抱えてしまっては、幻想の建物に捕えられたままなのである。

 理論ではなく、自分の実際の心や身体に、その幻想性や非実在性を感じてゆく、神秘思想や仏教の方法である。理論はもちろん理解を増やして、納得の地平をひろげてくれるので、ふたつの車輪のように理解してゆくのが好ましいと私は考えるが。

 理論で理解しようとする人は、ふだんに思考をはりめぐらせているだろうし、言葉の非実在性を反省してみることはない。その陥穽こそが、われわれの苦悩や悲嘆の立ち上がるまさに源泉そのものである。言葉と思考の滅却にこそ、この幻想論の有効性はない。言葉と思考にまみれた頭に、苦悩の消失がおとずれることはないのである。






関連記事
02 01
2020

幻想現実論再読

概念、肉体を去れ――『意識に先立って』 ニサルガダッタ・マハラジ

  

 『アイ・アム・ザット 私は在る』は巨星とよばれるにふさわしい書に思えた。ぶっきらぼうで、言葉は簡明で、経典や専門用語をつかわない日常の感覚でつかめる言葉で、質問者に答えかける。といっても理解はかなりむずかしい。言葉や観念でとらえられない世界のことを語るからだ。

 この『意識に先立って』はマハラジの最晩年の対話がのせられたもので、図書館で見かけたので思わず飛びついた。

 今回はかなり理解がおよばない気がした。前書でも理解がおよばないところが多く、理解できるところを結びつければかろうじてわかるところがある書であったことには変わりはないが。

 この書でもしきりに「私は在る」に帰ろと語られていた。しかしそれを肯定するのではなく、否定する言葉だったのかと今回気づいた。

「存在感、つまり「私は在るという性質」が客の印だ。あなたの答えは深い信念からのものだろうか?

…あなたは存在していないという知識を、あなたは完全に受けいれているのだろうか」



 「私は在る」という感覚すらも不要な概念だと断じられる。

「「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしていたという記憶は何も残らない。まさに記憶がぬぐい去られるのだ。あなたが完全に一掃される前に、まず自分の痕跡が少し残っている前に、この場所を去ったほうがいい」



 肉体の否定もたびたびおこなわれる。あなたは肉体ではないのだ、肉体やそれにともなう意識の一体化を捨て去れという。この意識も肉体にともなうものであり、肉体が去れば、それもなくなるものだ。その一体化をぬぐい去れと。

「「私は在る」という第一の概念が、肉体のアイデンティティにしがみついているので、すべての問題が起こるのだ。自分は概念でないという結論に到達しなさい」



 概念も去らせて、肉体の一体化、記憶も意識も去らせる。私たちのあり方そのものが否定される。私たちはあまりにも概念、思考、記憶のとりこになっているので、マハラジは私の考えがあなたがたに理解されることはないと何度もいう。

「源泉に戻りなさい。存在性の概念である「私は在る」が起こる前、あなたの状態は何だったのか」



 前回の書では気づかなかった、もしくは忘れていた、私の存在性以前に戻れという言葉が発せられる。

「存在感が到着する前、あなたは時間の概念がまったくない状態にいた。ということは、何が生まれているのか? それは時間の概念であり、誕生や生きること、死ぬという出来事がいっしょになってまさに時間と継続を構成するようになるのだ」



 禅でも出生以前のあなたの顔はどのようなものかと問われる。存在感が生まれる前の状態は子ども時代に経験したことであり、キリスト教でも幼子のようになれといわれることと同じである。そして私たちは概念や思考にいっぱいになっているために、それらが生まれる前の子どもの状態に戻れることはないのである。

 言葉や思考が生まれると、時間の展望が生まれ、私たちは記憶とともに、人生の経験やエピソードとしての自分こそが「私」であるという信念を形成してゆく。その一体化こそを神秘家はぬぐい去れといっているのではないだろうか。

 マハラジの動画を見ると、ぶっきらぼうな粗野なおっさんだという印象がある。それでも話している内容はとても心理的、認識論的な内容である。けっして経典や教養のある高尚な専門用語で語らない。質問者からお金をとらなかったというし、グル的な威厳を見せつけなかった人だ。まさにタバコ屋のおっさんが、神秘思想を語るのである。市井に生きる人が、生の神秘から切り離されることはないのである。


▼かみつくような話し方のマハラジ。日本語字幕あります。






 
関連記事
01 26
2020

幻想現実論再読

禅風なアドヴァイダ――『絶対なるものの息』 ムージ

  

 ムージはプンジャジの弟子で、ということはラマナ・マハラシのアドヴァイダ(不二一元論)の系譜である。現代インド人の覚者ならヒンドゥー教なのだが、それはあまり表立っていわれない。

 ムージの本名はアンソニー・ムー・ヤングで、原著はこの本名で出ている。ジャマイカ出身で、ロンドンで40年以上暮らし、インドのプンジャジの弟子になる。ガンガジのような西洋人がインド風の名前を名乗るようなものか。

 この本は禅風の本人のイラストもはさまれていて、禅を感じさせる書物になっている。

 文章に銘記したい一節があるような文を書くタイプの本ではなく、全体でメッセージをつかめという本になっている。私は銘記しておきたい文章に出会いたいタイプだから、全体的なものをつかむのが苦手である。

 「あなたはそれである」――ゆえに努力や外側をさがそうとするなというメッセージをおもに語っていると思われる。私は外側に知識を漁りに行って、なかなか源流や「在ること」の意味をつかみかねるので、このタイプの教えが身につかない。なにもしなければ過ちをもった目でしかながめられないのだが、外をさがすのも禁止とされれば、どこへも行けないではないかといいたくなる。

 「真我」や「私は在る」といった言葉は、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラシの系譜を感じさせる言葉である。

 いちばん響いた言葉はつぎの一節である。

「マインドの書く記事はいつも過去のことであり、真実のイメージであって、決して真実そのものではありません」



 言葉や記憶というのは、それ自身であることは永遠にないのであり、いつもわれわれはこれをつかみにいって、「ほんとうのもの」「真実」をつかむことはない。それは「実在」しない頭の中のイメージにすぎないのである。この違いに気づかないと、私たちはずっと頭の中の夢の中で暮らすことになる。夢が実在を帯びた世界にとりこまれるだけなのである。

「あなたは神の存在を信じることはできますが、真実の存在を「信じる」ことはできません。あなたにできるのは、真我で「在る」ことだけです」



 言葉と「ただ在ること」の違い。言葉やイメージをつかみに行くな。

「自分と命は別のもの、自分というものがあり命というものがある、という考えが人類の精神の奥深くに根を下ろしています。
…あなたが生、命なのです」



 自分と命は分けることができない。命を切り離してしまうと、私は生きていない。言葉はいつも自分と身体や命といった別のものに分けてしまう。切り離して存在できるわけがないのだ。それをどの方向に展望していっても、同じ図式が広がることだろう。身体と世界、目と見えるもの、手と感覚されたもの――言葉やイメージに頼るな。言葉のないただ在るだけの存在に戻れ。





関連記事
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top