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02 27
2017

幻想現実論再考

「客観的世界像はルールにすぎない」――『「自分」を生きるための思想入門』 竹田 青嗣

4480421750「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 2005-12

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 共同幻想論やトランスパーソナル心理学を読みかえす期間がつづきます。

 共同幻想論を理解しようとしていたとき、それについて語った論者がいがいに少なく、言語論や記号論まで手をのばしてひじょうに苦労した。竹田青嗣は、「世界像はルールに過ぎない」とはっきりいい切った哲学者であり、ポストモダン思想をわかりやすく紹介してくれた貴重な論者である。

 世界像は共同幻想にすぎないということを理解するのはなかなかむづかしく、それだけに「世界像」「現実」というのは、この世界の「事実」や「自然」と思い込む力が強かったのだろう。この「現実」をひきはがすのに、ひじょうに苦労した。さらにその事実がルールや生き方になることの理解はもっとむづかしかった。

「人間にとって、客観的な現実というのはどこにもありません。現実とは、彼が自分の欲望に与えている関係的な秩序(その解釈)の形です。だから、一人一人の人間が自分なりの現実をもっているだけなのです。人が客観性とか客観的関係と呼んでいるものは、この解釈のうち、多くの人間が共有し、納得せざるをえないような部分のことです」



 竹田青嗣はここまで共同幻想論をいい切ったのであり、それはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」や、フッサールの「現象学」、あるいはニーチェの『権力への意志』などでいわれていることなのだと告げる。

 「世界像」「世界のルール」というのは、おのずからその生き方や指針をしめすものである。世界やものごと、自分をどう解釈するかによって、人の生き方、行動の仕方も変わってくる。世界像というのはルールなのであり、行動規律なのである。透徹した世界解釈である。

 これが「絶対的真実」があると信じた「モダン・近代」に対して、あるのは解釈にすぎないと相対主義を提唱した「ポストモダン思想」なのであるが、学校ではただひとつの答えをずっと教えつづけており、この思想と教育の乖離は、どうなるんだと思わずにはいられないが。

 客観的現実はどこにもありえない、真実と呼ばれるものにも根拠がない、ただ共同体での了解があるだけという世界観は、事実や現実があると思い込む人たちの虚実をひきはがす力をもちうるのだが、その世界観はひろく浸透せず、世の中にはただひとつの教えられた世界観があると思い込む人の信念は、揺るぎがたいものがあるのだろう。

 世界観に根拠はない、人間はエロス的欲望を生きるために世界像を選択するのだという竹田青嗣の考え方には、欲望肯定や容認のにおいがあって、わたしにはなかなか抵抗感があるのだが、もちろん竹田青嗣も自己中心的な生き方をすれば他者とぶつかり、挫折せざるを得ないと釘を差しているのだが、やっぱり鼻につく。

 わたしは欲望をミニマムにするほうが生きやすいという生き方をしてきたこともあって、欲望肯定の生き方はどうも受容しにくいのである。

 仏教は現実の幻想性を指摘して、その虚妄性をさとることにひとつの目的をおき、欲望を断った生き方をすすめる。幻想性をさとるには欲望を断たなければならないと考える。竹田青嗣は、そうすることが死後輪廻から救われると説いた仏教の「物語」だと否定する。仏教は物語を否定したからこそ、欲望も否定したと思うのだけどね。欲望は物語や世界観を立ち上げずにはいられないのである。

 岸田秀にしろ、竹田青嗣、中島義道といった心理学者、哲学者は、仏教の幻想性にかぎりなく近づいておきながら、仏教の側から語ることをいっさい拒否する。仏教は共同幻想論を語ったわけではないと思うが、現実の虚構性には深く言及した。「こちら側」の世界にとって、宗教はあまりにも迷妄すぎるから信じられないということなのでしょうね。



現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)哲学探究ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))言語ゲームが世界を創る―人類学と科学― (世界思想ゼミナール) (SEKAISHISO SEMINAR)

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02 22
2017

幻想現実論再考

幻想現実をひきはがせ――『ものぐさ精神分析』 岸田 秀

4122025184ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社 1996-01-18

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 約二十五年ぶりくらいに読みかえす。といっても岸田秀の「唯幻論」や「共同幻想論」ほどわたしに影響をあたえた思想はなく、この幻想現実をはがす探究にずっと費やしてきたといってもおかしくはない。

 ハラリの『サピエンス全史』が文明の発展理由に人類のフィクション能力をもちだして脚光を浴びたことにより、ふたたび「共同幻想論」をその後の検討もつけくわえるかたちで、再検討したくなった。しばらくは共同幻想論、ならびにトランスパーソナル心理学あたりを、この二十数年の結果をへての再検討の時期に入りたいと思う。

 岸田秀はこれが「唯幻論」「共同幻想論」の決定版だという本になかなかめぐりあえず、このエッセイを集めた本も共同幻想論だけをびっしりと語った本ではない。

 岸田秀は客観的には共同幻想のしくみを語るのだが、どのようなものが共同幻想であり、具体的にどのようなかたちをしているのか、なかなか語らない。共同幻想を自明な前提に語っているところがあり、その前の説明部分をしっかりとしてくれと思いたいところがある。

 なにより岸田秀の限界はすべてが「幻想現実」や「共同幻想」というのなら、それに囚われているわれわれはどうやったらその幻想現実からひきはがすことができるのか、解放されるのかをほぼ語らない。

 その幻想現実から引きはがす方法を説いたのが、仏教や禅であると気づくまでにはあと十年近くにリチャード・カールソンとかウェイン・ダイヤーの自己啓発の「思考は現実ではない」という説明に出会うまでかかった。つまり科学信仰と宗教忌避の考えがあるから、仏教がそんな幻想現実のひきはがしをおこなっているとは思わなかった。ぎゃくに神や仏を信仰しろという教えと思っていたのだが、仏教は幻想からの離脱を説いた考え方であったのである。

 つまり岸田秀の唯幻論というのは、物質主義の時代から精神主義の時代の変わり目を説いたのである。ぎゃくに岸田秀は幻想我により現実我の分離や危機にも気づいていたのであり、むしろ唯幻論は全能感をみたす幻想我の暴発をまねく思想でもある。

 「ナルチシズム論」で「幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである」というように、幼児の全能感をとりもどしたい現実から乖離した幻想我は、たえず暴走の危機におちいっており、それが現代日本の右傾化と日本賛美の時代潮流と重なっていることがなんとも悩ましい。

 岸田秀が心理学をこころざしたのは、強迫神経症に悩まされていたからであり、献身的な母親と思っていた女性が、自分の思い通りにしたいエゴイズムの女性であったと気づいたときにその症状がウソのように消えてしまったという。

 つまり岸田秀は自分が思っている観念に追い込まれたり、客観的現実と思っていることが自分を強迫的に追いつめる経験をしたからこそ、現実は幻想だという思想を必要としたのであり、現実と齟齬をきたさないとなかなか必要に気づけない思想ともいえるかもしれない。中島義道も自身の死の恐怖から逃れるために、客観的現実の幻想性をはがさなければならなかったわけで、世界の事実を知っており、それとの齟齬をきたさない者には必要とされない思想かもしれない。かれらは宗教を通さずに幻想現実を暴露する道を選んだ人たちである。

 「世界の事実を知っている」という者たちと、それは幻想にすぎないという者たちの対立は、現代でも科学やテレビの「こちら側」と、宗教の神に隷属する「あちら側」の対立でもおこっており、いずれも「事実を信じる」人たちの隷属はおこっているのだけどね。

 世界を事実だと思う人たちにそれが幻想にすぎないと説けば、世の争いは解けるかもしれない。だけど、幻想我はそれを解きたくないのである。世界を事実そのものだと思い込むといろいろ追い込まれることがあると思うのだが、そういう追い込まれた経験をしない人は、世界は事実そのものだと思いつづけたいものかもね。自分の「客観的現実」と思われるものに追い込まれないとね。

 二十数年ぶりに読みかえして、自由闊達なアイデア噴出がちょっと奇妙に思えるところもあったが、ほんとに鋭い洞察力があちこちに発揮された本であって、いちばん鋭い考え方は、「時間と空間の起源」かもしれない。

 「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する」

 人は全能だった幻想我から引き離されてゆき、「人間は憎悪のうちに現実を発見する」。空間はその屈辱感によって発明される。時間と空間が壮大なフィクションであるということに気づくには、人は想像力にまみれた幻想現実の住人に長らくひたりつづけて、そこからもう出ることができなくなっているのである。

 仏教や禅が、幻想現実は思考によってたえず産出されており、そこから抜け出すために思考の根を断てといったのだが、この一歩に踏み出すまでに、現代のわれわれはあまりにも世界の事実を信じ、宗教の忌避感をつちかわれているのである。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福リチャード・カールソンの楽天主義セラピーどう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)唯幻論大全史的唯幻論で読む世界史 (講談社学術文庫)


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02 17
2017

右傾化再考

時間の浪費でした――『わが闘争(上)(下)』 アドルフ・ヒトラー

404322401Xわが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
アドルフ・ヒトラー
角川書店 1973-10

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4043224028わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)
アドルフ・ヒトラー
角川書店 1973-10

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 読む進めるのが苦痛な書物であって、上下巻ぜんぶ読み終えるのに三週間はかかった。

 おそらく上下巻読み通せた人はそう多くないと思われる本で、一時期書店におくことが忌避される世論もあったが、まあ本屋においていても、たいていの人は読み通せず、意味もよくくみ取れず、部分的解釈にとどまる書物に思われるので、書店においておいても無害だろうなくらい苦痛な書物である。

 べつに難解な文章ではないのだが、時代背景や固有名詞の意味が歴史的に古びて通じない部分もだいぶあるので、よくわからないところが多く、こんにちこの本から強い影響をあたえられることは考えにくい。

 わたしにとってもこの本からうることは少なく、十全な解釈をできたともいいがたく、鋭利な洞察眼をはたらかされたわけでもない。三週間もムダな時間を浪費し、ついでにほかの興味も逸せられる状態におちこんだくらいだ。

 ヒトラーはとにかくユダヤ人が嫌いであり、生理的嫌悪感までももっており、あらゆる悪の責任をユダヤ人に押しつけていることがこの本のあちこちから読みとれる。これってもしかしてユダヤ人陰謀論?とも思えたのだが、そこまでユダヤ人嫌悪に陥った理由がよくわからない。

 民族的・人種的な純粋性やアーリア人種の優越性をのこしたいがゆえにユダヤ人を嫌悪したともいえるし、マスコミ産業の多くをユダヤ人が占め、ドイツ国民の破壊工作をしているだの、当時力をもったマルクシズムへの強烈なライバル意識や民主議会への怒りなどさまざまなものが混入して、ヒトラーの中でのユダヤ人嫌悪は最高潮にたっしていたようだ。

 梅毒患者への断種を語っている節もあり、ユダヤ人を毒ガスで抹殺していたらドイツ国民の多くの命を失うことがなかっただの記述も見受けられ、のちの危険な思想はこの本のなかで垣間見ることができる。

 まあ、わたしにとってはこの本を読んだからといって、ヒトラーの秘密や謎を解けたというわけでもなく、ムダに多くの時間を割いてしまったという失敗の意識のほうが強いだろう。

 もっと入門書や解説書から入って、まわりを固めてから読めば読解度もちがっていたかもしれないが、ちょっとのぞいてみましたという読了に終わりそうだ。まあ、ちょくせつにヒトラー自身の思考や考え方の流れにつきそったという部分では、言外の収穫はあるのだろうけど。

 ドイツ本国で70年ぶりにこの本が発売されたというニュースがつたわってきた。ヒトラーのアウシュヴィッツ虐殺は現代社会のへそのような世界観をつくってきた。それゆえにそのへその攻撃による世界観の転覆をもくろむ試みがあちこちで浮上する時代になった。社会というのは、ひとつの制度的寿命というものが70~80年という説を思いおこされる現象である。


続・わが闘争―生存圏と領土問題 (角川文庫)帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)新訳 ヒトラーとは何かユダヤ陰謀説の正体 (ちくま新書 (223))


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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