HOME
08 01
2014

右傾化再考

右翼はポジティブ心理学、左翼はネガティブ心理学、けれども

 右翼系の見たくないものを存在しないといいはったり、自画自賛に陶酔する姿勢とか見ていると、なんとなくポジティブ心理学に通じるものがあると思ってきたのだが、政治にたいする姿勢と心理学の態度というものは共通するものだろうか。

 ポジティブ心理学というのは前向きだとか積極的になれといったり、ネガティブな言葉に心奪われるなといった姿勢をもつ。ポジティブ心理学といえば、日本では95年に450万部のベストセラーとなった春山茂雄の『脳内革命』からはじまる。バブルが崩壊して、暗い将来に光をさすような現象をあたえた。リチャード・カールソンの『小さなことにくよくよするな』もベストセラーとなった。

 小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』や藤岡信勝の自由主義史観や自虐史観の批判といったものはバブル崩壊以後、経済大国の自尊心がゆらぎはじめたころから話題になり出した。下り坂の暗くなる心情になんとか棹差そうとした流れは、ポジティブ心理学の興隆とときを同じくしてあらわれてきたものではないのか。

 前向きで暗い気持ちになるなといった激は、日本の自画礼賛本の氾濫にも通じる。「自分のことは悪くいうな、もっとほめろ、よいところを見つけろ」、ポジティブ心理学はそういってきたのではないのか。日本の自画礼賛もおなじことをいっているのではないのか。

 嫌韓嫌中本の氾濫も、ネガティブな気持ちに心奪われるなといったテーゼを、悪しざまに罵る相手にたいしてバッシングや叩くことによって、そのネガティブさを追い払っているのではないのか。ネガティブ心理を追い払っているのである、ポジティブではなくてネガティブな方法で。ポジティブ心理学というのは、ポジティブを擁護するために、ネガティブな言葉をネガティブな反応で裁断する逆説も存在するのである。

 右翼系の人が攻撃する自虐史観というのは、自虐にふけるためではなくて、改善や向上のための欠点や不完全な点をあぶりだすことで、進歩や前進がおこなわれてきたものであって、かならずしも後ろ向き、破滅志向であったわけではない。発展後進国として、欧米と比較して日本はこんなに立ち遅れていると問題のありかをしめすことによって、改善や進歩をおこなってきた。自虐という言葉はあたらない。

 いっけん、ネガティブ言説にまみれた批判であったのが、それは向上や進歩のためである。欠点や短所の改善、改革のためである。戦後の日本はこの欠点改善によってその歩みを前進・向上させてきたのであって、自虐という言葉はあたらない。

 この一群の流れは進歩史観とよばれ、左翼思想系の人たちの改善・改革運動を促進してきた。いっけん、ネガティブなのであるが、その先には進歩と向上という目的があった。それゆえに戦後の日本は発展向上してきたのであり、この流れをネガティブ心理学とくくってみると、過ちや間違いに満ちていたわけではない。「自虐」を通して改善と発展がめざされたのである。ネガティブ心理学に悪い面ばかりあるわけではないのである。

 日本の戦後の人はメランコリー親和型といわれたり、ネガティブな人たちであったかもしれないが、その先にはポジティブな目的をもっていた。メランコリーな人たちは「後の祭り」的な過去をいつまでもくよくよ悔いる姿勢をもっていたのだが、そのために過去を悔いないための未来の几帳面さ、用意周到さ、計画性をもたらした。つまり未来のために過去を悔いた。このような遺産を自虐のひとことで葬り去るのは、おおかた先人の貢献をないがしろにしている。

 こういう人たちにとって、「能天気」なポジティブ心理学はひじょうに抵抗感をもつ軽薄な思潮に思えたことだろう。自分たちのネガティブで慎重な姿勢が手堅い成長をもたらしてきたのである。それを手放して哄笑に生きろといわわれても、自分たちの欠点といわれる点を反省はできても、長所はまったくなかったのかと了承はできないだろう。

 なにより戦後の人たちが警戒してきたのは、能天気なポジティブ心理学を戦時中に見たことではなかったのか。不都合な店に目をふさいだり、現実に目をそらし、精神主義で、先の戦争は戦われたのではなかったのか。この精神主義は、あたらしく出てきたポジティブ心理学とどこか似ているのではないか。

 ポジティブ心理学は前向きで積極的、自尊に満ちた自分を肯定し、ネガティブや後ろ向きな姿勢を拒否する。それは現実の否認や否定のことではないのか。この心理的姿勢はいつかでどこかで出会ったものであり、その破産を目の当たりに体験したからこそ、慎重なネガティブ導入によって、向上や進歩の迂遠目標を立てたのではなかったのか。

 90年代以降、経済大国の自尊心は凋落し、忘れ去れ、自信とほこりが損壊してゆくばかりである。現実を否認して、前向きにポジティブな心情で、自身や国家をとらえたい。そういった勃興はいたしかたないかもしれない。

 こんにちの日本の自画自賛本や嫌韓嫌中本の氾濫は、ポジティブ心理学の興隆と絶頂でもあるのではないか。しかしそこに陥穽や落とし穴を、戦前の人はおおくの辛酸をなめさせられたのではないのか。これはいつか来た道ではなかったのか。


脳内革命―脳から出るホルモンが生き方を変える悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人革新幻想の戦後史オプティミストはなぜ成功するか時間と自己 (中公新書 (674))

関連記事
07 27
2014

社会批評

犯罪者報道の不快さとロリコン・オタクのポリティーク

 少女誘拐のような事件がおこると決まってマンガ・アニメに親しんだ犯人像が報道をにぎわせ、そういった趣味をもつ多くの人は不快な気分におちいることになる。「おまえは犯罪者だ」といわれているような気分にさせられる。

 犯罪者は、その犯罪者特有の性格ではなくて、その時代の多くの人が共有している趣味や嗜好をもっているのはとうぜんのことである。大多数の人が共有しているものをもっているのが時代を共にする人がもっている特徴なのであって、犯罪者だけの特殊な性向をさがすほうがむしろむづかしい。犯罪者報道はその特徴を多く共有する人たちに、「犯罪者予備軍」のレッテルや疑いを貼って、多くの人を不快な気分にさせる。

 犯罪報道は犯罪者特有の犯罪にむすびついた性向をあらわす意味でその性向や特徴をあらわそうとするのだろうが、おおくのばあいは時代を共有する人の特徴をあらわすにすぎず、「犯罪者あつかい」された人たちは不快な気分を味わうことに終わる。


こんにちの選別・排除する権力

 この報道は現代の統制や排除としてはたらく権力として機能しているのだろうか。「犯罪者あつかい」されるような趣向や嗜癖をへらし、もしくは威嚇する機能としての権力をにぎっているのだろうか。

 人々を「選別し、序列づけ、排除する」ことがこんにちの権力者の要件である。それはこんにち学校や医学が担っている。学歴で選別づけられた若者たちは企業のヒエラルキーによって序列・選別され、それぞれに遇した人生環境を割り当てられるようになっている。学校は人生を選別する巨大な権力をにぎっている。

 だから非行少年や不良学生は自分たちの地位を低く貶める学校に反抗したのであり、この権力にたいする反抗は、TVでのお笑いの勃興やマンガ・アニメでの趣味の世界への逃避・反逆をもたらしている。

 医学は伝染病やばい菌といった人の生死をおびやかす病気を排除する知識であって、まったくの「正義」と思われているのだが、たとえばその排除のはたらきは、子どものいじめの「ばい菌」あつかいに端的にあらわれているように、人の「合格/不合格」を選別する権力も担っている。医学は「正義」ゆえにその選別・排除の方法は、「聖化」をおびて権力の絶対化をもたらす。現代の嫌煙運動にその作用をみとめることができるのではないのか。

 犯罪報道というのは、この選別と排除の権力をTVや新聞のニュースが左右しているあらわれではないのか。犯罪者という「人間でないおこないをした者」、「こちら側ではないあちら側の者」という選別と排除をすることによって、「われわれ」の世界からの追放と線引きがおこなわれる。「おまえも犯罪者」という疑いや不審をまき散らすことによって、この権力者はみずからの力を増大させているのではないか。

 「犯罪者」として疑われること、見間違われることほど不快やいやな気持ちになることはない。それはかつ低成績学生が教師にレッテルづけられた不快感と似ているだろうし、学校空間でいじめをうけ排除された子どもの心に通じるものがあるかもしれない。選別と排除の権力は、われわれを一方的に裁き、序列づけ、排斥する権力を有するのである。


オタクはなにと闘ったのか

 少女への性犯罪がおこるとオタクほどまっ先に疑われる趣味の人はいないだろう。なぜこの人たちはこんなに疑われ、嫌悪され、親の仇のようにされるのだろう。オタクはなぜこんなに関係性をこじれさせたのだろう。嫌悪や犯罪の脊髄反射的な反応だけではなく、違った見方を見てみたい。

 そもそも、オタクはレジスタンス(抵抗・反抗)であったと思う。低序列、差別化された自分たちの境遇を、マンガ・アニメという二次元にこもることによって、その選別の権力を「無化」、あるいはスルーするいっしゅの戦略であったと思う。学校の権力に低序列化された者たちが反逆をくわだてたように、オタクたちもみずからの砦にたてこもって、「たたかった」のである。

 「イケメン」であったり、「モテ」であったり、「リア充」、「恋愛至上主義」、もしくは恋愛・結婚の「金銭・功利化」にたいする抵抗であり、篭城ではなかったのか。二次元に篭って、リアルな男女関係からの逃走をはかった。

 基本的に男女平等社会における逃亡や篭城ではないのか。「男のいうとおりになる、いいなりになる、自分の思いのままになる世界」をマンガやアニメにもとめた。独善的な利己主義な世界が叶わないなら、二次元の創作や妄想の世界でたのしんで、そこから出ることはない。

 こういったレジスタンスによって、女性からの嫌悪や風当たりは強くなっていったのではないのか。これは男の意のままになる「ポルノ」である。現実の女性の抵抗や葛藤をこうむることもない。ある意味、女性の地位向上や権力増強においての男の抵抗や不承認であり、また男の弱さ・メンツなどの脆弱さの保護でもあったのだろう。

 女性の地位・権力が上がるにしたがい、男のメンツや沽券といったものが叶わなくなり、逃走したのが二次元のオタク空間ではなかったのか。それによって思い通りになる、男の欲望のいいなりになる女性の低年齢化・少女化はすすむことになった。男の地位やリードが可能になる女性は、低年齢化によってしか補えなかったといえるだろうか。

 ロリコンというのは女性が強くなったゆえの、男性の思い通りになる女性の低年齢化によってしか贖えなかった男性の弱さ・脆弱さを意味するのではないのか。少女を愛するというよりか、思い通りに、男の沽券を満足させる女性は、低年齢によってでしか満たせなかった男の隘路をあらわすのではないのか。


男と女の力関係のバトル

 じつはロリコン問題というのは男と女の力関係のバトルが、少女に降りてきたのではないのか。

 ひとむかしまえの男尊女卑の時代なら、女性の結婚年齢が12、3才になって男ののぞむように結婚年齢が低年齢化していたこともありえたかもしれない。歴史的にも世界的にも結婚の低年齢化はふつうにある。

 これはある意味、労働者の低年齢化による青田買い、低時給化の流れと似ているといえるかもしれない。児童労働なら大人のような高給も払わなくてすむといったかたちで、それが禁止されるまえに児童労働は横行した。工場は低時給で働ける児童を欲し、それがだめになると世界の低賃金が可能な国に労働力を求めた。

 ロリコンも青田買いである。男のいいなりになる、思い通りになる女性の青田買いである。それを女性が徹底的に嫌悪し、警察関係も取り締まる。男の低賃金夢想は、どんどん低年齢に降りていったのである。

 嫌悪感や不快感でロリコンというのは禁忌されるのだが、それは女性自身の低価値化の防御であり、安売りされてしまうことの抗戦なのであろう。

 男は安く買おうとして、女は高く売ろうとする経済的攻防がここでくり広げられているのではないのか。

 じつはこの問題は男女の権力関係、力の拮抗を闘う場ではなかったのか。男のいいなりになる女性を男は求めて、女は男のいいなりになんかはならないといった闘いが、少女への性犯罪周辺でおこっていることではないのか。

 性犯罪問題というより、ポリティカル(政治力学的)な問題ではなかったのか。オタクは三次元の夢想をあきらめ切れなかったのだろうか。


欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)明治のセクシュアリティ―差別の心性史男権主義的セクシュアリティ―ポルノ・買売春擁護論批判 (シリーズ現代批判の哲学)セクシュアリティの戦後史 (変容する親密圏/公共圏 8)


関連記事
07 26
2014

右傾化再考

戦前と戦後はどうして下り坂時代の共通のわだちを歩むのか

 バブル崩壊以後の下り坂時代のわだちは、戦前の大正・昭和といった時代にも同じようなわだちをたどることができる。そのために大正・昭和時代の本の読書がやめられないのだが、おおきな特徴を描いておきたいと思う。

①国家目標の達成と喪失

②青年たちの自分探し、煩悶の時代

③格差、貧困、金権政治

④無差別殺傷事件、テロ事件

⑤国家自尊心の再興・右傾化



 戦前も平成も国家目標のいちおうの達成によって、下り坂時代をむかえている。目標を達成してしまえば、結集や持続の力もうしなわれて、漂流しはじめる。

 明治は富国強兵の目標、戦後の昭和は経済大国の目標。頂点にたどりつくころには青年たちに疑惑と不審がいきわたっており、明治では「高等遊民」や「閉塞状況」という言葉によって捉えられ、昭和後期では「無気力」、「モラトリアム」、「フリーター」といった言葉で捉えられている。もう国家目標に添えない若者たちが足元の地盤をくずしているのである。

 平成になってバブル崩壊後のリストラによって多くの中高年が自ら命を断つことが多くなった。近代の終焉を迎えてしまって、「さみしい大人たち」は目標やよるべきところをうしなってしまったのである。平成はポストモダンをむかえたといえるのだが、明治後半にも第一回目のポストモダンをむかえていたといえるのではないのか。

 平成の下り坂時代には「自分探し」の時代がやってきた。海外旅行や自己啓発、フリーター漂流などで自分の生き方を探った。明治後半には「煩悶」の時代とよばれ、青年たちは哲学や宗教などに迷いの先をもとめた。与えられた国家の目標に結集できない若者たちは自らの道を探るしかなかったのだが、個別的な探究ゆえにいぜんの国家目標のような熱中や集中を世間にもたらすことはなかったのである。

 平成の世は「就職氷河期」の時代とよばれ、非正規という企業や国の保障にあずかれない若者たちを大量に生み出し、「格差社会」や「貧困」が社会問題になった。明治末の石川啄木も、大卒者の半数は職がないと嘆いていた。

 大正・昭和初期にも凶作や恐慌が都市貧困民や農村をたびたび襲い、労働争議や社会主義運動、プロレタリア文学がおこったのだが、首相が一年ごとに変わるという現代にもあったような政治の無能ぶりや無策ぶりを露呈され、改革や革命の気運はもりあがりつつあった。

 下り坂時代と未来の見えない時代の平成の世に、オウム真理教事件や無差別殺傷事件がたびたび世間を騒がせることになった。平成の世は、「モノの時代から心の時代」というかけ声のゆえにこれらの事件は「心の闇」といった心理学的見解で見られることが多かった。問題があるのは個人の心の内部であって、人々はトラウマといった内閉的な理論に満足していた。

 これらの一連の事件を大正・昭和初期に対置してみると、この時代には国家権力層をねらったテロが頻発していたのである。富豪や首相、大臣などが暗殺のターゲットにされた時代があったのである。世は労働争議や社会主義、プロレタリア文学の時代である。既成権力を総抹殺して、あたらしい体制を打ち立てるといった気運と危機が、この時代をおおっていた。

 対して平成の世はノン・ポリティカルで、ポップ・カルチャーの時代である。若者は政治に興味がなくて、政治に実行能力を期待してなくて、個人的幸福、個人的功利に満足する時代である。したがって政治に責任を問うより、個人の能力や資質に問題がもとめられ、人々の怨嗟や憎悪の声はかき消されていった。戦前にくらべて平和な時代だったのか、それとも禍根をより残すようになったのかはわからない。

 下り坂の時代は日本の経済競争力をどんどん落としてゆき、かつての経済大国の自負心を生まれたあとに一度も知らない世代が育ってゆく。韓国や中国に経済力の追い上げを喰らい、2011年には中国にはGDPの二位の席を奪われてしまった。

 自国の自尊心消失のころと時を同じくして、歴史観や民族観に自尊心をとりもどす動きや活動が目立ってきた。自虐史観をかなぐり捨てて、自由主義史観をとりもどせといった活動が、人々の心をとらえる。

 戦前においてはそれは復古思想や右翼思想団体の活動といったかたちであらわれていた。欧化と国粋というかたちでの対立は明治からあったのだが、大正・昭和と時をへるにしたがって、右翼思想の台頭がおこるようになる。政府や財閥は社会主義運動を弾圧するために右翼団体にカネを流していたという話もあり、その流れが軍部と手をむすんで、のちの政府の方向を期せずしてつかんでゆくことになるのである。

 大川周明はちょうど明治のピークのころに成人し、その後の没落や煩悶の時代を生きた青年の典型だということができるかもしれない。大川は日露戦争に勝利したアジアの解放者としての日本を、「アジアの指導者」として「再興」しようとした第二の国家目標を打ちたてようとした男だということができると思う。その第二の国家目標がその後のアジアや日本に惨劇をもたらすのだが。

 平成の世も国家の自尊心をとりもどすべくネット右翼とよばれる人の台頭や、自尊的国家観の復権、右傾化と警戒されるかずかずの運動がおこってきた。ヘイトスピーチなどは他国を蔑視することでしか保てない自尊心の心細さが見えてくるかのようだ。

 人々は下り坂の時代を個人的幸福をもとめるという方向でしのいできたのだが、多くの個人で抱えきれなくなった人たちは国家や集団というかたちで自尊心をとりもどす方向に回帰したいかのようである。個人の幸福を追求し、国家の介入を嫌悪する人たちが大半に思えるのだが、下り坂時代の自尊心や生きがいを見いだせず、生きる価値を見いだせない人たちはより大きなものへの力に頼り、もとめるようになるかもしれない。

 その閾値が決壊して、おおぜいの人が逆転するような契機がなにかでおこるのだろうか。戦後の人たちは高圧的な軍部や政府に戦争にかりたてられていった被害者としての視点で先の戦争をとらえているのだが、この歴史のアナロジーでみてみると、国家的自尊心の再興をもとめたのはわれわれ自身ではないのか。戦前ではその再興のこころみが、凄惨な未来をかたちづくったのではないのか。

 現代が戦前とおおいに異なっている点は、現代がとてつもなく非政治的で、個人主義的である点である。おおぜいの人は国家主義などに目もくれず、個人的幸福を追求している。ネット右翼やヘイトスピーチなど一部の人たちだけの話と思っている。ただこの勢力が権力をもったり、逆転する日がいつか来るかもしれない。

 日本の歴史を見るところ、一度目はおおいに成功するもののようだ。しかし二度目の再興・復興はおおいなる惨劇をもたらす。第二の再興者たちが同じわだちを踏まないような警告をしめすことができるだろうか。

 現代と戦前のたどった精神の道が似ているように見えるのは、国家目標の喪失とその後の精神の流れが同じような反応をへているからだろう。基本的に日本は国家的自尊心の消失にどう対応するかという同じ問題にまたもやつきあたっているのではないのか。


同じ問題意識だと思われる中島岳志
朝日平吾の鬱屈 (双書Zero)血盟団事件秋葉原事件 加藤智大の軌跡 (朝日文庫)アジア主義  ―その先の近代へ帝都の事件を歩く――藤村操から2・26まで


関連記事
google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
twitter
これから読む本
北一輝論 (ちくま文庫) 日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス) 文学者たちの大逆事件と韓国併合 (平凡社新書)
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

FC2カウンター

Page Top