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04 21
2017

幻想現実論再読

世界から切り離された自己――『無境界』 ケン・ウィルバー

4892031143無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー 吉福 伸逸
平河出版社 1986-06

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 西欧の知識や学問ばかりたてまつっている人にははじめて仏教や悟りがなにをいっていたのかわかる本になるだろうし、なにより西欧的などこまでも説明つくそうとするスタイルは、日本的な仏教とちがって、われわれにもっとなじみ深くなっているだろう。

 ケン・ウィルバーは西欧的な心理学――フロイトやユングから、東洋的な宗教までをひとつの階層として統合しようとした人であり、この本を読むことによって総合的に心理領域の知見をもっと広めることができるだろう。

 人間は境界を打ち立てるから、その対立や闘争に駆り立てられるのである。境界のために分断された向こう側からたえず復讐や攻撃をうけるように感じてしまう。

 われわれは自分の欠点や劣等感を隠そうとするが、その隠そうとしたことが境界を打ち立て、いつまでもぬぐいきれない神経症的症状や、どこまでいっても排除できない嫌悪する他人となって終始、自分につきまとうように感じられてしまう。

 自分にとって不都合な像を抑圧しようとしたために、浮上しようとする片割れは、自分を責め立てるようになってしまう。これが人間が最終的に打ち立ててしまう「仮面と影」のレベルである。われわれは自分のよからぬ面を抑圧したり隠そうとして、その「非自己」から追い立てられることになってしまう。

 われわれは最終的にはこの「仮面と影」の自我にいきついてしまうわけだが、その前には自分から身体を切り離して、あたかも身体は自分ではなく、自我によって操縦される乗り物のような感覚になって、身体を分断してしまう。

 そしてこの論でいけば、環境すらも自分から切り離した「自己」であったということになる。人は「自己であらざるもの」としてさまざまなものから、自己を切り離して外界をつくってゆくわけだが、仮面のレベルにいきつくまでにさまざまな切り離しがあったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するところである。

 ケン・ウィルバーは境界という空間的な見方でこれを説明するのだが、わたしは空想や幻想というアプローチで進んできたこともあって、すこし空間的な捉え方をするケン・ウィルバーには違和感がある。

 唯物論的な分断、自己の切り離しから、すべては心だという唯心論に帰る見方だという理解のほうが、わたしにはわかりやすい。

 他者がわたしに悪いことをしたからわたしの不快な気分はつくられたのだといった見方や、他者の悪い行いや言動を変えない限りわたしの心は晴れることはないといった捉え方は、自己と他者・外界を切り離した考えからおこる。

 対象もわたしの考えや思いであり、それによって自分の感情は変わり、考え方を変えればその感情は変わるし、さらにその思考をなくせば、そもそも感情すらない。「外界はわたしではない」という捉え方のまちがいは、このアプローチのほうがわかりやすい。

 「外界や他者はわたし」なのである。それは自分の心に属するがゆえに、わたしの感情や気分を決定する。外界は自分の心ではないと思っていると、他者や世界が変わるまでわたしの心が晴れることはない。それは自分の思考という原因を見極めないばかりに、他者の言動やおこないに終始、犠牲者にされる哀れな被害者になることである。

 それは素朴な「認識の誤り」というものでしかないものである。宗教というのは、たんに人間が陥ってしまう認識の誤りを訂正するにすぎないのではないかと思える。

 人は世界から切り離された分離した自己という捉え方を打ち立てる。そのことによって根絶やしにしようとした「自分ではないもの」にたえず復讐されたり、襲撃されるように思う事態におちいってしまう。外界との分断、切り離しが、われわれにさまざまな不幸をもたらすのではないのか。

 なにかを見よう、分析しようとしたとたん、体験や経験から切り離された自己が生まれる。体験そのものの経験から、それを見ているわたしという分断が生まれる。そうして世界から切り離された自己という強固な思い込みはどんどん成長してゆくことになるのではないだろうか。

 われわれは自我から不都合な影を切り離したように、身体を切り離し影にして、また環境も自我から切り離して、外部の影にしてしまったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するとことである。

 こういう世界観が信じられないとしても、途中のレベルではずいぶんと癒しや強力なセラピーとなるものである。とくに思考や感情に同一化しているわたしたちにとって、それらからの脱同一化は、われわれをずいぶんと安らかな境地におく。西欧心理学や自己啓発でこのレベルのセラピーを教えてくれることはまずない。

 ただケン・ウィルバーは思考が幻想や虚構であること、それが存在しないことといったアプローチからはあまり説明してくれない。過去の想起や思考が幻想であり、存在しないこと、この実感がより自身を癒してくれるセラピーになる。

 われわれは目の前に存在しない言葉や思考、会話をもつことによって、ずいぶんと幻想や虚構の世界に生きている。このことの理解のほうが、わたしにはもっと強く望まれる知見なのである。

 われわれはたえず「あるがまま」や「いま、ここ」といったものに「抵抗する」。悟ろうと意志することすら「抵抗」である。思考や想像というのは、目の前にない世界への飛翔である。わたしが融けてなくなってしまうことを恐れてしまうのだろうか。



万物の理論-ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで-万物の歴史インテグラル・スピリチュアリティ存在することのシンプルな感覚統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へ


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04 14
2017

幻想現実論再読

過去の蓄積の全否定――『自我の終焉』 クリシュナムルティ

4784101306自我の終焉―絶対自由への道
J.クリシュナムーティ  根木 宏訳
篠崎書林 1980

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4864511713最初で最後の自由(覚醒ブックス)
J・クリシュナムルティ  飯尾順生訳
ナチュラルスピリット 2015-07-22

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 クリシュナムルティをはじめて読んだ人は、いままで聞いたこともないような言葉のつながりに面喰うと思うが、一、二度読んだだけで理解できるようなシロモノではないと思う。

 明晰さを極めているのだが、最後の最後には人に教えられたこと、知識として本で読んだこと、自分の体験したこと、考え、過去や思考といったもの、クリシュナムルティのいったこともすべて否定した地点に、自分の足でたどりつけというのだから、言葉や観念に道しるべを求めてきた人には、そうとう混乱する。

 言葉や観念によって導かれるものは、過去や思考の投影したものでしかなく、「未知なもの」、「新しいもの」、「真の実在」といったものには出会えないのはとうぜんだというのである。

 透徹した明晰な心理学者につれられて、最終的にたどりつく地点は、禅僧の公案のような次元である。

 だから瞑想のような訓練や鍛錬でみちびかれるものも否定するのであって、意志の力でなされたものは、自我の拡張でしかないと喝破される。

 精神の働きを凝視して、自己認識をへた先にようやく「真の実在」はむこうからやってくるのだという。

 われわれがおこなう意志や思考、観念のよる努力はすべて逃避や回避でしかなく、自我の拡張でしかないのである。たえまない精神の凝視と理解の先にしか、あるがままに出会えないというのが、クリシュナムルティの核である。

 けっきょく、それは自我の安心や満足を求める行為でしかなく、そこに未知なものや真の実在には出会えないのである。

 過去の蓄積や持続、過去や思考からの投影では出会えない世界こそが、クリシュナムルティの導こうとしている先である。

 言葉や観念によってわれわれは導かれようとするから、未知なものに出会えない。これがむづかしすぎて、わたしなんか意志と観念による無思考の状態に安寧を求めてしまう。すくなくとも表面上には波風たたない安寧の状態がひろがっているように見えるが、クリシュナムルティによれば、それは死んだ状態にすぎないといわれる。

 クリシュナムルティの次元はたいそうむづかしく、わたしにしてきたことは、意志と観念による操作にすぎないということになる。

 意志や観念による操作もある地点まではいけると思う。クリシュナムルティの明晰さ、思考の論理性も、言葉による誘導であって、それがすべて反証の材料となって、過去の蓄積のない絶え間ない精神の凝視となって結実してゆくのだろう。

 クリシュナムルティの方法は、理知的な考察の果ての断罪やあきらめの地点につれてゆくことなのだろうか。このアプローチが合わない、むずかしすぎてたどりつけないという人もおおぜいいるだろう。

 わたしは自己啓発のウェイン・ダイアーの「思考は現実ではない」という言葉に目覚め、リチャード・カールソンの「思考は悲観に導く」、ジャンポルスキーの「他者や外界はわたしである」という道筋に理解をもとめてきた。ハリー・ベンジャミンの「自我は自画自賛のキャンペーン」であるということに、自我の情けなさも感じてきた。

 基本的に自己啓発系統は、言葉や観念による操作や誘導をおもとするものである。思考のリアリティーやヴァーチャルの世界を、言葉によって理解したり、消し去ろうとする意志をもつアプローチ法である。

 この方法にはたしかに心理セラピーの強力な面をもつのである。しかしクリシュナムルティは最終的にはこの方法も否定して、過去の蓄積なしの凝視に求めるわけだから、この地点でつい戸惑ってしまう。わたしはたんに心理的な安寧や満足を求めているにすぎないのか。それこそが、回避や逃避だと、クリシュナムルティの鋭利な眼は洞察するのである。

 意志や観念による操作によって得てきた心理的安寧をクリシュナムルティにとりあげられて、その心理的充足も手放せないなあ、とクリシュナムルティのまえで立ちすくむのである。

 わたしはまだ「想像力が存在しない」という理解を求めているのだが、それでは未知なものには出会えないのだろうなあ。

 なおこの本はイギリスで1954年に出されたクリシュナムルティのいちばん古い本で、その後は講演をあつめたものが多く、まとまった内容の本としては、この本がいちばんなのかな。さいきんは異なったタイトルで再訳されている。

 クリシュナムルティはほかに何冊か読み、『生と覚醒のコメンタリー』全四集は三冊まで読み、あと一冊はもっと理解が増してから読もうと中断したままだが、クリシュナムルティの理解はそれほどむづかしいということである。


スタンフォードの人生観が変わる特別講義 あなたのなかに、全世界がある既知からの自由思考の限界 ―知性のまやかし―静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉

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03 29
2017

幻想現実論再読

人生を変える本NO.1――『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン

4393710312楽天主義セラピー
リチャード・カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

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 この本を知らずして、どうやって心の健康を保てるのかと疑問に思えるほど、すばらしい内容の本なのだが、絶版状態のまま文庫本にも回収されないのがナゾに思えて仕方がない。

 二十年ほど前にうつ病寸前のわたしはこの本を読んで心の革命を経験して、自分がしてきたことの愚かさをようやくわかった。それまで自己啓発のウェイン・ダイアーやノーマン・ピールの「思考は現実ではない」という意味の理解をなんとか自分のものにしようとしていたが、この本こそまさに求めていた本そのものだと思った。

 その後、リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』は全米で500万部のベストセラーとなり、日本でも98年に170万部のベストセラーとなった。だが、この本の薄さ、軽さは、この思考の原理について説明した『楽天主義セラピー』にはとうてい及ばないもので、こちらこそロングセラーとなるべき本だと思うのに、軽い自己啓発のコラムニストとして消費されて終わってしまったのかもしれない。カールソンの45歳というとつぜんの早逝が惜しまれる。

 カールソンは思考が感情をつくっており、悲観的な気分のときに考えるとますます悲観的な思考をよびだして、よりいっそうみじめな気分になるということを、論理的に詳細に説明してくれた。われわれはこの原理さえ知らず、いや思考があることすら忘れているのではないのか。

「彼は、自分が思考を生み出していること、そしてその思考が不幸の源であることに気づいていませんでした。彼は、思考は自分の中からではなく、まわりの出来事から生まれると感じていました」



 われわれの社会は、手放しの思考を推奨する社会であり、思考しないことは痴呆であり、隷従だと教えられる社会である。思考は賢明であり、知性を付け足すものであり、すべてのものごとや過去は思考の検討をおこなわなければならない。そのことによって、思考が感情や気分を生み出すことを知らないわたしたちは、否定的で悲観的な感情をずっと自分に浴びせつづけることになるのである。

 思考と感情のつながりを知らないばかりに、わたしたちは世界の犠牲者のように思い、自分の思考が自分を傷つけていることを知らずに、他人や世界の責任にしつづける。思考と感情の因果を知らないことは目隠しをされて、自分で自分をつついているようなものだ。

「重要な点は、想像によって再現された喧嘩は、あなたが現に生きている今では、たんなる思考であり、頭の中で創られた出来事にすぎないということです。

思考は現実ではないということ、つまり、思考はたんなる思考でしかなく、思考そのものが自分を傷つけることはないのだとわかってくると、あなたの人生は今日から変わりはじめます」



 わたしたちは思考にすぎないものを、現実やリアルに迫るもの、真実や実体あるものとして経験している。この実体視をはがして、思考は思考にすぎない、たんなる考えや想像にすぎないと心の底から実感するには、ずいぶんとこの考え方をなじませるまでに骨を折らなければならないほど、思考のリアリティの世界で生きている。

 わたしはこの「思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎない」ということを実感するために、その後トランスパーソナル心理学や禅・仏教などの書物を漁らなければならなかったのだが、それだけ思考の実体化という習慣にどっぷり首まで浸かっていたわけだ。この思い込みに気づかないまま、一生を送る人だってたくさんいることだろう。

 この本は仏教でいう「悟り」をどこまでも言葉と論理で説明しきった本といっていいかもしれない。わたしたちは思考の現実視という過ちから、かんたんには抜け出せないのである。

 思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎないということから、落ち込んでいるときにその問題や解決をはかるために思考をもちいれば、よりいっそう火に薪をくべるようなことになるという原理も、カールソンは教えてくれる。「悟りの説明書」のようなものである。

 そのような歴史的な重要書と思われるものが、いまでは絶版になって文庫本ですら手に入らない。どういうことなんだろうと思う。

 できれば、小学校のころから思考と感情の因果、思考が見せる現実はじっさいには存在しないことを教えられていたら、わたしのその後の苦悩多き思考好きな人生はいくらか救われたものになっていたかもしれない。

 大多数の人は思考の現実視とそのリアリティの苦悩の世界に閉じ込められているのではないのか。感情は他人や出来事からやってきて、自分の思考がそれをつくりだしているということを知らないし、気づかない。苦悩の泥沼に閉じ込められたままだ。

 われわれの社会は思考しないことは痴呆であり、隷従と脅される社会である。そうやって自分を責めさいなます思考の世界のとりこになって、思考の実体化に囚われて、苦悩の泥沼におちいる。

 思考を捨てることは、自己啓発や新興宗教のアブナイ教義である。「思考こそがわたし」、あるいは「感情こそが自分のアイデンティティの核をつくる」と信じている社会である。カールソンが指摘するような思考と感情の過ちのループに閉じ込められたままだ。

 科学や物質消費社会というのは、思考の存在を忘れて、外界や物質の改善にしあわせを求める社会である。モノを買ったり、物質の改善をおこなうことが人類がしあわせになる唯一の道である。そうやって思考がもたらす苦悩については等閑に付される。

 われわれはハンドルのないクルマに乗せられているようなもので、あちこちにクルマをぶつけて、おまえが悪い、おまえが変わるまでわたしの心は晴れないといっている。こういった過ちに陥らないためには、思考と感情の原理というものをしっかりと知っておかなければならないのである。

 この本ほど人生を変える本はないと思う。


最初で最後の自由(覚醒ブックス)愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)存在の詩 和尚 OSHO人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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