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05 30
2016

強制と自発性

虐待親と20世紀工業社会の労働観のつながり――『毒になる親』 スーザン・フォワード

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)毒になる親
一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

スーザン・フォワード

講談社 2001-10-18
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 親からのトラウマやアダルトチルドレン問題はなんでも親にせいにすると訴えられたりして、もう一巡したと思うが、いまはどうなっているのだろう。いまの毒親問題はより人間関係的なものにシフトしているように見受けられるが。

 わたしは内発的動機づけをとりもどすという文脈からこの本を手にとったので、言外の読み方ができないかという読み方をしたかった。

 エドワード・デシは内発的動機づけの本に「いつわりの自己」問題にも多くのページを割いたが、じつはこの毒親や支配する親というのは同じ問題の違う面をとらえているだけではないのか。親から自立できないという問題が、これらの問題の核心だろう。

 このような支配したり、暴力をふるって思いのままにする親というのは、20世紀工業社会の外発的動機づけで行われてきた労働観や教育観とも重なるのではないだろうか。労働や教育でも、支配者や為政者から自立できないのだ。そしてそれは毒親の子どもが不全感や自己破壊傾向をしめすように、労働者や学生も、真の労働や勉強をできないようにさせるのではないか。

 外発的動機づけや強制的な労働や教育は、本人がどう思うが、どう感じ、行動したいと思おうが、関係なしである。強制や罰則でも、ルーティン作業やマニュアル作業は可能だからだ。子育て観も、この20世紀工業社会の強制的人間観をひきずいっているために、こう残虐で残酷な結果におちいってきたのではないのか。

 子どもやそれを受ける相手がどう思うが、どういう影響をうけるか、効果は考慮にない。それは20世紀の強制的人間観で間に合った工業社会の要請でなりたってきたものではないのか。

 罰則や強制で人間が従う、変わるとそぼくに思われる人間観などが、工業社会の前提にずっと横たわってきたのではないか。そんなわけはないのである、禁止や罰則は怨念やほかの方法をさがすように人間をつき動かす、人間を動かすことは逆説だらけである。

 このような強制的支配観をもった親が、支配的・虐待的な毒親になるのではないだろうか。つまり20世紀の外発的動機づけや強制的労働観などに支配されているのである。それは職場や人間関係でも発揮され、本人の意思や心情、成長などおかまいなしである。強制によって壊されてしまう内発性というのは、そのまま親子関係では、自立と成長のフェーズでもある。

 毒親問題、虐待問題などの神経症的文脈に読み取られる親子関係は、20世紀の強制的労働観や教育観とそのまま同じ文脈をひきずっているのではないだろうか。


 もうひとつ、この本を読んでずっと反発を感じていたことがある。そぼくな唯物論で世界を見ていて、唯心論的な見方をほとんどもたないことである。

 唯物論、科学観というのは、自分の外側に世界や人々がいて、自分はその外界から感情を受けとるものだと思っている。だから自分が悲しんだり、怒ったりすることはすべて他人や外界のせいで、それらを変えないと自分の感情は解消されないと思いっている。

 だけど、唯心論というのは、自分の感情は自分の考えがつくりだしたものであり、感情の責任はすべて自分にある。他人や外界のせいではなくて、自分がどうとらえるか、どう思うかは、自分の責任なのである。

 他人や外界は自分の心のうちにふくまれ、つまり唯心論というわけで、他人のせいばかりにする唯物論をもっている人は、みずから自分を「被害者」に仕立てている人ということになる。

 この無意識にある世界観の前提の違いによって、世界はまったく変わってくる。この前提に無知であるばかりに、いかに自分が他人や世界の被害者であると思い込む人が多いことか。

 親や他人の感情に自分の責任がある、自分の感情は他人のせいだと思い込んでいる人は、このそぼくな唯物論をもっていて、その被害者になっていることにまったく気づいていない。

 わたしがいう唯心論を唱えている人というのは、エピクテトスやマルクス・アウレーリウスなどのストア哲学者、ウェイン・ダイアー、ジェラルド・ジャンポルスキー、リチャード・カールソン、ジョセフ・マーフィー、引き寄せの法則などを念頭においており、つまり自己啓発であり、ニューエイジであり、心理学者はここまでつっ込んで理解している人はあまりいないように見受けられる。

 そぼくに自分の感情の責任は他人にあると思う世界観をもっている人は、無知ゆえの世界観の被害者になりつづける。自分で殴っているのに、他人のせいにしつづける。自分で殴るとは、自分の考え方がそのような感情をひきおこすという因果を知らないということだ。

 毒親や虐待親、トラウマ子どもというのは、この唯物論・科学観の世界観で他人のせいにしつづける因果応報というようにも思える。


人を伸ばす力―内発と自律のすすめ自省録 (岩波文庫)どう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なものモチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)

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05 27
2016

強制と自発性

自分の行動の結果が見えていますか?――『子どもが育つ魔法の言葉』 ドロシー・ロー・ノルト

4569660231子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)
ドロシー・ロー・ノルト
レイチャル ハリス
Dorothy Law Nolte
PHP研究所 2003-09

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 強制と自発性というテーマで本を読んでいるので、人を伸ばす、人を育てるという面では、子育てに話にもつうじるので、このような子育て論にも手をのばしている。

 われわれは自分がおこなった行為や言葉が、他人やまわりのどのような結果をもたらすのか、よくわからずに行動するのかもしれない。

 子どものときに親にしつけられたり、言われた言葉に対して傷ついた気持ちはよく覚えていても、自分が親の立場になると、自分の言葉が子どもにどのような気持ちをもたらすのか、もう押しはかれなくなっている。

 受け手はいつも送り手にされた気持ちをしっかりと覚えている。だけど送り手になると、受け手がどのような気持ちを抱くのかすっかりわからなくなっている。

 それで、ドロシー・ロー・ノルトが書いた詩篇「子は親の鏡」のような親の行った結果の因果を教えてもらわなければならなくなる。

 この詩篇は、アメリカン・インディアンの言葉として加藤諦三に紹介されていて、ドロシー・ロー・ノルト自身が迷惑そうにはじめにで断りを入れている。

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
励ましてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる



 自分のおこないや言葉が、子どもにどのような影響や結果を与えるか。人はそれが見えなくなっている、あるいは見えないものなのかもしれない。

 子どもに注意ばかりしていると自信をうしなった人の顔色ばかりうかがう臆病な子どもになるかもしれないし、人と比べてばかりいたら他人を羨むばかりで自分に価値がないと思い込んだり、欠点ばかり注意していると、世の中の悪い面ばかり見る子どもに育つかもしれない。

 子どもは鏡のように親の行動や言葉を写し、その内面もそっくりひきついでしまう。

 こういう子育て本は、自分もしっかりとした大人に育っているか、ちゃんとした道徳律をもっているのかといった試金石の役割もはたす。子どもの矯正以前に、自分はちゃんとした大人として成長しているのか、そういったことも試されているのだと思う。自分は大人としての関門を通過しているのだろうか。

 わたしのぼんやりした問題意識では、強制されたものがいかに自分を疎外するかといったことや「いつわりの自己」問題の方に関心があるのかもしれない。

 親から独立して、一人の人間として大人として自立して、自分らしく自分のしたいことをする人間に成長できているか。この点でいえば、自立や反抗の問題をあまりとりあつかっていない本ということができるかもしれない。

 大人、ひとりの人間として自立する話は、それを疎外され成長や自立をはばまれた毒親の方こそ問題が見えるかもしれないということで、つぎにはそっち方面の本を読みたいと思っている。

 外発性や強制で育ってきたわれわれは、自立や自分らしい生き方をできるように成長しているのだろうか。思春期に親に反抗して自立心を育てる青年はたくさんいる。だけど世間や企業の常識などに縛られて、そこから自立や成長できない人はたくさんいるのではないだろうか。

 世間や企業からも反抗して、自立することが、われわれの時代には求められているのではないだろうか。われわれはもはや教育や親からのキャッチアップでは成長できない創造と実験の時代を生きなければならないからだ。


10代の子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)毒になる母 自己愛マザーに苦しむ子供 (講談社+α文庫)母がしんどい

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05 26
2016

強制と自発性

キリギリスで生き残れ――『ハイコンセプト』 ダニエル・ピンク

4837956661ハイ・コンセプト
「新しいこと」を考え出す人の時代

ダニエル・ピンク
三笠書房 2006-05-08

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 21世紀に内発的動機づけの必要性を説いた『モチベーション3.0』を読んだために、いささか古い2004年に出されたダニエル・ピンクのこの本をさかのぼって読んでみた。

 ひとむかし前は知識労働者がもてはやされたが、いまはその中の規定作業や反復手順に還元できる仕事は、もはやコンピューターや途上国に代替されるようになっているということで、第四の波の時代になっていると。

 そういう時代には創造性や感情、全体性がますます重要になるということで、陳腐な右脳タイプの賛美が説かれたりしているが、まあ、その詳細や違いを言葉で知っておくことは必要かもしれない。

 要は詩人や画家になれというか、もはや芸術家の仕事でしか生き残れないといっているのだけど、こういうクリエイティブ志向の未来予測って、世の多くを占めるルーティンな仕事といつも別世界感がある。

 ルーティンな仕事はあいかわらず残りつづけるし、フリーペーパーの求人にはそういう仕事ばかり載っているし、クリエイティブなんてどこの世界?といった仕事や会社組織に属する人も多いのじゃないかと思う。なんか現実と違う感はいつもある。

 先端のトレンドにはそういう動きがあって、創造性でしか生き残れない世界もあるが、また日本もそういう世界経済の流れに押し流されるが、ルーティンも低賃金に落ちながら存続しつづける保守的な想像力も必要なのではないかと思う。

 先端的には詩人や画家で生き残れといわれるのだが、これって、アリとキリギリスの寓話でいえば、キリギリスとして生きろということだ。

 日本はキリギリスにあいかわらず冷たい社会なので、アリ的な労苦賛美のなかで、世界経済の中から凋落する転げ坂から抜け出すことができないのだろう。

 義務や強制でつくられたものに人はもう魅力を感じられなくなっている。その人がみずから楽しんでつくったもの、そういうものが求められ、だからこそアリ的な価値観が、魅力を壊してゆく。

 そういう創造社会のなかで、もっと人を動かすエンジンの交換の必要性を感じたダニエル・ピンクは、内発的動機づけの重要性や必要性を強く感じたのだろう。20世紀は外発的動機づけで働かせても、成果をのぞめる生産物の時代であった。しかし創造社会において、外発的動機は、内発エンジンを壊してゆくばかりだ。義務教育はメモリチップの100円の価値しかないといわれる時代に、内面の部分の大きな転換はできるだろうか。

 終章のモノより生きがいの章、人生の意義を探す世界的な傾向も感慨深く、物質的に満たされた工業社会の終わりには、人々はそういうものを強く求めるのだろうと思った。

 人生の意義や自己啓発を探すということは、もはや「宗教の時代」といってもよいと思う。創造の社会は、宗教の時代でもあるのだ。科学的世界観を通過した後には旧来の宗教理解と違ったものがあらわれると思うが、世界観はより主観的に、唯心論的に変わってゆくのだろう。

 キリギリスと宗教がのびのびと生きられる社会に、日本は変わってゆけるのだろうか。従来、禁止されていたものを多く破ってゆくチェンジが必要な時代だといえそうだ。


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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