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05 30
2017

幻想現実論再読

神秘思想の神髄――『識別の宝玉 完訳「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」』 シャンカラ

4434199986識別の宝玉 完訳「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」
シャンカラ
訳・注解 美莉亜
ブイツーソリューション 2014-12-02

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 図書館で借りたのだが、この本は購入して手元においておくべき書だと思った。

 赤線を引けない代わりに、スマホのクリア・スキャナというアプリで、かなりの数の文章の写真を撮った。このアプリ、切り取り画面がすぐにクラッシュしてしまうのだが。

 神秘思想の極北といっていい本だと思う。仏教や禅なら目的としている宇宙との合一が明文化されて、しめされることが少ないのだが、この本ではほぼそれが目的となっていることが説かれる。

 『ギーター』や『ウパニシャッド』の古典インド哲学までは、世界との合一=ブラフマンとの合一が目的とされるのだが、仏教になると心の制御や道徳が説かれるように見えて、キリスト教では行動規範が目的とされるように見えるように思う。

 神といわれるものが世界に遍満していて、すべてであり、あなたはそれであると説かれるのだが、キリスト教あたりになると人格をもった存在として人々の行動をさししめす崇拝の対象になる。骨格にあたる神秘思想は、ただひとつのものと合一化することが目的とされていたはずなのである。

 シャンカラは8世紀のインド哲学者であるが、そういうブラフマンとの合一や肉体からの離脱がしっかりと説かれている。ただの霊魂観なのか、現代では通用しない霊魂=神の宗教観ではないか、と思わなくもないが、古来の宗教者はなぜこのような浮世離れした世界観を大マジメに語ってきたのだろう?

「誕生や成長も、発展も崩壊もなくて
病気も死もなく、変化を経験することがない
そして宇宙の発生と維持、崩壊の原因である
これがブラフマン、あなたはそれである、これを心の中で静観するのだ」



「如何なる差異がなくとも、無存在ではなくて
波一つ立たない海のように静かで
永遠に解放されており、区分された姿を持たない
これがブラフマン、あなたはそれである、これを心の中で静観するのだ」



「変転せずに、無限大であり、不滅である
滅するものでも、不滅のものでもなく、最高で、永遠なるもの
朽ちない喜びであり、穢れなきもの
これがブラフマン、あなたはそれである、これを心の中で静観するのだ」



 この世界にはただブラフマンだけがある。そして海のような存在のひとつの波、ひとしずくが人間であり、物体の世界であると説かれる。個体である人間はブラフマンそのものと区別もなく、べつの存在でもなく、あなたはそれである、と説かれる。古代の神の概念や神秘思想、悟りの神とはこのようなものではなかったのか。

 ほかにこの物質世界の幻影や、あなたは肉体ではないといったことが説かれる。

 いったいにどうすればこの知覚・物質世界を止滅させ、違う世界があらわれてくるのか、まったく不可能な世界観に思えるのだが、これは霊魂観ゆえに可能であるというのだろうか。かれらが説いているのは、ただの霊魂観にすぎないのか。

 『ギーター』や『ウパニシャッド』では古代のこのような宗教観が説かれており、現代ではその宗教観の湖底にふれることはなかなか難しくなっている。だから現在、古代インド哲学をもうすこし知りたいと思っている。

 ただ、この本を読んでの印象だが、言葉や観念を現実のものと思うことの危険性をあまり説いておらず、いきなり知覚世界の幻想性に飛んでいるわけで、その混濁が気にかかる。人は言葉と観念の世界を現実と見なす過ちに陥るから、さまざまな絵空事の苦悩を抱えるのであって、その解放は問題にならないのか。世界と一体化することが苦悩の解放になるのか、いささか疑問である。

 このかれらが説いた宗教観、霊魂観はまったく絵空事と一蹴していいものか、それともかれらが大マジメに語っていた世界観は現代的な知性の水準からも大マジメに検討すべきなのか、よくわからない。

 まあ宗教の基底にある世界観は、このような世界との合一である。それをインド哲学やヒンドゥー教は、ブラフマンやアートマンという概念でわかりやすく提示していて、宗教の秘密というのはこのような古層にしかないのだと思わされる。

 神に帰依すること、祈ることによってブラフマンに近づくことができるといった教説にはひじょうに抵抗感があって、あくまでも懐疑的に理知的にこのような世界観に真はふくまれるのか、といった懐疑だらけのスタンスでこの世界に近づきたいとは思うのだが。

 まあ、世間一般の現実的な人には、このような宗教観はまるで受けつけないのだろうが。

 なお美莉亜という訳者は、堀田和成の宗教法人偕和会の信者のようで、注解にはところどころ信じたくない記述も見受けられるが、たいがいは高い学識レベルはおもちのようだ。

 シャンカラは岩波文庫で『ウパデーシャ・サーハスリー』をもっていたのだが、ちょっと前に整理していまは本棚のどこにも見当たらない。あまり感銘をうけない本として処分したのかな。時宜を得た出会いをしないとその機会を活かせないということだ。



ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)シャンカラ (CenturyBooks―人と思想)シャンカラ派の思想と信仰第5巻 シャンカラの思想 (新装版 インド哲学思想)


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05 21
2017

幻想現実論再読

世界は海、人は波――『インド思想』 北川 清仁

indosiso.jpgインド思想―その経験と思索
北川 清仁
自照社出版 2000-06

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 図書館で借りた本二冊目。

 入門書・概括書というのは、この人の思想をもっと知りたい、この人の本を読みたいと思わせるカタログ的魅力を見せてくれることがいちばんの良書だと思うが、この本は残念ながらそのような感化させてくれる本ではなかった。

 歴史的経緯より思想に的をしぼったという本ということで読書してみようと思ったが、すこしむずかしすぎたのかな。

 ヴェーダから近現代の思想まで紹介しているが、仏教のウェイトも大きくおかれている。インド思想では仏教の紹介はそう知りたくないのだが、仏教はインド思想だったはずだし、その文脈で理解すべきかも。

 近現代では、ラーマクリシュナ、ヴィーヴェカーナンダ、ラマナ・マハリシ、シュリ・オーロビンドといった人たちが紹介されている。いまでも本が手に入りやすいのは、ラマナ・マハリシかな。

 わたしのインド思想への興味は、ブラフマンの世界観であって、偏在し、全世界をおおっているといわれるブラフマンをどのように理解したらよいのかという興味が大きいように思う。

「しかし人々は自己の尊厳を忘れ、世界の喧騒の中をさまよっている。それは、あり余る財を継承しながら、それを忘れ、猟師として森の中をさまよい、ついに、王国を取り戻す王子のようなものである。人々は、自己の聖なる根源を忘れ、生と死の連鎖の中に動転し、始まりのない無知によって束縛されている」



 霊魂観と輪廻の世界観で聞いた話であって、この世界観をそのまま信じてよいかは、もちろん疑問であるが。

「ある男が海を見たとし、だれかが、「さて、海はどんなものか」とたずねたとしよう。その男は口いっぱいに開け「何という眺め、何というものすごい波と音!」と言えるだけだ。聖典の中のブラフマンの描写はそのようなものだ」



 海を見たことのない人に、海の説明はむずかしい。見たことのないものに対して、なにが説明できるだろうか。

「彼はブラフマンの性質を言い表す力がないのだ。あるとき塩の人形が海の深さを測りに行った。水深がどれくらいあるのか、みんなに話したいと思ったのだ。しかしその人形にはそれが出来なかった。水に入るやいなや、それは溶けてしまったからだ。さて、一体、誰が海の深さを報告するのか」



 ブラフマンの世界観は、海のたとえが合うようだ。わたしたちはそこに浸かっていながら、そこにいることに気づかず、説明もできない。未分化、切断のできない世界のたとえとして、海は適合しているのだろう。われわれは物体の個別の世界を見る。

「絶対者はかの海である。一方、あなたも私も、太陽、星、そしてその他の一切のものはその海の様々な波である。何がそれらの波を多様にさせるか? 形態である。その形態とは、時間、空間、因果律であり、すべては全く波にもとづいているのである」



 個体は海の波しぶきである。ブラフマンの世界観とは、この世を海やスープのような一体の世界を想定する。わたしたちの日常の知覚世界とはあきらかに衝突するわけだが、宗教者たちはなぜ古来からこの世界観をめざしてきたのだろう。

「心はそれ自体から世界を生み出し、また、それ自体のうちに収める。自己から心が現れるとき、世界が現れる。それゆえ、世界が(実在として)現れるとき、自己は現れない。自己が現れる(輝く)とき、世界は現れない」



 眠っているとき、知覚も世界も消滅しているが、この世界はどうなっているのだろう。もちろん目が覚めれば世界は存続しているのだが、わたしの意識が目覚めない限りにおいて世界は現れないという点で、世界はわたしである。その世界すべてを自己といってよいものだろうか。

「世界はくり返し現れる夢の現象以上の何ものでもないからである」



 ラマナ・マハリシのことばである。この知覚世界以外の世界を信じることは、われわれにはむずかしい。


インド思想史 (岩波文庫)インド思想史インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)インド人の考えたこと―インド哲学思想史講義 (シリーズ・インド哲学への招待)インド哲学の教室―哲学することの試み (シリーズ・インド哲学への招待)


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05 20
2017

幻想現実論再読

仏教では根本目的が欠落していないか?――『インド哲学へのいざない』 前田 専学

4140841265インド哲学へのいざない
ヴェーダとウパニシャッド (NHKライブラリー)

前田 専学
NHK出版 2000-12-13

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 図書館ではじめて借りて読んだ。赤線が引けないので、スマホのクリア・スキャナーというアプリで、明記したい文章をなんどもパシャパシャ撮った。でも赤線引きたかった箇所をふくめ、全体の把握がむずかしいなあ。

 この本ではおもにヴェーダとウパニシャッドが紹介されていて、ヴェーダが神話であり、ウパニシャッドが哲学であることがわかった。

 バラモン教やインド哲学にひかれたのは、ブラフマンとアートマンの合一であり、「世界はわたしであり、わたしは世界である」という悟りの境地を、わかりやすいかたちで説いているからである。

 仏教になると人格道徳が表に聞こえてきたり、心を清浄にする瞑想が表に立っていたり、世界との合一という目的が見えにくかったりする。この根本目的を見失った仏教は、ほんらいの役割を果たせているのか。

「プルシャより上には、何ものも存在しない。それより繊細なものは何ものもなく、これより広大なものは何ものもなし。唯一者は木のごとく確乎として天にある。このプルシャによって万有は満たされている。
この神は、万物の顔・頭・頸である。万物の心の中にかくれ、万有に遍満する。それゆえにかれは一切処に存在するシヴァである。
プルシャは千の頭があり、千の眼があり、千の足があった。かれはあらゆる方角にわたって大地を覆い尽くして、なお十指の長さを残して立っていた(『リグ・ヴェーダ』)。



 ここではプルシャやシヴァとよばれているが、区別はよくわからないが、インドではブラフマンとよばれているものに相当するだろう。世界や宇宙はそれによって満たされており、あなたはそれである、というのがバラモン教やインド思想の根本思想である。

 そういう全体の方向から指したものがブラフマンであり、個人の側から指したものがアートマンになる。それは同一のものと説かれる。どちらから見ても、それは「ひとつの同じもの」と説かれる。

 わたしたちは個体であり、ひとつの身体をもった有限の存在であると認識するのはごく当たり前の感覚なのだが、インド思想では世界はひとつの身体、ブラフマンという神の身体であることが説かれる。日常の感覚ではまったく垣間見えない世界なのであるが、それはどのようにしたら認識できるようになるというのだろう?

「声なく、触覚もなく、形もなく、消滅することもなく、また味もなく、常住であり、また香りもないものであり、始めもなく、終わりもなく、大いなるもの(個人の本体)よりも高く、恒存するもの(宇宙の本体)、――それを思念して、死の神の口から解き放たれます」



 言葉の分節や境界のない世界を指し、それは不死であり、生もないということだろうか。思弁による世界の否定が、われわれを解放するということなのだろうか。

「それだからアートマンは「…ではない、…ではない」といわれる。それは把握され得ない。なんとなれば、それは把握されないからである。それは破壊され得ない。なんとなれば、それは破壊されないからである。それは無執着である。なんとなれば、執着しないからである。それは束縛されず、動揺することなく、害されることはない。
…じつに偉大な、不生であり、不老不死で、死んだことのなく、恐怖のないアートマンは、ブラフマンである。ブラフマンはじつに恐怖のないものである。このように知る人は、恐怖のないブラフマンとなる」



 把握されないもの、知覚されないもの、認識されないものと一体になることにより、人間は憂いのないものになる。そもそも把握できないものに、それはどうやって把握されるというのだろうか?

「これこそ心臓の内に存するアートマンである。それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいは芥子粒よりも、あるいは黍粒よりも、あるいは黍粒の核よりもさらに繊細である。
しかし、また心臓の内に存するわがアートマンは、大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、これらのもろもろの世界よりも大きい」



 アートマンは極細であり、極大である。それは全宇宙にあまねく遍在するブラフマンであり、おまえはそれであると説かれる。

 インド思想では個体として存在するあり方は仮象であって、全宇宙は一体としてのブラフマンであると説かれる。そしてブラフマン、アートマンはひとつであるから対象をもたず、対象をもたないものは把握も、知覚もされないとする。ずいぶんとジレンマにおかれる説明の体系である。

 仏教思想ではこのブラフマンとアートマンの合一が、すっぽりと抜け落ちて伝わっていることが多いように感じられる。その意味で世界の一体を説くインド思想、バラモン教の知識をしっかりと保持することは大切だと思う。

 まったく咀嚼できない世界観なのであるが、世界との合一がじつにつたわりやすい世界観だと思う。


はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)インド思想史 (岩波文庫)ウパニシャッド (講談社学術文庫)ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

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