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07 08
2019

幻想現実論再読

無知の罰――『愛とは、怖れを手ばなすこと』 ジェラルド・G・ジャンポルスキー

愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー
サンマーク出版



 もちろんこの本は前の翻訳本で読んでいる。大きな影響を受けた本だが、本田健が訳しているのを読みたいと思って、やっと機会を得た。

 この本は認識論の転換の本だ。外界からダイレクトに感情をうけとるのではなく、われわれが判断や主観によって感情を生み出している。この根本的な一点を知らないばかりに、われわれは外界や他人にふりまわされつづけ、他人のせいにしつづける。唯物論から、唯心論の転換の本である。

 自己啓発やスピリチュアルを嫌う人や、このような知識がまるで耳に入らない人は、どうやって外界におこる問題に対処しているんだろうと思う。外界に問題がおこるたびに打ちのめされ、内心での安堵や対処法をまるで知らないではないか。過去の私もそうであったから、なおさらかれらは外界とどう対峙しているのかと心配になる。

 この本のふたつの要点は、感情は自分の考え方や解釈が生み出しており、外界や他人によってひきおこされているわけではないということと、ゆるしによって過去の傷つけられた思いやだれかを傷つけてしまったという罪悪感を断ち切る方法が説かれている。これはつまり、心の主体を外界から自分の考えを主体にとりもどすことであり、過去の断ち切りである。

 われわれは外界や他人になにかされたり、傷つけられると、それを何度も思い出しては、相手に仕返しや報復、心に申し訳ない気もちや罪悪感を植えつけようとやっきになる。これらの従来のわれわれの行動基準を、まるごと断ち切れといっているわけだ。私たちはこの方法しか知らないばかりに、いつまでも過去の痛みをひきずる。報復が終わるまで、それは終わらないというわけだ。

 もう一つこの本で大事なことは、攻撃している人はだれよりも恐れている人だということである。恐れているからこそ、攻撃する。これからそのような人を見るたびに、哀れでかわいそうな目で見ることができる。そうすれば、攻撃的な人の心を溶かすことができる。われわれは攻撃に攻撃で向かおうとするから、かれらの恐れに共鳴することができないのである。これを見抜けば、かれの恐れの心に手を伸ばすことができるようになるだろう。

 やたらと愛、愛ばかり説き、私はこの点の違和感はすこし拭えないのだが、この本は愛やゆるし、恐れといった感情面からのアプローチが多いが、唯心論への転換をいろいろな角度から説こうとしている本だということがよくわかる。この認識の転換というのは、わからない、気づかない人にはさっぱりわからない世界である。気づかないときにはなんのことか、ぜんぜんぴんとこない。ために角度を変えたり、アプローチを変えたりして、それを伝えようとしている。

 自己啓発書のウェイン・ダイアーの『どう生きるか、自分の人生』という本も、外界の犠牲者という言葉で、この本と同じ内容のことを説こうとしている。他人から被害をうけた、だから仕返ししなければならないという考えは、みずから自分を犠牲者にしてしまう考えなのである。私たちはこの唯心論的転換を知らないと、ずっと他人のせいにして、自分を傷めつづける。このカラクリを知らないと、自分で殴っておいて、他人が殴った殴ったといいつづけることになるのである。

「他人から受けていると感じている攻撃が、実は自分の心の中で生まれたものだということに、なんとか気づかないようにしているのです。

私は自分の目に映る世界の犠牲者ではない」



 自分の解釈や考えが私を傷つけている。それなのに、私たちは他人が傷つけたのだと思いつづける。もしその解釈を変えたり、傷つけたと思わなかったり、それをゆるすのなら、私たちは安らぎや平安の気持ちをもつことができるだろう、たったいまこの瞬間から。それを知らないばかりにいつまでも他人の犠牲者だと思いつづけて、痛みを自分でもちつづけることになるのである。

 そしてこのような唯心論的転換は、自己啓発やスピリチュアルという怪しくて、近づいてはならない領域の知識として遠ざけられていて、私たちはこの心の安らぎや平安を手に入れることができない。唯物論、つまり科学の世界観では、心や考えで世界が変わるという考えは宗教であり、精神主義というアンタッチャブルなものであり、一般人はそんな非科学的な迷妄に近づいてはならないと柵を張られている。

 おかげでいつまでも他人が悪い悪いといいつのり、自分で殴りながら他人が殴った殴ったと、だれかの犠牲者になりつづけるのである。この考え方のメリットは、物質主義や道徳の規範を守らせる社会規則の基盤になることができる。だから血や涙を見ながらも、この制度を手ばなすことはできないのである。犠牲者の愚かさに気づいた人は、部分的にでも唯心論を取り戻すべきだと私は思う。もうあのような苦労はこりごりです。


愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫)ゆるしのレッスン―もう、すべてを手放せる (サンマーク文庫)愛と癒し―ジャンポルスキーの「生き方を変える癒しの12の原則」


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07 06
2019

書評 社会学

中公新書から出るとは――『悪意の心理学』 岡本 真一郎



 中公新書からこういう本が出るようになったのかの初見。

 だれでも人の悪口に悩まされると思うが、あるいは悪口とどうつきあえばいいのかとまどっているかもしれないが、本でその知見を深める機会はそうなかったのではないだろうか。悪口の本もぽつぽつと見かけるようになったが、自己啓発書のひとつのトピックくらいにしかあつかわれてこなかった問題ではなかったのか。

 この本はどちらかというと、社会心理学的な知見をならべたような雑感をもったので、具体的にはどうすればいいか、どう捉えればいいかといったハウトウや対処法にはすぐれていなかったと思う。人間の認知や偏見の知見をひろめられるくらいの本に思えた。

 副題にあるように差別的言動のヘイトスピーチという問題が出てきて、悪意や悪口の心理学はひとつの書籍としてまとめられる問題として浮上してきた感がある。

 人は悪口ばかりいう人間にはなりたくないと思ったりするのではないだろうか。でも具体的に嫌いな人や理解できない人に出会うと猛烈に批判的意識がもたげてきて、正義の正当化のもとに制裁欲が、悪口の訓戒をこえてゆく。悪口は当人にとっては、正義なのである。イジメも本人たちは正義だと思っているから、いつまでも終わることはないのだろう。

 「他者のよくない状況に思いが至らない」や「他者の不幸な立場に思いがいかない」といったトピックが本書にあるが、われわれは自分の狭い認知の枠の中に閉じこめられている。さらにそのうえに自分の立場や自尊心を守るといった防衛機能もはたらいて、他者の憎悪や制裁は燃えさかる。

 私がよく見てきたのは、状況や構造のせいにしないで、本人の性格や意志の問題に帰す責め方が多いと感じられてきた。非正規の問題でも、女性差別の問題でも、性格や個人に責任が帰せられて制度や慣習の責任にされない。私たちはそれに支配されているのに、それへの責任にされない。制度や状況の犠牲者やあやつられる者であっても、あたかも当人の意志や決定の力の大きさをあげつられたりする。社会学や経済学を学ぶ意義がここにあるというものである。

 悪意や悪口というのは、根源的に考えられる必要があるのではないかと、この本を読んで感じた。悪意というのは、自分の身を守る防衛機能でもあったりする。つつかないと、自分を守れない。こういう狭い枠から出るためには、鳥瞰的な目が必要なのである。


人はなぜ悪口を言うのか?悪口を言う人は、なぜ、悪口を言うのか (WAC BUNKO 216)〈悪口〉という文化偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析言語の社会心理学 - 伝えたいことは伝わるのか (中公新書)



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07 02
2019

書評 社会学

暗黙のマナーを読み解け!――『儀礼としての相互行為』 アーヴィング・ゴッフマン



 ゴッフマンはわかりそうで、わからないぎりぎりの世界を描いていて、今回もかなり難航した。遠い昔に『演技と行為』を読んで、大切な本として書棚に鎮座しているが、その本がひもとかれることは少ない。

 いちばんわかりやすい表現個所は、精神病院でのナースステーションに勝手に入っていい病棟の違いとか、医者と患者の関係など具体的な例が出てくるとわかるのだが、あとは抽象的な表現の砂漠にこばまれて、理解をとどこおらせる。

 これは具体的には新人やコミュ障があたらしい職場に入って、そこで学ぶ非言語的なルールやマナー、暗黙の決まりなどをなんとか表現しようとした社会学の研究のように思える。新人は職場のそのような言葉にできないルールを知らない。経験や時間がたつうちにじょじょにそのルールになじんでゆき、その場にふさわしいふるまいを身につけてゆく。ゴッフマンはその過程の一段階にふみとどまり、そこでの自覚を言語化しようとした人のように思える。

 職場やあたらしい場にふさわしいマナーやルール、ふるまいをなんとか表現しようとしたみたいだ。たとえば、コミュ障や内向的な人間が職場や新しい環境でどうなじむかという自己啓発的な本はいつも出されているだろう。ゴッフマンはその世界を学術的な表現で昇華しようとした人に見える。そして具体例が少なく、抽象的な言葉で表現しようとしたため、迷宮のような表現になっている。

 人がたくさんいるところで、ひとり言をつぶやいたり、なにかの喚き声や奇矯な声をあげれば、精神的ななんらかの疾患があるのではないかと思われる。これはふるまいや表現のルールやコードに抵触し、健常な人ではないという線引きを逸脱してしまう行為だ。精神病といわれる人のふるまいは、このコードをことごとく破ってしまう行為をおこなってしまうので、かれらは正常人の線引きから追放されてしまう。

 この精神病のラインだけではなく、日常の人の場にはこのようなふるまいのさまざまなルールやコードがある。あたらしい場や職場においては、新参者はその中での適切なふるまいや言動を知らない。非言語的な知見を重ねて、その場にふさわしいふるまいを身につけなければならない。ゴッフマンはその言語化されないマナーやコードを、意識的に記述しようとしたのだろう。

 ところがたいへん残念なことに抽象的な表現がおおく、具体的につかみがたい言語表現がつみかさねられるために、なにをいっているのか、了解をこばむ。これはまだしも内向的な人間や神経質な人間がどう自分を活かすかという自己啓発書を読んだほうが、参考になりそうである。このような社会不安障害的なものをもっていないと、かなり理解できにくい次元をゴッフマンは記述している。ゴッフマンはいまでいうアスペ的なディスコミュニケーションに悩んだ人だったのかもしれないね。

 アスペやコミュ障に悩む人にはなじみのある世界と思われるが、表現の迷宮さは容易に近づけさせてくれない本である。


行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ集まりの構造―新しい日常行動論を求めて (ゴッフマンの社会学 4)出会い―相互行為の社会学 (ゴッフマンの社会学 2)触発するゴフマン―やりとりの秩序の社会学


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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