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06 15
2019

書評 ビジネス書

同質性をやめよ――『「一体感」が会社を潰す』 秋山進



 一体感というより、同質性をやめよという本に思えるが。

 だけど、リクルート生の黒一色を見るにつれ、この国の会社はますますの同質性・画一性が本格化しているように思える。

 同質性をもとめて、みんなで同じ列にならんで競争するような工業社会のやり方ではもうダメだ、多様性に向かい、自分たちが自律的に自分の求めたいこと、高めたいこと、楽しいことを求めて成長してゆく、そういった情報知識社会の図式はずっといわれてきたと思う。だけど、日本の組織はあいわらず画一性の競争の下で、あいかわらず失敗しつづけたのだろうか。

 日本の組織の死にいたる病は克服できたのだろうか。この改革意識の大きなうねりを寡聞にして聞かない。教育だって、自律的な方向に変わりつつはあるように見受けられるのだが、集団統制の規律が厳しい固さはずっと残っているように思える。

 多様性の社会では、勝ち負けの価値観や序列づけが意味をなさない。それぞれが自分のやりたいこと、自分にしかできないことに向かって、自律的に多様性の方向にのびてゆくだけである。横一列にならんで競争や勝ち負けを競う意味がない。

 そういう意味でスポーツ観戦の価値観すら、ご一掃されるような価値観の転換が目に見えたというわけではない。だれかと競うような価値観自体が意味をなさないのが、多様で自律的な価値観の社会である。勝ち負けや優劣を測れるという考え方自体が、同質性を基準にした工業社会のみに求められた価値観ではないのか。野球やサッカーの勝ち負けに一喜一憂する価値観自体が、もう終わりゆく工業社会の名残りなのではないのか。

 日本が集団の価値観から、個人や自立の価値観に大きく変貌したという話はまるで聞いたことがない。


組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのかパワーシフト―21世紀へと変容する知識と富と暴力〈上〉 (中公文庫)モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)なぜ日本企業は勝てなくなったのか: 個を活かす「分化」の組織論 (新潮選書)繁栄のパラドクス 絶望を希望に変えるイノベーションの経済学 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)


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06 04
2019

人生論

目的にするな、自分がなくなる――『「なぜか人に好かれる人」の共通点』 斎藤茂太



 私は人に好かれることなど人生の目標にしてこなかったが、いまの職場の環境がそれをゆるしてくれないようなところなので、あわてて会話術や人付き合いの本を読んでいるところだ。

 私はともかく人に合わせるとか、みんながやっているからお前もやれという圧力に反抗心をいだいた生き方をしてきた。おかげでグループや集団が嫌いになり、避けるようになり、個人としてつきあうことだけを大切にして、やはり嫌われたり、うまく距離を見いだせないこともあった。今の職場のうまい距離感や遊泳術を見いださなければならない。

 いま世間は人に好かれることより、嫌われても自分をもつ勇気のほうがベストセラーになったりする時代だ。人に合わせてばかりて、自分をもてない不幸や不遇に声をあげるような時代になったということだ。

 この本の人に好かれる人の章題をざっと見てみると、やわらかくて、水のように自由に動き、頑固に固まっておらず、ひとりでも楽しめる人といった特徴があげられている。

 この特徴は、私の自己啓発を読んで得たばらばらに入ってきた知識に、総称として似ていると思った。自己啓発では人を尊重するとか、押しつけではなく、好みで人を動かせだの、人からなにかをほしいと思えば、まずはそれを与えよといったことを、いろんな自己啓発から学んだ。こういう方法をつみかさねてゆけば、たしかにこの本に掲げられている人に好かれる人の特徴をもつようになるのだろう。

 全体的には老荘的人物に近いように思われた。知識や固さと真逆の、水のようにやわらかで、融通無碍で、流れや自然にまかせる。それは時間や過去にこだわらない、過去を水に流すといった考えも流れ込んでいて、これは禅的な考えから得られるものだ。人文の知というのは、人と衝突しない、人に好かれる方向に、人を導てゆくものだと思う。

 ちょっと前にツイッターで自分で機嫌を治せる人の大切さがタイムラインをにぎわせたことがあった。自分で機嫌が治せない人は、まわりの人に不機嫌さを治してもらおうとする。この本では書かれていないが、人に機嫌を委ねない人も好かれる人の特徴につけくわえるべきだろう。これはウェイン・ダイアーの他人に感情をゆだねて、他人の犠牲者になる人という指摘に学ぶことができた。

 斎藤茂太はこの本のさいごのほうで、「好かれることを目的にすると、自分の魅力が消えてゆく」というこの本の否定になるようなことをいっている。私もまったくそう思うから、好かれることは目的にしてはならないと思う。これを目的にすると人に合わせてばかりいて、自分ひとりで楽しみを見いだせない人になる。そういうどこにでもいるトガったところのない人は魅力も消えてゆくのである。八方美人の苦しいワナにはまる。

 友達がたくさんいる人、いつも誰かに囲まれている人をこの本ではあげているわけではなく、ぎゃくに「ひとりでも楽しめる人」をあげている。自分ひとりだけでも好奇心をもっていろんな経験をしないと、まわりと同じような話題や興味しかもてず、その人しか知らないような魅力や楽しみを開拓できないのである。友だちがいつもつるむことが目標にされがちなのだが、これでは水が淀んでゆくばかりだ。

 これまでの時代はむしろ人に好かれること、みんなに合わせることばかりを目標にしてしまって、いまは『嫌われる勇気』がベストセラーになる時代だ。人に合わせてばかりいて、自分がなく、自分の楽しみを押しつぶされて、人に好かれるより、嫌われても自分を大事にすべきだと反省する時代になった。斉藤茂太のこの本は、もう時代遅れの本になったのだろう。私も環境がそうでなかったら、こんな本は読みもしなかった。

 自己啓発や人文書をよく読んできたが、総合的に人に好かれる、嫌われない方策を、ばらばらに学んできたのだなという気づきを与えてくれる本になった。ばらばらすぎて、まとまった仕入れをできる分野ではなかったが、人としてのよい生き方も、人文書は教えてくれるものなんだなと、読書もムダではなかったと思えた。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え人を動かす 文庫版大きく考えることの魔術―あなたには無限の可能性がある荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)


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05 21
2019

人生論

五十代からの人生のながめ

 私には年相応の年齢感覚がまったく育っておらず、自分が50年も生きてきたという実感がまるでない。自分がおじいちゃんといわれる年齢感覚なんて、これっぽちもない。

 結婚して子どもができて、子どもが成長してという体験を、自分でもまわりでもほぼ見聞きしていないので、ひたすら年齢感覚の欠如だけが際立っている。まわりの年齢によって、自分の年齢を知るという感覚が、孤独な人生を送ることによって、欠落している。

 いつの間にか五十代になってしまったという感覚だ。それも数字の上の感覚だけであって、それだけの年月を生きてきたという実感もとぼしい。自分が高齢者やおじいちゃんといわれる年齢層に属している自覚など、まるでない。

 ぎゃくに、自分をおじいちゃんと見なすことのほうが、人生楽になれる待遇を手に入れられるのではないかと思っている。おじいちゃんになれば、もう隠居的気分で、まわりの競争やポジションの確保につとめる必要もない。あの人、もうおじいちゃんだからという理由で、同じ土俵にのぼらなくてよい免除の資格を手にいられるのではないか。

 もともと私は会社で出世するとか、偉くなるとかの人生目標に反抗してきた生き方をしてきた。だけど、その職業的地位によって測れる人生評価にさいなまされることもあったわけで、五十代のおじいちゃんになれば、もうそういう葛藤も手放すことができる。もう終わった人だから、競争的価値で測られることもない。競争を下りてよい年代に達することができたのではないだろうか。

 おじいちゃんポジションは、若者たちがいっせいに走り出す競争的アリーナの会場から抜けていい場所なのではないだろうか。

 会社の出世的な地位や、金持ちや貧乏の評価、それから恋愛市場にさらされる男女の関係――そういったいっさいのアリーナから降りてよい年齢が、五十代ではないだろうか。ご隠居の気分で社会に対峙すると、競争的や上昇志向との距離に線を引くことができる。社会の一線からしりぞくだ。もともとしりぞいた人生しか生きてこなかったが。

 世間ではいま45歳以上のリストラが立て続けに発表されている。50代は出世やポストの競争が決定してしまい、大半の方は高給取りの会社の負担と感じる年齢と見なされるようだ。経済界はフラットな賃金体系をつくりたがっており、年功賃金の高い部分をカットしたいみたいだ。終身雇用の終わりなど宣言されるが、非正規がこんなに増えた時代になにを時代錯誤のことをいっているのかと思うが、一部の大企業関連にもまだそういった聖域が残っていたのかもしれない。

 もうどうでもよいという境地も、だいぶ増した。言葉や考え方によって、人生や価値を測るという見方も、だいぶ手放せるようになった。言葉や考え方自体が大切なものではない、もう放り出してよいものだという考えは、仏教や神秘思想で学んだものだ。言葉や考え方でなにひとつ測る必要も、ジャッジする試みも必要ない。人生の前半や多くの人はなにがしかによって人生を評価し、価値づける考え方に囚われているかもしれないが、もうそういう評価すべてを捨ててもよい境地にたゆたっていいと思っている。

 人は他人や社会からの評価を、自分の価値を測るすべてにしてしまい、そのような人生を生きるように社会からセットされる。社会からの評価がすべてであって、私の価値はそのモノサシだけにすべてを決められる。自分のやりたいこと、自分の楽しいこと、好きなことを基準に、自分の人生を評価すればいいのだ、他人のモノサシなんかどうでもよい。それ以上に人生に評価も価値づける必要もない。言葉や考え方によっていくらでも人を評価づけられるだろうが、そんなものもひとつの評価や考え方にすぎなく、また他人にとって都合のいい/悪いのモノサシでしかない。人生なんてあぶくのように消えてゆくものであって、あぶくに良いも悪いもない。

 五十代は年齢だけで組織を牛耳る人たちの年齢層に属せれる年代である。若いときはひたすら上の世代の決定や評価を恐れなければならない年齢だった。若い世代というのは、年上や目上の人の決定や評価にさらされつづけ、萎縮しなければならない年代だったのではないだろうか。そういった年齢によって萎縮しなければならない要素は、学生や若いころに自分の知らないところで重圧になっていたのだと思う。年代が上になってゆくことは、その畏れからも解放されてゆくことだ。自分はエスカレーター式でただ年齢を押し出されたにすぎないのだが。

 結婚の適齢期には子どもがかわいいという感覚はまったく育たず、そこから外れる年代になるにしたがって、子どもがかわいいという感覚がわかるようになったのは、思わぬ発見だった。女の子だけがかわいいと思うのは、やっぱり男の性分か。子どもが自分と違う存在や生き物だという感覚が芽生えた。若いころは自分はまだ子どもの成長から陸続きの感覚があったのだが、いつの間にかそれが途切れて、子どもはべつの小動物になった。やっぱりこれはおじいちゃんの感覚だ。

 恋愛市場にさらされている感覚、女性の目を気にするだとか、男としてのカッコ悪さをさらしたくないという感覚は、年代をへるごとに少なくなってゆき、三十代、四十代とへることによって、女性から評価される目も気にしなくなっていった。恋愛や性の対象や評価としての自分の目も、相手の目も、年をへるごとに失われ、また解放されたもののひとつだ。これは人によっては捉え方はだいぶ異なるのだろうが、私はだいぶこのアリーナから下りれたほうだろう。

 自分には五十代という年齢感覚はまったくないのだが、おじいちゃんというポジションには、下りた人というなかなか魅惑的なカテゴリーがあるようだ。いまの世間的には五十代はまだ出世の高いポジションにいるだとか、偉いさんがいちばん続出する年代であるかもしれないが、私の人生行路からして、隠居したおじいちゃんポジションに擬態することがいちばんメリットがありそうである。いろんな人生評価の競争アリーナから下りた場所を得られるのは、おじいちゃんポジションではないだろうか。

 競争や上昇をめざすことをまったくしなかった人生には、おじいちゃんポストは、やさしいソファを用意してくれているのでないだろうか。



隠居学 おもしろくてたまらないヒマつぶし (講談社文庫)人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)悠々として、人生を降りる <下り坂>にはこんな愉しみ方がある会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点 (PHP新書)50代にしておきたい17のこと (だいわ文庫)



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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