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自己が崩壊しているさまざまな症例の人たちをとりあげ、自己とはどのようにかたちづくられているのかを神経科学方面から解き明かそうとする本である。
私は神秘思想の自我をなくす、自我など幻想にすぎないという知識をため込んできたのだが、この本ではその自我が崩壊して困ったことになっている人たちをとりあげており、自我を滅却させれば困ったことになるのかという疑念がきざす。もっともこの本は崩壊の局面から、自我とはどのようにつくりあげられているのかの側面を解明しようとする立場なのだから、滅却を逆巻きにしていると捉えることもできる。
自分はすでに死んでいるというコタール症候群、自分のナラティブなストーリーが消えてゆくアルツハイマー、自分の足を切り落としたいという身体完全同一性障害、自分の頭が他人の声に支配される統合失調症、離人症、自閉症、ドッペルベンガーや体外離脱、てんかんなどの実例と、その症状のメカニズムが追究される。
統合失調症は自己主体感覚が弱まっており、行為をおこなっても自分がおこなったという行動だと思えなく、それをだれかがおこなった、だから敵だとか陰謀だとかの考えにとらわれるのだという説がのべられている。ふつう人は自分の手でからだをかいてもこそばいとは思わないのだが、統合失調症では自分の手でもこそばいと感じるそうだ。自己の感覚が弱まって、非自己が拡張しすぎた結果なのかもしれないという説が示唆されている。自分の足を切り落としたい人も、自分の足を非自己としか思えない感覚に囚われているのである。
自閉症では身体の感覚やその信号が弱く、統合されず、身体が基準となりえないという説が紹介される。身体という基準がないから予測がむずかしく、毎回あたらしい体験に向き合わなければならない。それゆえに自閉症の子どもはルーティンの行動で自分を守ろうとするのだ。
てんかんの章では神秘体験さながらの恍惚体験が記述されるのだが、ここでの関心は脳のどの部位がそれを発生させているのか、それは島皮質ではないかということが探られる。ドストエフスキーやハクスリーの神秘体験にもふれられるのだが、あくまでも発作としてのてんかん扱いである。神秘体験はただの脳内てんかんにすぎないのか。
私たちが当たり前に見なしている自分があるという感覚、私という存在が身体や行動を制御しているという思い、これらが神経作用のどんな複雑な過程や統合をへて、成り立っているかを、この自己が崩壊した人たちの症例を見せながら解き明かしてゆくのがこの本である。
自我の滅却をめざす神秘思想を探究しているわたしにとって、自我の崩壊した人たちを見ることは、目的の障壁である。ただしナラティブな自己が崩壊しても、身体化された自己はのこるのではないか、たとえばブルデューのいうようなハビトゥスのような自己といった具合に、自我は一層だけで成り立っているわけではないことも、この本ではのべられている。
ナラティブ=物語的な自己が崩壊するのはアルツハイマーで見られる。自分のことを思いだせず、しまいには生活の局面でもその必要な行為がおこなえなくなってゆく。たとえ自分を忘れても自転車に乗れていたのが、自転車にも乗れなくなるようなものだ。神秘思想がめざすものはもちろんここまでの自己の滅却ではないだろう。
統合失調症のように非自己の境界が自己を侵食していって、乗っ取られたような感覚に陥ったり、身体完全同一性障害のように自分の足が非自己に感じられるような非自己の拡張を、神秘思想がめざすものでもないだろう。自我の滅却と自我の崩壊、似ているようで違うこの狭い隙間を、踏み外さないように気をつけなければならない。
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この本は人間性心理学やトランスパーソナル心理学の延長上にある本である。1981年、89年に出された。
アメリカには東洋宗教が押し寄せて、瞑想や東洋の叡智がもてはやされているが、ユダヤ教神秘主義にも優れた心理学的洞察がかずかず埋もれているのだといった宣伝のような本になっている。
科学的成果がはなばなしかったころ、神秘主義のような遅れた迷信のような知識に学ぶものはなにもないと思われていたのだが、科学の限界や破綻、また最新の物理学がもたらす知見によって、ますます神秘主義の知恵が時代遅れよりか、そのはるか先をいっていたのだといった主張が著者のスタンスである。
フリチョフ・カプラの『タオ自然学』のような知見、また精神と身体は驚くほど密接につながっているという心身一如の思想は、ユダヤ神秘主義にはるかに学ぶものがあるのだということである。
私はキリスト教神秘主義やイスラム神秘主義も手を出したし、ユダヤ教ものぞいてみるかとこの本を手にとった。瞑想であるとか、自己滅却への道、礼拝における瞑想の共通点など、世界の神秘主義はどこも共通の思いが強くなる。文化的な外皮がちがうだけで、みな同じものをめざしていたという認識だけが高まる。
神秘主義は、全体や宇宙との合一をめざす実践やその知識である。人間は身体に限界づけられた存在ではなく、全体や宇宙そのものと同一できるのだといった実践・思想運動である。その全体はブラフマンのように抽象的な存在になり、人間のすがたかたちをまとった神は登場しない。それゆえに人格神の信仰なんてまるでもてない私でも、この神秘思想だけは宗教の障壁をするぬけられる。私の宗教アレルギーは根強いのだけど、宗教書ばかり読んでいる風貌になってしまっている。
神秘主義で大事なのは、その過程において言語と思考でつくられた観念世界の離脱がこころみられることである。私たちはこの言語の観念世界だけを現実とみなし、この世界だけが唯一の世界となってしまっている。その中で感情し、悲嘆や苦悩に暮れ、絶望の淵につきおとされる。神秘思想はこの言語・概念世界の離脱や、思考による自我の非同一化をめざすがゆえに、心理セラピーやわれわれの苦悩や悲嘆の脱却もふくまれるのである。そこにこそ、神秘思想の学ぶべき価値がある。私はこれを多く語った神秘家に価値をおくわけである。この書には残念ながら、それが語られることはなかったのだけど。
その意味で言語や思考の離脱をあまり語ることのなかったユダヤ神秘主義の探究についやすべきなのかの疑問が残った。ユダヤ神秘主義の奥義書とされる『ゾーハル』は法政大学出版局で読めるが、すこしためらいが出てきた。ゲルヘレム・ショーレムの『ユダヤ神秘主義』も同様である。言語観念世界の離脱を説いた神秘家なら、ヒンドゥー教のニサルガダッタ・マハラジのほうがより多く語っている。
カバラ―やユダヤ神秘主義の一般的なイメージや書物は、「生命の木」や「タロット」、「秘数術」といったやたらオカルト・秘教めいたイメージがあふれかえっている。そういった神秘めいた謎を追いたい人だけにしか心がときめかないジャンルとなっている。心理学としてとりだそうという試みはわずかに思える。禅の瞑想がマインドフルネスとして市民権を得るような活路を、ユダヤ神秘主義がいつか得ることはあるのだろうか。
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いい本であった。インド哲学の「なぜそれを考えるのか」、「なぜそれを考えなければならなかったのか」のつながりがよくわかって、インド哲学の系譜や脈絡がわからなくなった人には、一本の筋や道すじが通った理解を手にできるだろう。
この本はまたインド哲学の「宇宙と自己の同一性の経験」という一大テーマに的をしぼっているのもいいだろう。「ブラフマンはアートマンである」と「汝はそれである」という一大テーマをめぐって、インドの宗教や哲学はその真理を探究してきたといえる。
そもそもこの日本ではなぜインド哲学やヒンドゥー教に興味をもつのかわからないだろう。私なんかはトランスパーソナル心理学と出会って、宇宙との一体化や神秘体験というものがあるのを知って、そんな体験がほんとうにあるのかという興味がつづいている。
それをおおむかしからいっているのがインド宗教――バラモン教なのであって、広大無辺で、語ることもできず、かたちもないブラフマンというものと合一できるといってきたのだがインド宗教の原初なのであって、インドはその宇宙の根本原理というものの一体化をずっとめざしてきたのである。キリスト教のような人間のかたちをとった神ではなく、目にも見えず、語ることもできず、偏在し、不変であるブラフマンという現象と一体化できるといってきたのがインドである。これは神秘思想そのものであって、キリスト教では「私は神である」という異端の思想をずっと奉じてきたわけである。
ではブラフマンとはなんなのか。一切万物がブラフマンなら素材なのか、力なのか、かたちあるものの背後に潜む力なのか、エネルギーなのか、モノなのか、生命を生み帰る源としたらエネルギーの基体なのか、疑問だらけになる。もしブラフマンと合一できるのなら、身体と世界の境界はどうなるのか、精神や魂といったものが一体化するのか、ではわれわれはそれなのか、なにが合一するのか。そういった現代的な疑問には答えてくれるわけではない。
この本で鮮やかに説明されているのだが、そういうバラモン教の中にブッダは、そういった問題をいっさい断って、自己の「周囲世界」以外の世界をいっさい認めなかった。心身以外の世界を投げ捨てたのである。苦しみの輪廻から解放されることが第一であり、悟りの知恵を得ることが重要であるといった。仏教はインドの一大問題をたやすく放り出したのである。
仏教のアビダルマやヴァイシェーシカの哲学者たちは外界の実在を認めたが、ブッダは周囲世界以外を認めず、唯識哲学はさらにその唯心論的態度を継承したといえる。唯識はサーンキャ哲学の仏教版といわれているが、インド哲学のあいだにおいても思想の対立が果てしない。けっきょくいろんな哲学学派がおこっては入れ替わり、悟った人がいるにしても、真理や絶対はこれまでも統一されたことがないのだという展望が残り、残念である。
ヴェーダやウパニシャッドでは「止滅の道」は萌芽的にすぎないといわれるが、仏教やヨーガ行者にとっておもな実践方法であった。俗なるものを滅ぼして、聖なるものを輝き出させる。これを「ニヴリッティ・マールガ」というが、シャンカラもこの現象世界は無明による仮現なのであって、その止滅の果てにブラフマンという実在が輝き出るのだといった。インドはこの聖なるものをずっと追い求めてきた歴史だといえる。
11世紀のラーマーヌジュの時代になると、生活や生産を肯定的に見るような時代になり、仏教やシャンカラのような止滅の道や現象世界の幻といった考えは人気を失い、信仰の対象となりえなくなる。色もかたちもない絶対者をめざせなくなる。ヴィシュヌやシヴァといった人格神が人気となり、仏教は勢力を失っていたのである。
宇宙や宇宙原理との一体化といっても、こんにちではそんな荒唐無稽な話をなぜインドが三千年も奉じてきたのかぴんとこないだろう。私はその目的の途中に、思考や言葉による世界の離脱というセラピー効果の絶大なものに出会い、この道から離れられなくなった。自我も想像上のものであるという知恵もこの途上にあった。苦悩や悲嘆の解消という方法は、たしかにこの道にあったのである。宗教という忌み嫌われるものであったとしても、途上に宝を見つけてしまったので、この道を外れることができない。