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07 23
2017

幻想現実論再読

言語否定としての神秘思想――『超越と神秘』 鎌田 繁  森秀樹編

255556.jpg超越と神秘
―中国・インド・イスラームの思想世界
(宝積比較宗教・文化叢書)

鎌田 繁  森秀樹編
大明堂 1994-03

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 中国、インド、イスラームの神秘思想を、それぞれの思想研究者が検討したいくつかの論文がおさめされた書。

 図書館ではカバーなしの新刊書店で見かけないような体裁でおかれていたが、箱カバー本なのね。

 神秘思想というのは、超越者や絶対的な存在との合一体験だといわれているのだが、言語フィルターの解除という側面を捉えるほうが今日的感性としては、より受けいれやすくなるのではないだろうかと思うのだが。

 唯識学者の横山紘一の「言葉で語れないもの」がいちばんよかったのだが、神秘思想という言葉はミステリアスなニュアンスが強く、言語的側面を強調するほうがより健全に捉えられやすいだろう。

「その言葉で語れないものを知らないからこそ、自我を立て(我見)、自我を誇り(我慢)、自我を愛する(我愛)ことになる。しかし自我を立てること以上に、「有」と「無」という言葉を発して、存在するものを実体的に捉えてしまうところに、最大の、そして究極の問題がある。

では我々がそこに帰りいくべき世界とは、どのようなものであるのか。それは、繰り返し述べたように、「言葉で語れないもの」である。なぜなら言葉で語ったものはすべて仮なるもの、虚偽なもの、真実でないものであるからである。仏教は、その開祖・釈尊自身からして、「言葉によって形成された世界」を戯論とよんで、その虚妄性を、また人間の言葉を用いた思考を「分別」とよんで、その働きの虚偽性を強く主張した」



 いまのわたしは、言葉の虚偽性より、実在しないことの驚きにとらわれているのだが、言葉であらわす世界が存在しないことの追求のほうがもっと大事に思える。

 人間は、実在しない世界を言葉によって補っている。その壮大な様は、そこまでだまされていたかという感がする。過去であったり、目の前にない通過してきた場所や空間、そして過ぎ去った自分の行為や業績、出来事。それらすべて言葉や記憶で補うものは、もうどこにも存在しないものなのである。

 この存在しなくなったものをあたかも現実にあるかのごとくに捉えるから、人間は求める方向をまちがったり、存在しない虚構の悩みや苦悩に囚われる。神秘思想はこのことを語ってきたのではないのか、合一思想以上にと思うのだが、合一思想は神の崇拝や服従性を増してしまい、やっかいな禍根をのこすのではないかと思う。

 インド思想研究者の宮元啓一は、原始仏教や部派仏教までは、合一思想、神秘主義ではないといっている。インド思想はブラフマンやアートマンとの合一を説く思想が主流なのだが、初期仏教はただ現世の苦悩からの解放だけをもとめたのだろうか。

 このインド思想のパートのほかに、中国、イスラーム篇があるのだが、イスラーム篇では天使的存在との邂逅といった論もあり、よくわからない世界であった。イスラーム思想なら井筒俊彦に学ぶべきだな。

 ほかに「超越:他者を見捨てて何処へ?」の丘山新の論文も興味をひかれて、インドの現世否定と中国の現実肯定の対比がおもしろい。老荘のタオはインドのブラフマンとひじょうに似ているのだが、インドでは解脱や合一がめざされ、老荘では現実の再肯定として用いられたと著者はのべる。中国は現世主義、現実主義なのである。日本では現世からの超越という背景はないね。


神秘主義 (講談社学術文庫)合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)スーフィー―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘ユダヤ神秘主義 〈新装版〉: その主潮流 (叢書・ウニベルシタス)


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07 22
2017

幻想現実論再読

西洋哲学と仏教のあいだ――『心に映る無限』 長谷 正當

483183825X心に映る無限―空のイマージュ化
長谷 正當
法蔵館 2005-09-15

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 リチャード・カールソンやケン・ウィルバーに出会わなかったら、仏教や東洋宗教は理解できなかったわけで、西洋的な説明スタイルがないと日本的・東洋的なものすら理解がおぼつかない。

 この長谷正當という人は、ベルクソンやレヴィナス、ハイデガーなどの西洋哲学を語りながら仏教などの宗教も語る論者なので、読んでみたが、理解もおよばず、興味のひかれる論考もあまりなかった。

 西田幾多郎や田邉元、西谷啓治といった禅を西洋哲学と語ろうとした京都学派に近い立場の人に思えるのだが、どうもこの系譜の人たちは、禅や宗教をよけいにわからないものにしているという私見しかもてない。おそまつ。

 本書にはいくつかの論文がおさめられていて、興味をひかれた論考に「宗教と構想力」があり、わたしは言葉の非実在性や創作性といったものを問題にしたいと思っているから近いことを語っていると思われたが、ちがった。

 「空のイマージュ化」というのは、情念が虚空や環境にうつることという西谷啓治の言葉らしいが、わたしは言葉の創作能力を否定的に捉えたい立場なので、肯定的に捉えていそうな立場とは相いれない。

 「他者と無限」というレヴィナスの思想紹介のような論文もあったが、レヴィナスってなにいっているかわからないなあw。

 著者には『象徴と想像力』という著作もあるらしいが(アマゾンでは見つからない)、わたしは人間の言葉による壮大なフィクションを剥がしたい思いがあるので題材的には興味ありそうだが、それを否定的に捉えていないのだろうか。

 禅や仏教を西洋的説明スタイルで説明されたほうが、わたしには理解に近づきやすい。心理学や認知論、生物学といった次元で理解したいと思う。しかし西洋哲学はぎゃくに難解すぎて理解を遠ざけることもあり、わかりやすい西洋的な詳細な説明スタイルがほしいなあ。


善の研究田辺元とハイデガー (PHP新書)宗教と非宗教の間 (岩波現代文庫―学術)三木清全集 (第8巻) 構想力の論理象徴の想像力


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07 17
2017

映画評

この瞬間は永遠の別れ――『ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』 七月 隆文

4800226104ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)
七月 隆文
宝島社 2014-08-06

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 映画が好きすぎてずっとこの物語空間にひたっていたくなるので、原作のほうもあじわうことにした。

 この物語のよさは、さいしょの出会いが、最後の別れであるという、いまこの瞬間が永久に帰ってこない、二度ともどらない貴重な瞬間を告げていることだからだと思う。

 この瞬間、この時間はいちど過ぎ去ってしまえば二度と戻らない。この瞬間は永久に去ってしまうのだが、人はその貴重さを忘れて、同じことのくりかえしや明日も同じことがずっとつづくと思っていたりする。きょうの出会いが永遠の別れだと思いもせずに、人は時間をまんぜんとすごす。

 この物語はパラレルワールドという設定をつかって、出会って親しくなってゆくいちばんうれしい瞬間を、彼女にとっては永遠の終わりになってゆくという悲しみを重ねたことに、消し去りがたい余韻をひきずってしまうのだと思う。

 それは自分が思っていた感情とまったく違っているものを相手や他者はもっているとかもしれないという驚きと距離を与えて、秘密を知ってからの彼女の心の動きをなんども確認したくなる感銘を与えるものになっている。

 タイム・パラドクスものは過去をひたすらやり直すことにこだわってきたのだが、この物語では時間を変えられないいまこの瞬間の大切さが説かれるターニング・ポイントとなる記念的作品になるのではないかと思う。

 原作のほうはセリフばっかりのラノベ文体で、地の文のすくなさが、映画の重みとくらべて軽すぎるように思えたのだが、地の文の多さが作品の深さと思い込むのは、わたしの偏見にしか過ぎなかったのだろうか。

 映画は克明におぼえているので、原作との違いもよく見えて、変えた場所やセリフを抜いたりしたことにどんな意味があったのか考えさせられた。

 映画では宝ヶ池で高寿が溺れたことになっていたのだが、原作では震災で愛美に助けられたことになっている。

 宝ヶ池で溺れて助けた設定のほうが、命のつながりを示唆する内容としては優れていると思う。おおむかしの人は泉や川に誕生前の命は宿っていると思われていて、だから現代でもその言い伝えが残っていて、たまに橋の下で拾われたとか親にいわれたりする。生命の誕生や再生には、かたちのないものに戻る水は、大切な象徴を担っている。

 映画ではさいしょの出会いに駅のホームで語り合うのだが、原作では宝ヶ池まで歩いてゆくことになっている。「また会える?」と聞いて、彼女は泣き、抱きつくことになっている。ほかにも原作のほうが、彼女の気持ちの深いところを表現しているね。

 宝ヶ池はパラレルワールドとの境界に位置し、その近くの施設に住人が暮らしていることになっている。

 デートの場所が、金閣や清水、銀閣寺にもいくことになっていて、映画では伏見稲荷になっているが、あの数多くの鳥居の並びが時間の象徴として適していたと監督のインタビューで聞いた。

 愛美のセリフが、小松菜奈の独特なイントネーションやクセにかぶって思い出されて、この女優は強烈な印象を残すんだなと。失うことがわかっているからこそ、愛しさは深まる。

 映画では、ラストに愛美がたどった日々をうつしだすのだが、原作ではさいしょの出会いにたどりついた場面だけである。映画でもこの愛美のたどった日々をもっと深く描いてほしいと思ったが、この秘密を知った上での彼女の心の動きがたまらなく愛しく切ないのである。

 映画から先に見て、映画で気に入ったから、原作の小説のほうは映画みたいに気に入ったわけではない。わたしのなかでは映画のほうが勝ちである。原作から先に読んだ方はどう思ったのでしょうか。

 映画が好きすぎて、余韻とこの物語空間に戻りたい気持ちがまだ沸いてきて、困ったものだ。


ぼくは明日、昨日のきみとデートする DVD通常版
東宝 (2017-06-21)
売り上げランキング: 520



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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